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第43回
エドガー・フローゼ
推薦盤「MACULA TRANSFER」

 どこかの掲示板で、ツメタイイキノママ....の音楽がよくわからない、という発言を見かけた。それはある意味で正解であり、ある意味でしかたのない結果である。つまりは、この「ツメタイイキノママ....」を、「非常階段」と差し替えたところで意味は同じだし、「ノイズ」とか「アングラな音楽」と置き換えたってよいのだ。つまりは理解力の問題であって、理解力とは、つまり漢字の多い文章や複雑な言い回しが理解できるかどうかといったことに例えられるような、音楽への理解力の問題であり、また特殊な音楽の独特のニュアンスを感じる感性があるかどうかという問題も、しいては理解力という部分に至ると思う。つまり、単純明快な音楽、例えばヘヴィメタと呼ばれる音楽は、言い方が悪いが「バカ」でも理解できる音楽であるし(だからといって全てがろくでもない音楽であるとは思わないが)、そういう意味では、少し理解しにくい音楽も当然この世の中にあるわけである。タチが悪いのは、そういった理解しにくい音楽を理解できる(と思っている)リスナーが、ある種の優越感を持って、それこそヘヴィメタのリスナーをバカにするような風潮も依然存在するところであるかもしれない。
 

 しかし、どうしても理解力を超える音楽は、存在する。だからこそ音楽を聞くことが楽しいのであり、新しい音楽を聞く喜びもあるのだ。前出の輩は、理解できないことを吐露した分、正しいし、偉い。今はわからなくても、多くの良質の音楽を聞いていけば、やがてIdiotの音の意味や美しさ、重さに気がつく時が来る。その時まで感動する瞬間を一時預けておけばよいのだ。決して恥ずかしいことではない。
 

 これは音楽でも映画でも文学でもそうだが、基本的な素養を飛ばしてマニアックな知識ばかりを得た者、通俗な路線から外れるものを無視する者、最終的にアカデミックであることから抜け出せない者、マニュアル人間などには、少しいびつな世界を深く理解することは難しい。基礎的な作品も消化した上で、その上の作品やいびつな作品も消化した時に、理解力は深まる。音楽なら、量を聞くこと、そして探しながら聞くこと。
 

 そう、コツは「探しながら"聞く""見る""読む"」こと。私がやってきたことは、このことにつきる。ゴミのような音楽に大枚をはたいたり、つかまされたり、がっかりしたことも多数あるが、それはちゃんとコヤシになった。そして普通のものに普通によいものがある時もあるし、普通に見えて普通でなかったこともあるし、ゴミが宝にかわったこともあるし、ゴミがゴミのままであることもある。要はそのことに気がつくことである。
 

 今回紹介するエドガー・フローゼの3枚目のソロアルバム「macula transfer」なんかは、かなり難易度の高いアルバムである。おおよそ、このアルバムを持っている人も少なければ、気にとめている人も少ない。また持っていたり、聞いたりしたことのある人でも、このアルバムが良いと思っている人は、かなり少ないはずだ。このアルバムの前の作品「epsilon in malaysian pale」も私は大好きな作品だが、このアルバムが初めて日本盤で発売された時、テープを逆回転でLPレコードにプレスされてしまいながら、しばらくは誰も気がつかなかったという逸話があるほどで、つまりは理解されない音楽であったのである。
 

 しかし、この「macula transfer」の、ギターとシンセサイザーによるチープなサウンドでありながら、そこに展開される音楽のおもしろさは格別である。語るなら、1曲目のギターのピッキングひとつに、おもいっきりにフローゼの独特の世界に引き込むパワーがあるのだ。唐突な展開、なぜここにその音があるのか?と思わせる配置、意識と無意識の境界とはこのことか?と感じるほどのトリップ感。まるでナゾなアルバムである。
 

 まあ、誰もがこんな音楽の得体の知れないおもしろさを語らなくてもいいが、たどり着く過程に、やがて意味があることを、後から知るだろう。
 

JOJO広重 2002.7.4.



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