ハザラ人であることは、もはや罪であるとみなされるべきではない−これがわが国民に対する、われわれの唯一の願いである。

 −ウスタッド・アブドゥル・アリー・マザーリー(ハザラ人勢力「イスラーム統一党」創設者)
  

 
在日アフガニスタン難民と「タリバーン後」のアフガニスタン
〜日本政府は「タリバーン政権崩壊」を難民不認定の理由とするな〜
  


  
 
< 要 約 >
  
アフガニスタンではタリバーン政権が崩壊し、各民族・軍閥などが群雄割拠する状況が生じている。
ハザラ人にとってここ数年で最大の迫害者だったタリバーンが去ったことは、ハザラ人への迫害がなくなることを意味しない。
1993年、マスード将軍麾下のタジク人勢力「イスラーム協会」軍がカーブル西部アフシャールで
1000人以上のハザラ人を虐殺した記憶から、ハザラ人たちは他民族による迫害の緊張の中で生活を営んでいる。
また、イランやパキスタンの難民キャンプでも、ハザラ人はモンゴル系の風貌から摘発や強制送還の格好の対象となっている。
これらに鑑みれば、ハザラ人は現在においてなお、
アフガンでも、その周辺諸国でも、民族を理由とした迫害の十分に理由のある恐怖を有するのである。
  
日本政府はタリバーン政権の崩壊を理由に、
ハザラ人などアフガン少数民族の難民認定を拒むべきではない。
 

<Contents>
1.四分五裂するアフガニスタン
2.ハザラ人への迫害者はタリバーン政権だけではない
3.現在のアフガニスタンの状況とハザラ人迫害の危機
4.イランやパキスタンでも迫害されるハザラ人たち
5.「十分に理由のある迫害の恐れ」はアフガン和平実現まで続く
 
 

1.四分五裂するアフガニスタン

 現在、日本にいるアフガン難民申請者の多くは、モンゴル系でイスラーム教シーア派に属するハザラ人の人々です。彼らは1996年にアフガニスタンの首都カーブルを制圧したパシュトゥン人主体のイスラーム教スンナ派原理主義勢力、タリバーン政権の民族虐殺政策に直面してアフガニスタンを逃れ、様々な経路をたどって1998年以降、数十名から百名が日本にたどり着いています。この9月にいたるまで、タリバーン政権は北部に猛進撃をかけており、彼らの全土制圧は時間の問題といわれていました。 
 ところが、2001年9月11日に起こった米国同時多発テロののち、米国は首謀者をサウディ・アラビア出身のアラブ人ウサマ・ビン=ラーデンと断定、10月8日以降、ウサマ率いる武装組織アル・カイーダとこれを庇護するタリバーン政権に対して猛烈な空爆を開始、タリバーン政権と対立する少数民族の連合組織、北部同盟 Northern Alliance もタリバーンに攻勢をかけ、11月14日までにタリバーン政権は主要拠点カンダハールをのぞくほとんどの地域から撤退するに至りました。現在アフガニスタンは、首都カーブルをタジク人を中心とするイスラーム協会 Jam'iyat-i-Islami を中心とした勢力が、北部の都市マザーリー・シャリーフをウズベク人のドスタム将軍 General General Abdul Rashid Dostam 派が、西部の都市ヘラートをイスマイール・ハーン将軍 General Ismail Khan 派が、そして中部の都市バーミヤンをハザラ人勢力イスラーム統一党 Hezb-e-Wahdat が制圧する形となり、また南部についてはカンダハール周辺をタリバーン勢力、東部ジャララバードをイスラーム党ハリス派 Hizb-i-Islami (Khalis faction) が、またその他の地方については復活した各種軍閥などが支配する形となっています。 
 98年にマザーリー・シャリーフで6000人、2001年にヤカオランで1000人のハザラ人を虐殺したタリバーン政権はハザラ人に対する、ここ数年間で最大の迫害者でした。しかし、タリバーン政権はいまや、アフガン政治の表舞台から姿を消しつつあります。この政治変動で、アフガニスタンにおけるハザラ人の人権状況は改善されたのでしょうか。ハザラ人にとって、アフガニスタンは安全な場所になったのでしょうか。 
  

2.ハザラ人への迫害者はタリバーン政権だけではない
  
 この問にこたえるために、1989年のソ連撤退後の内戦においてハザラ人がたどってきた軌跡を簡単に振り返ってみましょう。 
 ハザラ人はパシュトゥン人、タジク人、ウズベク人とならぶアフガニスタンの4大民族の一つですが、他の民族とは際だった違いがあります。それは、様々な混淆はあるものの基本的にはモンゴル系であるということと、他民族がいずれもイスラーム教スンナ派であるのに対して、ハザラ人はイランと同じイスラーム教シーア派(12イマーム派)であるということです。そのため、ハザラ人は以前から、他民族によって有形無形の差別を受け、ときには他民族による虐殺の対象となってきました。 
 ソ連撤退後の内戦期に起こった、ハザラ人への迫害と虐殺の典型的なケースを紹介します。 
 1992年、親ソ派のナジブッラー Najibullah 政権の崩壊により、国家権力は正式に、対ソ戦争を戦ってきた各民族の戦士たち(ムジャヒディーン)に移行します。暫定政権の大統領に選ばれたのは、イスラーム協会を率いるタジク人指導者、ブルハーヌッディーン・ラッバーニー Burhanuddin Rabbani でしたが、この政権はスンナ派の各勢力で構成され、シーア派のハザラ人たちの勢力であるイスラーム統一党などはこの暫定政権から排除されてしまいました。 
 イスラーム統一党は、国民の25%を占めるハザラ人を代表する立場から政権への一部参画を要求しますが、他勢力はこれをことごとく拒みました。結局暫定政権は92年のうちに四分五裂し、各派がカブールを分割支配して内戦に突入しますが、その中で1993年2月、タジク人勢力によるハザラ人虐殺事件が発生するのです。 
 虐殺の舞台となったのは、カーブルの西部にあるハザラ人の集住地域、アフシャール Afshar とカルテフ・サヘ Karteh Sahe 地区です。1993年2月11日午前1時、この地域にあった「社会科学研究所」が、タジク人が率いるイスラーム協会の軍隊と、イスラーム教スンナ派の厳格派であるワッハーブ派勢力である「アフガニスタン解放イスラーム同盟」(サッヤーフ Sayyaf 派)によって三方から攻撃されます。引き続いてラッバーニーの副官アフマド・シャー・マスード Ahmad Shah Massoud に率いられたイスラーム協会の軍がアフシャールとカルテフ・サヘ全域に攻撃を加え、イスラーム統一党の構成員だけでなく、ハザラ人の一般市民も含め24時間のうちに700人以上を残虐な方法で殺害。国際人権監視団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」によると、1000人以上のハザラ人が虐殺されたとされます。 
 その後の内戦においても、イスラーム統一党はマスード麾下のイスラーム協会・タジク人の軍隊から何度も攻撃を受け、抗戦してきました。1996年にタリバーンが首都に入城して以降は、イスラーム統一党の創設者であるマザーリー師がタリバーンによって殺害されたことや、主要な支援国でタリバーンと対立するイランの影響などもあり、タリバーン政権と対決する各民族のムジャヒディーンの連合組織「北部同盟」(正式名称はアフガニスタン救国統一イスラーム戦線)に参加し、反タリバーンの一致点で共闘することになります。しかし、上記のような経緯を抱える以上、「北部同盟」の主流派であるタジク人のイスラーム協会とは大きな溝が引かれているとも言えるのです。 
  
3.現在のアフガニスタンの状況とハザラ人迫害の危機

 2001年11月、米軍の猛攻によって極端に弱体化したタリバーン軍は主要都市全てからカンダハールへの撤退を開始、12日には北部の主要都市マザーリー・シャリーフがウズベク人のドスタム将軍によって、14日には首都カーブルがタジク人のイスラーム協会を中心とする軍隊によって制圧されました。その後、首都カーブルは基本的にイスラーム協会の軍隊が支配しています。 
 BBCニュースの11月21日の報道によると、カーブル西部のハザラ人集住地域も含む市内全域が、タジク人のイスラーム協会軍によって制圧されており、治安維持のためのパトロールもイスラーム協会の軍隊のみによって行われています。ハザラ人たちはこれに強い不満を持っています。BBCニュースは、ハザラ人の共同体指導者の次のようなコメントを紹介しています。「イスラーム協会の兵隊がカーブル全市を掌握している。我々は、我々の部隊をパトロールに参加させるべきだと要求している。この政府は出来てからまだ2、3日しかたっていないのに、事態を難しくしている。パトロールに参加するのは、(タリバーンに対して戦ってきた)我々の権利だ」 
 11月17日のAFPの報道によると、ハザラ人の中心勢力であるイスラーム統一党が、首都カーブルの西40キロにある町ジャルレス Jarles に進駐。イスラーム統一党の指導者ハリリ師は、「(イスラーム協会のように)カーブルに進軍するつもりはない」と述べていますが、その主要な目的は、タジク人が支配するカーブルで起こるかも知れない迫害からハザラ人を守ることです。AFP通信によると、ハザラ人指導者アンワーリー氏は「カーブル市内に国連軍が進駐することを希望する。カーブル市内から国連軍以外の武装勢力を排除すべきだ」と述べています。 
 さらに、ハザラ人たちは11月26日からドイツのボンで開始されるアフガン和平のための国際会議に、北部同盟とはべつに自らの代表団を組織することを決定しました。北部同盟の代表団に依存すると、国際会議でハザラ人の存在が無視されてしまう可能性があるからです。 
 このようにハザラ人たちは、タリバーンの撤退を基本的には歓迎しているものの、タジク人など他民族による迫害がふりかかることを極度に警戒しています。それは、これまでのハザラ人への虐殺や迫害の歴史を見れば、非現実的なものではまったくありません。タリバーンは去りましたが、ハザラ人にとってアフガニスタンは、未だに安全な場所とはなっていないのです。 
  

4.イランやパキスタンでも迫害されるハザラ人たち

 では、難民として隣国に逃れたハザラ人たちは、そこに安息の地を確保したのでしょうか。 
 1996年にタリバーン政権がカブールを制圧してから、ハザラ人は民族虐殺政策の対象となり、数百万人がハザラジャート(バーミヤンを中心とする中部山岳地域で、ハザラ人の故郷)やカーブル、マザーリー・シャリーフから逃れて難民や国内避難民となりました。難民となった人の方が、ならなかった人より多いといわれています。これらのハザラ人難民は、逃れた先のイランやパキスタンでも迫害にあっています。 
 とくに9月11日以降は、イランもパキスタンもアフガン国境を閉鎖、入国してきた難民たちをバスで強制的に送り返すようになりました。国際イラン人難民連合(IFIR)は11月5日、イラン当局が10月13日から16日にかけて2300人のアフガン人をバスにのせて強制送還したことを報じ、これを非難する声明を発表しています。 
 一方、パキスタン側でも、特にハザラ人の難民は迫害されています。パキスタンのムシャラフ政権は2001年から、アフガン難民の強制送還の方針を打ち出し、とくにモンゴル系の顔立ちからそれと分かりやすいハザラ人は弾圧の標的とされてきました。また、パシュトゥン系難民の多いペシャーワルなどでは、スンナ派の厳格派であるワッハーブ派がシーア派を異端として襲撃の対象とするようなケースが相次ぎ、ハザラ人は一般の難民キャンプにいることが出来ず、彼らの滞在を許す特定のホテルなどに潜伏せざるを得ない状況におかれてきたといわれています。こうした状況から、パキスタンは近年、アフガニスタン難民の受け入れ国というよりも、アフガニスタンにつぐ第二の迫害国となったという非難さえされてきました。この状況は今も続いています。 
 このように、イランやパキスタンの難民キャンプも、ハザラ人にとって安全な場所ではないのです。 
  

5.「十分に理由のある迫害の恐れ」はアフガン和平実現まで続く

 これまで、タリバーン政権崩壊後のアフガニスタンと、最近のイランやパキスタンの難民キャンプにおけるハザラ人の状況について見てきました。 
 タリバーンが去ったアフガニスタンでは、ハザラ人に対する正面切った迫害は必ずしも発生していません。しかし、他民族とのにらみあいの中でハザラ人たちは迫害の予感に強い緊張を感じています。タリバーンが去っても、彼らは十分に理由のある迫害の恐れの中で日々の生活を営んでいるのです。 
 また、隣国の難民キャンプなどでは、ハザラ人はその風貌や信仰から難民弾圧の格好のターゲットとされる状況が続いています。こうしたことに鑑みれば、タリバーン去ったといえども、アフガニスタン及びその周辺地域はハザラ人にとってけっして「安全な場所」になったとは言えません。 
 日本政府が10月3日に強制収容した9名のアフガン人少数民族。法務省は11月末にも、彼らの難民認定申請に対する決定を出そうとしています。「難民鎖国」政策に固執する法務省が、これまで彼らへの主要な迫害者であったタリバーン政権が崩壊したことをたてにとり、「迫害の恐れはなくなった、だから彼らはもはや難民ではない」との主張を展開してくる可能性は非常に大きいと言えます。しかし、もし法務省がそのように主張するとすれば、その主張は全く誤っています。これまで検討してきたように、アフガニスタンは権力の空白期にあり、これまでの歴史の中で徹底して迫害を受けてきた彼らハザラ人は、またいつなんどき、他民族の迫害を受けるか分からないという緊張状態の中で生活しているのです。 
 彼らにとってアフガニスタンが「安全な場所」になるのは、ハザラ人を含む全民族が真に対等に参加する政権がアフガニスタンに樹立され、アフガン和平が成立するときです。ハザラ人が迫害の恐れを感じなくて済むようになるその時まで、日本政府はハザラ人難民申請者を難民として認定し、適切な庇護を与える義務を負っています。日本政府は、タリバーン政権の崩壊を理由に彼らの難民申請を却下すべきではありません。 
  

<参照情報>
 
 



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