東京市民活動コンサルタントArco Iris 緊急情報コーナー


イスラーム原理主義の軌跡と現在
〜「9.11事態」との関わりから考える〜(2001年10月19日筆)〜


 
 
 9月11日、米国を襲った同時多発テロ事件について、米国はその主犯を「イスラム原理主義過激派の指導者」であるウサマ・ビン=ラーデン Usama bin Laden と断定し、ウサマをリーダーとする軍事組織「アル・カイーダ」およびウサマを庇護しているアフガニスタンのタリバーン政権を主要な目標として、10月8日、報復戦争を発動しました。
 こうした状況の中で、イスラーム世界、およびイスラーム原理主義と呼ばれる考え方について、様々な報道がなされ、多くの言説が発せられています。
 しかし、その中には、イスラーム世界やイスラーム原理主義の歴史や社会的背景を無視し、単にテロリズムとの関係のみを切り取るだけのステレオタイプな語り方が多く見られます。ここでは、イスラーム原理主義が現在、イスラーム世界においてなぜ大きな力を持っているのか、その現代的意味は何なのかを、歴史的な背景から考えることによって、イスラーム原理主義について別の視角から照射してみたいと思います。

(1)イスラームについて

 イスラームはユダヤ教・キリスト教の系譜に連なる一神教であり、7世紀に預言者ムハンマドによって創設された宗教です。その後数世紀の歴史プロセスの中で、イスラームは当時の様々な宗教や習俗、文化と混淆し、かつ法学、哲学へもその幅を広げ、当時の世界において有力な世界解釈体系の一つとなりました。
 イスラームはしかし、15世紀以降の西欧近代文明の発達と世界の統合の中で、西欧近代文明・近代思想に対し従属的な地位へと貶められていきます。19世紀後半からは、西欧帝国主義による世界支配の時代に入っていきますが、イスラームはそこに組み込まれつつ、これまでとは別の意義を獲得していきます。イギリスやフランスの侵略にさらされたエジプトでアフガーニーがイスラーム復興の思想を説き、それがエジプトの民族主義運動に結びつきます。また、ワッハーブ派が、オスマン朝のもとで腐朽したイスラーム教の刷新を行い、最終的にはサウド家と結びついてサウディ・アラビア王国を建国していきます。こうした形で、イスラームは西欧の支配に組み込まれつつ、それに対する対抗アイデンティティとしての位置を確保していきます。このプロセスは19世紀後半から1920年代にかけて起こりますが、これがイスラーム原理主義の起源といってよいでしょう。現在もエジプトに強力な組織をもつムスリム同胞団などは、この時代の末期、1920年代に創設されたものです。 

(2)民族主義とイスラーム原理主義の相克 

 一方、1920年代以降に入ると、イスラーム世界における西欧に対する自立・独立運動は、イスラーム原理主義とは相対的に別個の、世俗主義の二つの流れを生み出すことになります。
 一つは、イスラームを脱し、西欧近代主義をわがものにすることによって、自国を西欧と並ぶ国民国家にし、それをもって西欧からの独立を達成するという流れで、トルコにおけるムスタファ=ケマルの革命に代表されるものです。 
 もう一つは民族解放運動です。イスラームとは相対的に独立したアラブ民族主義思想によって、植民地の独立や半植民地状態にあった国の完全自立をめざすもので、社会主義を指向する流れです。アルジェリア民族解放戦線やエジプトのナセル政権、さらにはパレスチナ解放運動が典型的なものとして挙げられますが、イドリース王朝を倒したリビアのカダフィ政権、アラブ復興社会主義をかかげるシリアやイラクの政権なども、異端ながらこの流れに属するものと言えます。この時代、イスラーム原理主義はその力を失い、完全に民族主義にとって代わられていました。 
 70〜80年代、とくに80年代以降、イスラーム原理主義の流れが再び強大な力を持って復権してくるのは、一つには、こうした二つの世俗主義の流れが、ほぼ破綻したことによるものです。 
 エジプトのサダト政権は、ナセルの流れを引き継いでイスラム同胞団を弾圧しながら、政治的には右旋回して、米国のいうままに、パレスチナ解放運動との連帯を放棄してイスラエルとの和睦に向かいました。シリア・イラクそれぞれの民族社会主義政権は、腐敗した独裁政権へと変貌しました。アルジェリアは無謀な重工業建設路線が破綻して事実上経済的に崩壊し、民族主義は思想的頽廃の極に達しました。イスラーム原理主義は、それまで西欧からの独立・自立・解放をめざす中心的思想であった民族主義、社会主義が崩壊し、独立・自立・解放の方向性を支えるイデオロギーたりえなくなったときに、それらの代替物として中東地域の民衆の中に根を下ろしはじめたわけです。 

(3)1980-90年代以降のイスラーム原理主義の復権 

 1979年にイランで革命が起こり、81年にイスラム教シーア派の聖職者による統治体制が誕生して以来、イスラーム原理主義の波は各国を次々とあらっていきました。アフガニスタンでは、ソ連の撤退以降、スンナ派のイスラーム原理主義勢力が支配しましたが、四分五裂し内戦が継続しています。トルコでは、イスラーム原理主義政党が議会の多数を占め、一時は内閣を掌握しました。スーダンでは、政権を確保した軍の指導者が特殊な立場のイスラーム聖職者に導かれることによって、イスラーム原理主義を標榜する政権へと変貌しました。最も悲惨なのはアルジェリアでした。複数政党制の選挙で最大多数を確保したイスラーム救国戦線が、原理主義政権の樹立を恐れるフランスと軍部によるクーデターによって徹底弾圧され分解、虐殺が相次ぐ内戦へと突入します。 
 ここで注意しなければならないのは、イスラーム原理主義というのは、長い歴史と大きな広がりをもったものであり、当然ながら、そこには様々な思想的系譜があって、決して単一のものとして評価することは出来ないということです。評論家などのなかには、リビアのカダフィ政権やイラクのフセイン政権とイスラーム原理主義の区別すら付いていない人がいますが、前者は世俗主義、後者は宗教主義であり、この二つは根本的に対立しあうものです。 
 また、アルジェリア内戦において、村落の無差別虐殺作戦を繰り返し数万人の命を奪った「武装イスラーム集団」はイスラーム原理主義とされ、イスラーム救国戦線と同一視されることがありますが、現在では、「武装イスラーム集団」はむしろアルジェリアの軍事政権を牛耳る支配的軍人たちとつながり、イスラーム救国戦線側の村を集中的にねらっていたことが、ほぼ明らかにされつつあります。また、アフガニスタンのタリバーン政権は、イスラームと現地のパシュトゥーン人の風俗習慣とを混淆させた独自の宗教観に基づく勢力であり、イランの現体制とは水と油の関係にあります。「イスラーム」=「テロ」といった短絡はもちろん、「イスラーム原理主義」=「テロ」という短絡もすべきではありません。イスラーム原理主義は、各地域においてそれが根ざす社会構造、経済状況、イデオロギー状況によって大きな差異をもっているのであって、こうした差異を把握しないままに「イスラーム原理主義」の「テロ・ネットワーク」などといった詐術的言辞に惑わされてしまうと、紛争予防の最も基本的な処方箋を書くうえでも、大きな誤りを犯すことになります。

(4)タリバーン政権について

 アフガニスタンは1979年12月、ソ連が侵攻し、軍事的に制圧してカルマル政権を打ち立てました。この時期は、ポーランドの民主化闘争への弾圧などもあり、米ソ関係が著しく冷え込んだ時期でした。米国はソ連の侵略と闘うイスラーム戦士たちに対して莫大な武器援助を行い、彼らを育て上げました。しかし85年以降米ソ冷戦が終結し、ソ連がアフガニスタンを撤退するとともに、米国もアフガニスタンから手を引き、残ったのは様々な勢力に四分五裂して覇権を争うイスラーム原理主義集団や軍閥でした。彼らは一応、統一政権を打ち立てますが、長続きせず戦乱がくり返されました。 
 そこに登場したのが、パキスタンによって育成されたパシュトゥーン人主体の勢力、タリバーン(神学生)です。パキスタンは米国の友好国であり、当然、タリバーンは米国と強いパイプを持っていました。タリバーンはパキスタン国境からアフガニスタンに浸透するや、旧政権軍を次々と破り、カブールに入城しました。彼らはソ連の傀儡政権で首班の座にあったナジブッラーをとらえて公開処刑し、町のまん中に彼の死体を高々と掲げました。
  その後タリバーンがとった政策は途方もないものでした。全ての女性を解雇して家に閉じこめ、外出の際には顔も含めて全身を覆わなければならない。旧政権軍の側にまわったウズベク人やハザラ人については、ジェノサイドとすら言える大量虐殺作戦を繰り広げました。こうしたタリバーンの思想や行動は、イスラームというよりも、タリバーンを構成する主要民族であるパシュトゥーン人の習俗をイスラーム教スンナ派(主流派)の教義に混淆させたものであると言われています。
 こうしたタリバーンの暴虐により、ハザラ人などの少数民族の多くが各地に逃亡し、一部の人は日本に逃げてきて難民申請をしています。
 ちなみに、日本に難民申請を行ったアフガン人少数民族の多くは難民申請が認められず、中には強制退去命令を出されて、これを撤回するために行政訴訟を闘っている人もいます。また、東京入国管理局はこのテロ事件以降、タリバーン政権と敵対関係にある少数民族のアフガン難民申請者たちを、難民申請中の段階で拘束・強制収容するという許しがたい暴挙を行ったあげく、「タリバーンやウサマ・ビン=ラーデンと関係があるか」などと愚にもつかない追及をしているということです。米国ではテロ以降、イスラーム教徒や中東出身者へのいやがらせや暴力などの憎悪犯罪が頻発していますが、日本の入管のこの暴挙はまさに「国家による憎悪犯罪」と言えるでしょう。
 現在、アメリカ合州国はタリバーン政権を目の敵にしていますが、タリバーンについても、北部同盟を構成するアフガニスタンの諸宗教主義勢力についても、彼らを養い、武器を山のように提供して、特に中央アジア地域に、何十年にもわたって続く戦争の種をまいた上で、ソ連がつぶれるとさっさと戦線離脱し、タリバーンが支配するに任せたのはアメリカです。
 パキスタンの国家情報部とパキスタン軍がタリバーンを育成し、軍の後援によって瞬く間にアフガン南部のパシュトゥン人地域を制圧させた様子は、日本の満州国建国にも一種似たものがあります。パキスタンはアメリカの友好国であり、タリバーンを使ったパキスタンのアフガニスタン介入に、アメリカは黙示の承認を与えていました。
 その背景としてよく言われるのは、米国の石油資本が、カスピ海地域で出る天然ガスをアフガンを通じてパキスタンに流すパイプラインを敷設することを計画しており、そのためにはアフガンの内乱が平定されることが必要だったという説です。内戦が鎮圧さえされれば、そこを治めるのがどんな勢力でも構わない、というのが、アメリカの立場だったのです。実際、この攻撃からわずか4ヶ月前の2001年5月、アメリカの麻薬取締局の南アジア担当責任者がタリバーン支配地域を訪れ、その厳格な麻薬対策に賞賛の声を上げています。「ウサマさえいなければ、タリバーンでいっこうに構わない」これがテロ事件前の、アメリカのホンネだったわけです。
 米国の短期的な国益のみを追求し、あとは野となれ山となれ、というこうした政策が、どんな帰結を招いたかは、今回のテロが証明しています。米国が公表している「テロの実行犯」の出身国を見てみましょう。サウディ・アラビア、アラブ首長国連邦、エジプト。いずれも、米国の友好国家、対米従属政権であり、イラン・イラク・スーダン・リビアなど対米強硬派の国の出身者はいません。この現実をみれば、誰がテロリズムを育てたかは明白です。

(5)ウサマ・ビン=ラーデンとは

 ウサマ・ビン=ラーデンも、サウディ・アラビアからアフガニスタンに義勇兵として渡り、米国に育てられたムジャヒディンの一人です。彼はアラブ人で、アフガニスタンの諸民族とは系統が違いますが、イスラーム教スンナ派であるという点では共通するといった点、また、タリバーンの最高指導者オマル師と親交が深いといったことがあり、彼はタリバーン政権にかくまわれています。
 ウサマとタリバーン政権、両者とも米国と深い関係にありますが、とくにケニア・タンザニアにおける米国大使館爆破事件以降、米国はタリバーン政権に対して、ウサマの引渡を要求しており、タリバーン政権はその取扱いに苦慮してきました。タリバーン政権は、国土の90%を支配していながら正当な政権と認められていないという状況にあります。いろいろと報道されてはいますが、米国をテロが襲う前の報道には、ウサマがタリバーン政権内に絶大な影響力を持っているなどといった内容はほとんどありませんでした。報道の多くは、ウサマの庇護者たるタリバーン政権が、ウサマが単独で米国に本来の意味での脅威を与えるようなことができないように締め付けを行っているというものであり、ケニア・タンザニアの米国大使館爆破事件後には、タリバーン政権がウサマを軟禁状態に置き、通信手段を取り上げたという報道も流されました。
 また、ウサマが「指導者」としてテロ組織を指導したとのことですが、ウサマ自身はイスラーム聖職者でもなく、イスラーム教徒を導く立場にいるわけでもありません。資金的にも、大使館爆破事件後、海外の資産の凍結措置がすでにとられており、既にお金を使い果たしたという報道もありました。その点、どこまで「富豪」の実態があるかもわからないというのが実態です。
 こうした各種報道に照らせば、ウサマがフリーハンドでテロ集団を指導し、ウサマ自身の力によってあのようなテロを遂行したのだなどという見解を信用することは、実際のところ、とうていできないと思います。

(6)今回のテロについての視点

 今回のテロは、ハイジャックをした飛行機を、乗客もろとも目標物にあて、全員を巻き添えにして殺害するというものであり、従来の爆弾テロなどと比較しても、大きな一線を越えたものであるといえます。ドイツの詩人エンツェンスベルガーは「政治と犯罪」において、19世紀ロシアの社会革命党のテロリストたちをテーマに、要人暗殺を軸とするテロにおける倫理のあり方について論じましたが、今回のテロは、それから百数十年を経てテロリズムが行き着いた最悪の結末であると言わざるを得ません。
  エンツェンスベルガーはしかし、社会革命党のテロリストたちを論じた際に、テロリズムを行う組織は、その対象となる国家権力ならびに治安組織と、鏡で映したように似たものとなる、と論じました。逆もまた真なりです。今のところ、真偽は全く不明ですが、もしウサマの勢力がテロを行ったのだとすれば、あのテロは、アメリカ中心のグローバリズムの一極構造それ自体の引き写しであるということが出来ると思います。米国が公表しているテロの「実行犯」が親米国家の出身者で占められているという事実は、先に指摘しましたが、これを見ても、真の「テロ養成国家」はどこかということは明らかです。金と力にものを言わせる米国の中東戦略によって、特に親米政権の国は歪みきった状況にあります。米国は「テロとの闘い」を呼号していますが、実際には、これは言ってみれば「鏡との闘い」です。米国が闘っている相手は、自分の姿をひきうつす鏡なのであり、彼らはこの闘いを自ら終えることはできません。皮肉な言い方をすれば、米国の軍産複合体は、またとない戦争のパートナーを手に入れたことになります。
  私は、世界貿易センターでのテロにより殺害された人々、乗っ取られた飛行機に同乗していて巻き添えとなった人々に対して、真摯に、哀悼の意を表明します。
  そして、同時に私たちが哀悼しなければならないのは、例えばタリバーン政権による虐殺政策の犠牲となった、そして今もなっている、数多くのハザラ人たちや、アルジェリアで独立以降形成された軍を中心とする支配階層による支配構造を維持するために行われたクーデターの後、「イスラーム原理主義」を掲げつつ支配層と結託する虐殺集団の手によって殺害されてきたアラブ人、ベルベル人たち、さらには、スーダンで「イスラーム原理主義」を標榜する軍政のもとで過酷な戦争政策の犠牲となってきた南部の黒人たちのことです。同様に「イスラーム原理主義」の犠牲となってきた彼らに対して、私たちは、ニューヨークやワシントンで死んだ人々と同じ様な追悼をあらわしてきたでしょうか。おそらく、そうではなかったと思います。米国で死んだ人々の、恐らく数倍、数十倍の数にのぼるであろう彼らの死は、私たちの多くの目をかすめもしなかったのではないでしょうか。そして、例えばタリバーンを養成したアメリカ、アルジェリアで最終的に軍の支配層と結託してクーデターを起こさせたフランスは、(また、特にアフガニスタンに関して、タリバーンと一定の絆を持つ日本は)、彼らの死を放置し、そんな死のことは一顧だにせずに、せっせとこれら「原理主義者」たちと結託し、その支配に手を貸してきたのではないでしょうか。
  アフガニスタンの結末はどうなるか。分かりきった話です。アフガニスタンの民衆にとって最も適切な解決策は何かなどといったことは、一切鑑みられません。おそらく、タリバーン政権は北部同盟や王党派などとの順列組み合わせの対象の一つとされ、他国への攻撃力を一切喪失しながら、国内で少数民族や女性、同性愛者などの弾圧に汲々とする小支配者として残存することになるでしょう。その政治的オペレーションは「タリバーン政権内の穏健派の活用」などといったこぎれいな名前の下に既に進んでいます。その一方で、数十年にわたる戦争で、すでに全土が「世界貿易センター」跡と化しているこの国は、さらなる戦争により、より厳しく痛めつけられるだけです。 
 私たちがしなければならないのは、この期に及んで、何の権利があってか、この事件の犠牲者たちになりかわって「敵」を指定し、これに「報復」を加えることを企図するブッシュ政権や、「文明世界」の一員を潜称してそれに追随する国家権力に対して、その欺瞞性を暴き出し、報復としての軍事行動を断固として阻止すること、とにかく戦争を止め、戦争を終わらせるために立ち上がることであろうと思います。 (了)

 
 

アフガン難民問題indexに戻る エッセイコーナーに戻る