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咲く花の色は変わらず ……というよりあんまり咲いてないですけどね。訪ねたのがもうちょっと遅ければ満開だったのでしょうけど。 |
『万葉集』の「巻第六」は、都から離れた旅の歌や天皇の行幸に随行した折りに詠まれた歌を多く収録している。そのなかに、聖武天皇が、藤原
飛鳥時代あたりから奈良時代にかけては、遷都するたびに、昔の都が荒れていくのを嘆く歌と新しい都を讃える歌を作るのが慣例だったようだ。少なくとも新しい都を讃える歌は公式の場で披露され、記録されたものだろう。古い都を悲しみ、懐かしむ歌はどうだろうか? もしかすると、こちらは公的な意味を持たない私的な歌で、たまたま『万葉集』の編者がそういう歌を採集して収録しただけかも知れない。
けれども、私は、やっぱり古い都が荒れていくのを悲しむ歌も公式の歌として作られ、記録されていたのだろうと思う。近江京(志賀京)からこの恭仁京まで同じように「古い都を悲しむ歌」が作られ、記録されているからだ。しかも、前半でその土地が都であったころのすばらしさや華やかさを歌い、後半で一転して都が遷ってからその地が荒れ果ててしまったことを嘆くというパターンはだいたい共通している。フォーマットがあったのだろう。
『万葉集』には「挽歌」の項目がある。人が死んだときに、その人を惜しみ、悲しむ歌を作る習慣があったとすれば、都についても同じように「挽歌」を作るのが慣例になっていたのではないかと思うのである。
この聖武天皇の巡幸は、反乱の波及を避けるためではあったが、多くの宮廷人を引き連れての旅だったようだ。むしろ、反乱に対して天皇政府の威容を伊賀・伊勢(志摩も?)・美濃・近江などの人たちに直接に示すことが巡幸の狙いだったように思える。この巡幸の最後に聖武天皇は恭仁に落ち着き、恭仁京が開かれることになるわけだ。
大和から東に抜けて
そういえば、天皇家の祖先神であり、太陽の神でもある
この巡幸には『万葉集』の編者とされる
家持は古くから河内王家・大和王家を支えてきた大伴氏の中心人物である。大伴氏といっしょに旧大和王家を支えた
大伴家持というひとは、『万葉集』の編者とされ、また『万葉集』に多くの歌を収める万葉歌人としても知られている。しかし家持にはもうひとつ「不屈の陰謀家」(保立道久『平安王朝』岩波新書)という一面があった。その時々の体制に対する陰謀事件に何度も関わり、政治的な動きをした人物だったのだ。
┌天智天皇───┬持統天皇(天武天皇皇后)
│ ├弘文天皇(大友皇子)
│ ├元明天皇(草壁皇子妃)
│ ├施基皇子────光仁天皇─┬桓武天皇(→平安朝へ)
│ │ (春日宮天皇) └早良親王(崇道天皇)
│ └新田部皇女(天武天皇妃)
│
│持統天皇
│ ‖──────草壁皇子
└天武天皇 ‖─────┬元正天皇
‖ ‖ 元明天皇 └文武天皇──聖武天皇─┬孝謙=称徳天皇(二度即位している)
‖ ‖ └不破内親王(塩焼王妃)
‖ ‖────舎人親王────淳仁天皇
‖ 新田部皇女
‖ 不破内親王
‖ ‖───┬氷上志計志麻呂
‖──────新田部親王──┬塩焼王 │
‖ │ └氷上川継
藤原鎌足の娘 └道祖王
【皇位継承関係】
天智┬弘文(壬申の乱に敗れ自害)
└天武─持統─文武─元明─元正─聖武─孝謙┬道祖王(皇太子廃位)
└淳仁┬塩焼王(恵美押勝反乱政権)
└称徳┬(道鏡 皇位継承失敗)
└光仁─桓武(→平安朝)
※ 政変で廃位された天皇・皇太子がいるばあいにはそこで系統関係を切ってある。
763(天平宝字7)年には
新帝桓武天皇即位直後の782(延暦元)年にはこんどは
しかし、この事件後にもすぐに家持は復活し、
このとき家持は60歳代だった。その後、一族で家持の遠いいとこ(曾祖父が兄弟)にあたる大伴
さらに、その後、785(延暦4)年に長岡新京の造営にあたっていた藤原
ずっと昔、この事件で家持の家が家宅捜索を受け、『万葉集』が押収されたので、『万葉集』は
『万葉集』が編まれた時代にはすでに数々の歌人が自ら編纂した歌集がいくつも存在した。『万葉集』の歌のなかにはそういう数々の歌集から収録した歌が載っている。しかしそのもとの歌集は伝わっていない。もしこのとき押収されなければ、『万葉集』も同じように散逸して、その存在が他の歌集に伝えられるだけの「大伴
ただ、『万葉集』に奈良時代に存在した数々の歌集からの引用があるということは、『万葉集』が奈良時代に伝えられていた歌からよい歌を選りすぐって編集されたアンソロジーだったという可能性もある。『万葉集』というタイトルが編集当初からのもので、「よろずの歌集から歌を集めた歌集」という意味で解釈できるなら、編纂当初から一般の歌人個人の歌集よりは公式歌集色の強い歌集だった可能性もある。だとしたら、必ずしも「押収されたから残った」という説は採らなくてもよい。
大伴家持というひとはどういうひとだったのだろう? 古代からつづく名族の大伴氏の復興のために努めた人だとされる。晩年に数々の陰謀事件にかかわったのも、その名族復活の夢の実現のためだったと解釈できるわけだ。だが、前にも書いたとおり(「恭仁京を訪れる」(一))、この時代の政治的対立を何でも「氏 対 氏」の関係で捉えてしまうのはおかしいと思う。
陰謀事件に何度も関わりながら、そのたびに復活しているのは、数々のスキャンダルに関わりながら絶対に有罪にならない「灰色高官」(と言ってもこんなことばいまどきだれも知らんか……)的な政治家を思わせる。意外にしたたかな政治的人物だったのかも知れない。恵美押勝を排除しようとしておきながら、恵美押勝の乱で殺された塩焼王の息子に加担しようとしたところからは何か機会主義(
しかし正反対の解釈もできる。かつて自分が侍従(
で、大伴家持が聖武天皇に侍従として仕えたという話に戻ってきたところで、もとの話をつづけよう。
大伴家持がこの740(天平12)年の巡幸で聖武天皇の侍従として作った歌としては、たとえば
という作品がある。「陛下に御食材をたてまつる志摩の海人らしい、真熊野の小舟をはるか沖のほうで漕いでいるのが見える」という感じだろう。また、
という作もある。「田跡川の滝(岐阜県の養老の滝)がきれいだからだろう、昔から宮仕えしてきたのだな、多芸の野辺で」といったところか。だれが「宮仕え」してきたのかは歌には歌われていない。どちらも、天皇のありがたい支配が海のはるか沖や山のなかの滝川にまで及んでいることを祝した歌だ。いかにも侍従官らしい発想である。
ところが、このときの大伴家持の歌には、こんなのもある。
天皇陛下のご巡幸に従っていて、おまえの手枕で眠らないうちに月が変わってしまった。
この関所(不破の関)がなければすぐに飛んで帰ってでもおまえの手枕で休みたいと思っているよ!
……おいおい。
ここで現代語で「おまえ」としている「我妹子」や「
どっちにしても、出張先で「こんな遠くに来てしまったけど、早く女のところに帰りたいなぁ」とうたっている歌で、いまだったら上司に対して失礼な作品ということになるだろう。しかもその「上司」というのが天皇だからおそれ多い話である。
でも、これが『万葉集』に載っているということは、これはこの時代には失礼な歌ではなかったと考えるのが自然だろう。自分の好きな女の人(女の子?)を懐かしむ歌も、天皇の支配をたたえる歌と同列の祝祭の歌だったのだ。それがどういう理屈でなのかは私にはよくわからない。
やっぱり、夫が妻が離れていたり、男が好きな女の人から離れていたりするのは、自然なあり方からすると異常な状態であって、それを放置すると自然の霊のようなものの怒りをかうという感覚があったのではないか。それがたとえ天皇につき従っているからという事情があっても、その不自然な状態のことを気にしているぞと歌でアピールしておかないと、妻が怒るとかいう以前に、「自然な状態を人間が破った」ということで自然が怒るという感覚があったのではないかと思う。
沖の小舟をたたえたり、滝をほめたりするのも、その地を支配している天皇をたたえるだけではなく、やっぱり海や滝の自然霊への敬意からだったのではないかと思う。
遷都後に荒れ果てていく都にわざわざ歌を捧げるのも、やっぱりその都の土地霊をなぐさめる意味があったのではないかと思う。天皇のご意志で遷都したのだからそれはしかたないですけれど、けっしてあなたという土地が悪かったわけではないのですよ――というわけだ。
で、この行幸の末に恭仁遷都が決まる。そのときの家持の歌が『万葉集』に収録されている。
いま造る
「いまから造る恭仁の都は山河のとても清々しく清らかなところだ、それを見れば、ここに都をお造りになるのも当然のことだとお考えになったのだろうな」というような内容だ。いかにも遷都決定をお祝いする歌という感じである。でも、この次に載っている高丘
ふるさとは遠くもないのだ、でもひとつ山を越えなければならないから、わたしはこんな思いをしている……。
我が
あんたと二人でいるならば、山が高いせいで里に月が照らなくてもかまわない。
山の向こうの旧京奈良にいる妻(または好きな女の人、もしお好みならば「萌えな女の子」……でも「萌え」は一方的心情だからなぁ)との問答を想定して歌った歌だ。一人で両方を作っているのだから、やっぱりじっさいに夫婦や恋人どうしで交わされた歌ではなく、それを想定して作った歌である。それが家持のいかにも遷都決定をヨイショしたような歌と並んでいる。やはり、古い都をほうっておいて新しい都を造ることに対する自然霊の不機嫌を鎮めるような意図があったのではないか。
ところで、この大伴家持の歌では新京のよさが「山河のさやけき」としか表現されていない。これをもう少し具体的に歌った長歌(五・七・五・七・七の「短歌」に対してそれより長い和歌)もある。
わが
落ちたぎつ
さお鹿の妻呼ぶ秋は
天皇陛下、神であらせられるお方が、お高いところから支配される布当の宮(恭仁宮のある場所のもとの名を布当といったらしい)、木が生い茂って山には木が生い茂って高く、流れ落ちてたぎり立つ川の瀬音もきれいで、鴬が来て鳴く春には、岩には山の下のほうが光って錦のように見えるような花が咲き乱れるし、雄鹿が妻を呼んで鳴く秋は、空から雲が下りてきて時雨が降りかかるので、まっ赤になった紅葉の葉が散っていきつづけるだろう、そうやって何千年もの時を経ても天皇に御子が生まれつづけて天下を支配なさるのだ、百代の後にも変わることなどない天皇の都なのだ。
いま、「首都機能移転」先の候補地のすばらしさとして「春も秋も自然が美しい」ということを挙げる人がどれだけいるだろう?
もちろんここで歌われている自然の情景は類型化された情景だ。自然のままの自然ではない。春には鴬が鳴き、秋には雄鹿のさびしい声が響く、春には花が咲き、秋には時雨が降る、山には木が生い茂り、川は清々しい瀬音を響かせる。山は高いもの、川は清らかに瀬音を立てて流れるもので、その本来のあり方の山や川だということだろう。
藤森
「ありのままの自然」ではなく、人間が考えた秩序のある「あるべき自然」を本来の「自然」と考える考えかたはいまの私たちにも残っているのではないかと思う。それは、日本の国土のイメージを考えるばあいにも、庭園のような日本の美術感覚を考えるばあいにも、たぶん日本の神への感覚を考えるばあいにも、そして当然ながら自然保護・環境問題の日本でのあり方・論じられかたを考えるばあいにも重要な点ではないだろうか。
それでも、ともかく、この時代の宮廷人にとっては、「あるべき自然に恵まれている」ということが首都の条件だったのだ。それだけで今日の「首都機能移転」構想とは大きな感覚の差がある。
そして、その自然へのほめ歌は、その自然に守られ、自然と調和しながら天皇家も栄えていくに違いないという内容につなげられる。それにしても、天皇は神であっても、自然と調和し、自然に見守られながら栄えていくと考えられているわけで、それだけ自然というのはたぶん霊的な影響力を持っていたのだ。
この長歌の後にやはり恭仁新京をたたえる短歌が5首並んでいる。で、その次にそのまま恭仁京が廃止されて荒れていくのをいたんだ歌につながる。けっこう悲しい。
山高み川の
住みよしと人は言えども
ありよしとわれは思えど
国見れど人も
里見れば家も荒れたり
はしけやし かくありけるか
ありが
三香の原(
これもほんとうに都が荒れ果ててから詠んだ歌ではなく、将来、荒れ果てた都を見下ろすだれかの気もちを想像して詠んだ歌なのだろう。まえに書いたように、恭仁京の地はその後も山城国の中心として栄え、国府も国分寺もここに置かれていたのだ。じっさいに恭仁京が放棄されてから詠んだ歌としては実態にあわない。
この歌にも短歌が2首添えられている。そのうちの一首を掲げておこう。
咲く花の色は変わらずももしきの大宮人ぞ立ちかわりぬる
咲く花の色は変わらない、変わってしまったのはこの都を捨てて行ってしまった宮廷人たちのほうなのだ。
そのとおりだった。
この古い都の跡地で、いまも桜の花は咲きつづけている(万葉時代にソメイヨシノはなかったから、同じ桜でも「色」は違う――なんてことはどうでもいい)。都であってもなくても、花は咲きつづけている。万葉の歌人たちの時代に、わずかなあいだだったけれども新都を祝福した花は、いまもこの里の人びとの暮らしとともに何も変わらず咲きつづけている。
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みかの原恭仁の里 だいじょうぶです、住みよき里はけっして荒れてないですよ。 |
恭仁は最初から自然に祝福されて都になった。そして都が去ってもその自然は残った。
いま私がこれを書いている東京がもし「古い都」になったら、その後には何が残るだろうか?
自然に祝福されることが首都の条件だった。いや、たぶん、人間のどんな営みも自然に祝福されていなければ長続きはしないと考えられていたのだ。その「自然」には、思い合う男と女が別れ別れになっているのは「不自然」だというような「人間にとっての自然」の感覚も含まれていたに違いないと私は思う。
そしてその「自然」に自分はこんな気もちでいると伝えるのが歌の役割だった。新しく首都になる地の自然をたたえ、首都を捨てるときにはそれを惜しむ気もちをいっぱいに表現するのも、首都の「自然」へのメッセージだったのだろう。人間は、ほかの人間や政治と向き合うのと同時に自然に向き合っていた。いや、ほかの人間や政治に向き合うことに、自然と向き合うことはいつも寄り添っていた。それはたしかに人間が勝手に考えた「あるべき自然」だったけれども、人の話や政治の話をするときに自然のことをすっかり忘れてしまっているのとはまったく違う。人間は自然の霊とともに生き、首都造営のような国家的事業も自然と調和したものでなければ成り立たず、長続きしないというのがこの時代のこの地の人びとにとって当然の考えかただったのだ。
そんな時代には、首都の人びとの生活の都合や生活の文化を、首都とはまったく自然条件も風土も違う全国に押しつけるようなやり方は許されるはずがなかった。
そんな時代の人たちのことを、私はやっぱり羨ましく感じている。