銭屋の
笹丞の立っている前には小さい庭があり、その向こうに同じように小さい家があった。庭と言っても、まわりに生えている笹が生えていないで土が見えている、何もない小さい円い場所でしかない。
それが笹丞の家だ。
笹丞という名は、同じ家に住み、同じ仕事をしていた親がつけてくれたものだった。でも、同じ仕事の仲間たちは笹に埋もれそうな家に住んでいるから笹丞なんだと陰口をたたき合っている。笹丞の前では言わないけれど、笹丞はちゃんと知っていた。
「だから寄合なんか
その自分の家に進みこむのを前に、笹丞は大きく息を吸いこみ、顔を上げ、ひそめていた眉を上げ、口の端を軽く引いて、朗らかそうな貌を作ろうとした。
だが、そんなことをしているところへ、笹が足にあたりそうになるのを避けながら、小さな家の横を回って裏から
笹丞の妻だ。
「何やってたのよ」
利穂は、
いや、昔はもっと頬がすっとしていて痩せていた。いまは少しその頬がふくれてきている。
自分がこんなにつらい思いをしているのに――。
どうして頬を膨らすだけのものが食べられるのだろう? それとも何か楽しいことでもあるのだろうか?
――自分の知らないところに。
「いや、その、寄合……」
出鼻をくじかれて笹丞は口ごもる。
「寄合に行ってたことぐらい知ってるよ。それから何やってたかってきいてるの」
利穂はきついことばで言い返して、笹丞ににこっと笑って見せた。
「
「うるさいな!」
笹丞は唇を突き出した。
「考えごとをしてたんだから。いちいち小琴とか小綾とかを引き合いに出さないでくれ」
「考えごとなんかしてるひまはないでしょ?」
利穂に言い返されて、笹丞は声を大きくする。
「いちいちうるさい!」
「うるさくもなるでしょ?」
利穂はそれでも笑顔のままで言い返した。
笹丞はことばが出ない。
利穂はゆるゆると左手で笊を抱えなおし、笹丞の上の
笹丞はうるさそうに身をのけぞらせ、その妻の手を振り払おうとしたが、その手は胸のあたりまでも上がらなかった。
「ね、これから夫婦して村回りに行かなければいけないんでしょ?」
利穂はまた笑って見せる。
「小綾さんが言ってたよ、牧野から子ども三人きりしか人質取らなくて、どうやってほかの村から貸し銭を取り立てるんだって」
「うるさいな。だからあいつらはあいつらでおれはおれだ」
利穂は相手にしない。
「どっちにしても村回りして取り立てに行かないといけないには違いないでしょ、ここで取り立てしないで、万一のこと徳政にでもなったら」
利穂は笊をまた抱え直す。
「徳政になんかなるもんか!」
笹丞は最初のところに突っ立ったままだ。
「あれは
「だから道のほうに立って徳政徳政言わないでよ。だれがきいてるかわからないんだから」
「徳政の話なんかみんなしてるじゃないか。寄合でも……」
口ごもったところを、利穂がすかさず
「寄合は仲間うちのひとしかいないでしょう? ここにいたらだれにきかれるかわからないのよ」
利穂は軽く言って笊を縁に置き、家に上がった。
「さっき証文はまとめておいたから、これから干し麦戻して食べて、さっそく村回りに行こう。わたしもいっしょに頭下げるからさ、それで少しでも返してもらおうよ」
「だから……」
笹丞は何か言おうとした。だが、顔を上げたときには、もう利穂は家に上がり、奥に入って、
笹丞のほうなんか見てはいない。
「くそぉ」
笹丞は口ごもり、小さい声で、口汚く罵った。
「だれもおれの言うことを聞かない」
それはだれのことを言っているのだろうか?
「おれは考えてるのに……考えてるのに……!」
利穂は振り向いた。
「うん? 何?」
笹丞はその丸みのある頬をしばらく見ている。
頬は白かった。夫婦になったときから利穂は色の白い女だった。
その頬には、でも少し紅の色がさしていた。それに、櫃を開いて庭のほうを振り向いたその姿は、何かいまにも跳ね出しそうなうさぎのようにも見えた。
「い、いや……」
笹丞がそう答えると、利穂は軽くうなずいた。
「そう」
とでも言ったか、言わなかったか。
笹丞はまたうつむいた。すると、利穂は、また向こうを向いて笊に取った干し麦を抱え、裏口へと下りて行ってしまった。
笹丞は唇の上半分を開き、そのまわりをわなわなと震わせていた。
「市場はだめだ……市場ではだめだ……この家も……ああ!」
喉の奥から大きくため息をつく。震えは笹丞の体ぜんぶに広がった。
利穂は裏から外に出てしまったらしい。家にはだれもいない。
「あいつらさえ!」
笹丞は、そうつぶやくと、何か見えない糸にでも引っぱられるように走り始めた。
奥の隅、神棚の下に、まとめて綴じた紙の束はあった。
笹丞はそれを右手を大きく開いて乱暴につかんだ。
「何やってるの? ばたばたして?」
利穂が裏から声をかけた。笹丞は息を飲んで動きを止めた。
「いたちでも出たの?」
「いたちぃ?」
笹丞は慌てて表に飛び出した――ほんとうにいたちのように。で、飛び出すときに縁側の柱に頭をぶつけ、ぶつかったところを手で押さえてよろめいた。よろめいたまま、手で顔を押さえて前も見ないで庭に下りる。笹丞はざらざらと笹むらを突っ切って表の道まで突き進んで行った。
「何やってるの?」
しばらくして利穂が部屋に戻ってくる。
笹丞の姿はもうない。
だが、利穂は部屋を何度か見回し、表の庭も見回したあと、
「もう、しようがない」
とさすがにいらいらして声を立てた。でも、そのまま、また口の端を引いて笑うと、鼻歌でも歌うように顔を上げて、裏の井戸端に戻って行った。
神棚の下にきちんと揃えて綴じてあった証文の束がないのに利穂が気づくのは、干し麦を水で戻し、きれいに洗って椀によそって部屋に戻ってきて、だいぶ経ってからのことだ。
藤野屋の奥の間には、店の主人の薫と、寄合から戻ってきた藤野の美那、
葛太郎の頬は大きく腫れている。毬に力いっぱい手の甲ではたかれた痕だ。毬はお行儀よく座っていたが、傷の上にまだ布を巻いているので座りにくそうで、何度も何度も座りなおしている。
葛太郎から話をきいたあと、だれも口をきかず、うなだれて床に目をやっている。
「わたしが毬さんと葛太郎さんにも働いてもらうって言ったのがよくなかったのかしらね?」
薫がだれの顔も見ないで言った。このひとには珍しいことだ。
「そんなことはないよ」
美那が言って薫に笑って見せたけれど、薫はまたうつむいてしまった。
「よそから藤野屋に来た子どもはみんな働くんだよ。おかみさんはずっとそうしてきたじゃない?」
「ずっとと言っても、これまでよそからわたしの家に来た子はあなただけでしょう?」
こんどは薫も微笑した。
「ねえ、
毬が穏やかに優しく声をかける。
「昨日の夜はあんなに働くのをいやがってたじゃない? どうしてあんなに働かせろ働かせろってうるさく言ったわけ?」
葛太郎は毬の顔を少し見上げたけれど、そのまままた下を向いて、口の端を引いて唇をきつく合わせてしまう。
「ねえ葛太!」
毬は同じ調子で重ねて声をかける。軽く弾みをつけて。
「わたし怒らないから。おかみさんやお姉ちゃんに言ってごらん?」
「今朝……さあ」
葛太郎は、少しだけ顔を上げて、その毬と美那を見、また目を伏せてから口を開いた。
「姉ちゃんが水汲みに行くのについて行ったんだ」
「水汲みって……」
薫が美那と葛太郎に目をやる。
「朝の水汲みですか?」
「そう……なんだけど」
美那がきまり悪そうに言う。
「あんなに遠くまで、屋敷町を抜けて行ったのですか」
「……はい」
「葛太郎さんを連れてですか?」
「……はい」
美那は首を縮めて
「姉ちゃんが悪いんじゃない!」
葛太郎がいきなり大きい声を立てた。
「おれが連れて行ってくれって言ったんだ! 姉ちゃんは遠いよって言った。でもおれがかまわないからって、勝手について行ったんだ」
「それに水も汲んでくれた」
美那が葛太郎に小さく笑いかけた。
「天秤棒も自分が持つってずっと言ってくれた。重いから、こぼすと困るからって持たせてあげなかったけどね」
「どうして断りなくそういうことをするのですか?」
薫が美那に問いつめる。
「この子はわたしたちが銭屋さんたちからあずかっただいじな子ですよ」
美那がすぐに答えられないでいると、葛太郎が勢いよく声を挟んだ。
「どうしてって、仕事から逃げてるんじゃない! 仕事したいって言ってるんだ。どうしていちいち許してもらわないといけないんだよ。おかみさんがおれに仕事しなさいって言ったんじゃないか!」
「葛太っ!」
毬が叱りつけ、葛太郎は体を小さくする。
「それよりさっきの毬さんがきいたことはどうなの?」
薫が葛太郎にきいた。
葛太郎は少し驚いたようにその薫の顔を見上げた。
「どうして昨日は働くのがいやだったのに、今日はそんなに仕事をしたがったのかしら?」
「それは……」
葛太郎は美那のほうに顔を上げた。美那は応えてやさしく笑って頷いた。
「姉ちゃんにきいたんだ。市場では働いても遊んでも暮らしていけるって。でも遊んで暮らしたら、金がなくなったときとか、死にそうになったときとか、だれも見てくれなくてたいへんなことになるって。それっていやだった。そんなのだったら、自分で仕事して働こうって思ったんだよ」
葛太郎は言って美那と毬と薫の顔を順番に見る。だれも何も言わない。葛太郎は気後れがちにつづけた。
「あと……いいか?」
美那が軽く頷いてみせる。
「昨日、おれが仕事をいやがったのは、村では広沢家の者はきつい仕事をやらされて、それでだれにも相手にされないのがあたりまえだったからだ。おれの親父なんか、水のろくに回ってこないところに田んぼ作らされて、毎日毎日水を運ばされて、それで病気になって早死にしたんだ。しかも、そうやって親父が開いた田んぼはほかのやつらがあとで横取りしてしまう。だれもおれの親父が開いたなんて覚えてもいない」
毬は何も言わなかった。
広沢家でも、毬の姉の広沢の美那とその両親は牧野家の屋敷に仕えていたのだし、下の家のふくも村西屋敷に仕えていた。だから広沢家の者がきつい仕事をやらされるとは決まっていないと、毬は言えば言えたはずだ。
「働くっていうのはそういうことだとおれはずっと思ってたんだ」
葛太郎はつづけた。
「だから働きたくなかった。でも町では違うって姉ちゃんが言ってくれた。広沢家も何家も関係なくて、働くのも働かないのも勝手だって。でも、働くことで縁が生まれるんだって。だったら、おかみさんも言うようにおれも働かないと――って思った。それで……ああやって鍋煮てるのならおれでもできそうだったから、じいさんに声かけたんだ」
「だいたいのことはわかりました」
薫が顔を上げて言った。
「毬さんと葛太郎さんはお部屋に戻っていなさい。それから」
薫はことばを切って二人の目を順番に見た。
「繭さんが帰ってきて、楽しそうにお話しをしたら、同じように楽しそうに受け答えするんですよ。いまの塞ぎこんだ気もちのままで繭さんに話すんじゃありませんよ」
毬と葛太郎はおとなしく頭を下げ、出て行った。
二人に部屋の声が聞こえなくなるころまで薫と美那は無言で待った。そして、それから、二人は気まずく目を合わせた。
柿原屋敷には一日に何人もの客が訪れる。城館からの使いや柿原家が呼んだ客ももちろん来るが、そのほとんどは柿原家に何かを頼んだり相談したりしに来る客だ。
柿原屋敷の門番役は、鄭重にもてなさなければならない客か、もてなさなくてもいいが座敷に上げていい客か、門番所で話を聞くだけの客か、話も聞かずに追い返す客かを区別して応対しなければならない。
これがめんどうだ。
たとえば、柿原党が貸した銭米を返すのを待ってもらいたいという客は、言うことも聞かずに追い返すことになっている。鞭を使ってでも棒で叩いてでも追い返すのだ。ところが、それを何度もやられると、銭米のことで願いごとを持ってきた客も、頼まれたものを納めに来たとか、珍しいものが手に入ったので献上に来たとか、どこどこの屋敷からの使いだとか嘘を言って入りこむようになる。そう言って入りこんでもけっきょくは迷惑料を取ってたたき出すのだけれど、入れてしまうと、屋敷にとっては何かと厄介だ。だから、門で見分けて追い返さなければならない。
また、
もちろんいいこともある。門番役自身が賄を受け取ることができるのだ。しかしこの役得を得るのにもそれはそれで苦労がいる。柿原家の上客や城館からの使いから賄を取るわけにはいかない。そんな失敗をしたら即座に屋敷から追い出される。
要するに、訪れてきた客が柿原家とどういう関係があるのかをきちんと知っていなければ、この役は務まらないのだ。門番が受け取るくらいの賄は、そういう気苦労の報いとしてはけっして多くはない。
で、いまその苦労の多い柿原屋敷の門番役を務めている大松六郎
この男は柿原家に用があって訪ねてきたのではない。門番所に彰立がいるのを知って、その彰立を訪ねてきたのだ。ほんとうは相手にしたくないのだが、旧友とあれば追い返すこともできかねる。しかも旧友から賄を取ることはできない。門には手下の小者を立たせてあるが、変な客が来たり何か急なできごとがあったりしたとき、門番小屋で話しこんでいたら応対が遅れてしまう。
だからせめて早く話を切り上げて帰ってほしいと思うのだが、そう思っているときにはまた相手の腰が重く感じるものだ。
「そういえば、おまえの甥御は
客の元塚九郎
「ああ」
彰立の声は晴れない。
「小森式部の家でごろごろしているらしい」
「よかったじゃないか」
元塚九郎衛友はにやりと笑って見せる。
「そのうち越後守様の前に出て、越後守様の目に留まれば、おまえの家も末永く安泰だろう」
「兄の家がな」
彰立が乗り気のしなさそうな声で答えた。十四郎は彰立の兄の大松五郎
つまり、彰立の兄と元塚衛友とは評定衆の同僚だ。
衛友は少し黙って、じっと彰立の顔を見ている。彰立はつづけた。
「それにあの十四郎に越後守様の目に留まるような見所があるとも思えぬからな」
「なんだ、そんな心配か」
衛友はもとと同じように笑った。
「だいじょうぶだ。近習などといっている連中はみんな同じようなものだ。牧野の乱のころにはまだ嘴の色も定まらぬひよっ子だった。小森式部のごときつまらぬ男を師匠のごとく仰いでその屋敷に出入りし、つまらぬうわさ話にうつつを抜かしているような連中だ」
それで、
わざとそうしているのか、それがこの男の話し方なのかは、わからない。
「その中ならおまえの甥御なら越後守様の目に留まると思うが」
「その中でも留まりそうにないな」
彰立は斜め下に顔を伏せて衛友から目をそらす。
「いやに冷たいな。自分の甥御のことなのに」
衛友が言って、頬の下あたりを弛める。
「それを言うなら、おまえだって」
彰立は顔をそらしたまま衛友の顔を見返した。
「その小森式部の推挙で今度の仕事を言いつかったんだろう?」
「なに、あれはつまらぬ男だ」
衛友は何のためらいもなく答える。
「今度の仕事だって、
衛友はふんっと鼻を鳴らした。
「ほら、おまえも知っている徳政の件だ。おれは徳政にはべつに反対ではなかったが、小森の考えるやり方はあまりに入り組んでいてけちくさい。竹井でわざわざ一揆を起こさせて、それに応えることにしてから徳政なんてな。やつはそれで評定衆が責めを負わずにすむようになるって考えてるらしいが、どこかでしくじったら逆に責めを負わされる。だから評定でそう言ってやったんだ。そんなけちなことを考えないですぐに徳政にしてしまったらどうだって。なに、徳政の名分は揃ってる。こう不作が毎年まいとし続いちゃ、それは徳政ぐらいあってあたりまえだろう。そう言ってやったら、やつは、にたにたにたにた笑って何度も頷いて、おれの言うことは参考になるとか言ってさかんに持ち上げておいて、その裏でおれを
衛友は身を乗り出してつづけた。
「
彰立も今度の話にはつられて同じように身を乗り出す。
「黒羽
「そうだ」
衛友は頷いた。
「あの男、いま井川の上
いったんことばを切る。
「じつは白麦山の賊と裏で手を結んでるんだ。賊を見逃すかわりに、あの男のところに賄を持っていったやつの荷には印をつけてる。その印のついた荷は賊に襲わせないようにしてるそうだ」
「あいつならやりそうなことだ」
彰立は目を細めた。
「昔から利にさとい男だったからな」
「どうせ白麦山の近くに行くんだ。じつはおれはな」
衛友は笑って見せる。
「そいつを打ち壊してやろうと思ってるんだ」
「打ち壊す?」
彰立が首を傾げて声をひそめた。衛友はもういちど笑って見せる。
「おれはその井川の東砦の守りに入るんだ。賊がいる白麦山からは少し離れてはいるが、東砦の先には
「ああ」
「その証拠を挙げて、榎谷と白麦山の賊のつながりを暴いてやる。その場を押さえて、榎谷の娘の一人や二人、串刺しにしてやるさ。それで賊を震え上がらせてやる」
「それはずいぶん危ないことを考えてるな」
彰立はしばらくつぎに何を言うかを考えた。
「ほら、春先の中原村の件だって、町娘と地侍の喧嘩だけならよかったのに、そこに榎谷の魚売りが絡んできたってだけで大騒動になって、けっきょく城館は言い分を引っこめなければならんかった」
「だからやってみたいんだよ」
衛友は背を伸ばした。
「榎谷に手を出してほんとうにどんな騒動が起こるか、試してみるんだ。起これば起こったで榎谷と賊のつながりがはっきりするし、何も起こらなければ小森式部がただの臆病なだけの男だってことがはっきりする」
衛友は朗らかに言った。
彰立もつられて笑った。元塚衛友は念を押すようにゆっくりと言った。
「な、おもしろいだろう?」
彰立はその衛友にどんなことばをかけ返そうかと思案する。
だが、その思案の終わらないうちに、外から声がかかった。
「大松様」
小者が廊下の下の庭から声をかけているらしい。
衛友はすぐにいまのような話をするので、廊下に上がってこないように小者に言い含めておいたのだ。
「何だ?」
彰立は襖越しに声を返す。
「市場の銭貸しで笹丞とか申す者が、大殿に面会を求めております」
「大殿はおられぬと言ったか?」
「はい。それでは若殿にお会いしたいと申します」
「若殿はお忙しいと言ったか?」
「はい」
「それで、どうした?」
「さっさと帰れと申したのですが、きくでもなく、きかぬでもなく、門のまえでただ立っております」
「ただ立っているだと?」
「はい」
小者はいまのやりとりではじめてことばを淀ませる。
「何も言わずに、ただこちらを向いて立っています。それもふらふらふらふらしながら。帰れといってもききません」
「追い……」
彰立は「追い返せ」と言うつもりだった。
けれども、向かい側で自分を興味深そうに細めたまぶたの奥から見ている衛友の貌を見て、考えが変わった。
「いや、会おう。市場の銭貸しの坂丞と言ったか?」
「はい、そのようです」
「連れて来い」
彰立がいささか得意げに衛友を見返すと、衛友はそれ以上に得意そうに笑って彰立を見ていた。
だからやはり彰立は何かおもしろくない。