第1章 太陽の誘惑

第1章 太陽の誘惑



1 太陽、肛門、眼球

 バタイユを読み始めたときに人がいちばん強い印象を受けるのは、残酷さ、暴力、恐怖への彼の傾斜ではないだろうか。それは印象を受けるというよりは、むしろショックを受けるというに近いだろう。なぜこれほどまでに残虐なイメージを必要とするかを、私たちは問わずにはいられない。あるいはそれ以前に、嫌悪で本を閉じてしまうかもしれない。一九二六年、アンドレ・ブルトンは、初対面のバタイユのことを、偏執狂だと言ったし*1、三四年、革命運動の新たな方向が模索されていたとき、シモーヌ・ヴェイユはバタイユを、病理的な本能の解放を革命に持ち込むと批判したが*2、それが尋常な反応だったかもしれない。
 バタイユのこのような関心は、彼が思想上の活動を始めた最初期から明らかである*3。青年期に達したバタイユが、研究論文以外に自発的に書きだしたのは、二六年頃の小説仕立ての『WC』であった。これは破棄されるが、一部分が残って、四五年に『ダーティ』の標題で刊行され、最終的には、五七年の『青空』に「序」として組み入れられる。この「序」は、高級ホテルで泥酔しその上失禁するという豪奢と汚辱とを兼ね備えるダーティという女の物語である。ところで『WC』は、精神分析の治療の一環としてなされた作業の名残であるらしい。
 この時期、バタイユは重度のヒポコンデリーに苦しむ。彼は二四年にレリスと知り合うが、レリスは、古文書学校を優秀な成績で出て国立図書館に職を得ながら、娼家に出入りし、賭事に熱中し、という放埒な生活を送るバタイユの姿を伝えている。このヒポコンデリーは、性的な妄想と、戦争中の父親の遺棄に関わる精神的外傷の複合したものだったらしいが、見かねた友人たちが、精神分析の治療を受けることを勧める。彼は同意し、二六年のほぼ一年間、医師ボレルの治療を受ける。この治療法は、当時フランスに導入されたばかりであり、ボレルの治療もあまり正統的なものではなかったらしいが、ともかく効果をもたらす。バタイユはこの治療について具体的にはほとんど語っていないが、六一年――死の前年――手紙で、それによって何とか生きていけるようになったことを語っている*4。彼は後に本を出版すると必ずボレルに署名本を送っていたから、感謝の念は強かったらしい。ボレルは文学者と親しく、バタイユの周辺でも、クノー、レリス、コレット・ペニョらが治療を受けている。彼の治療方法のひとつは、患者のかかえている抑圧を患者自身に明らかにするために、それを文章にしてみるというものであって、『WC』もそのようにして書かれたものの一部――あるいは展開――であるらしい。
 バタイユはこの方法を治療後もしばらく持続したようで、いくつか類似したテキストが残されている。二六年の『WC』に続いて、二七年初頭『太陽肛門』が書かれ、その後『松果腺の眼』が着手され、三〇年頃まで推敲されて未定稿のまま残される。一方二七年秋から二八年にかけて『眼球譚』が書かれ、これは匿名だが出版に至る。こうした過程および書かれたものを見ていると、二〇年台の後半、彼の想念が一つの結節点を求めていたらしいことが見えてくる。
 この継起をもう少し詳細に見てみる。『大陽肛門』はまず、人間を動かす動力が、大陽の熱放射に源を持ち、この熱源は、人間のみならず、地球上の動植物の運動全体に浸透していることを述べる。人間のエネルギー活動――エコノミー――の発端を太陽に見るというこの主張は、自然科学上の知見と、彼がこの時期すでに民族学や人類学への関心を深めていて、そこから学んだもっとも古い信仰として太陽神信仰を合わせたところから来ている。それは最終的には『呪われた部分』で集成される彼の経済学の理論であって、『呪われた部分』を知っている者には特に驚くべきことでないとしても、このように早い時期からはっきりと主張されていることには驚かされるだろう。彼は冒頭で〈私は太陽である〉t.1-p.81と大文字で強調して書き付ける。彼は自分がこの堰止められることのないこのエネルギーを担うものであることを宣言する。これが彼の原理であり、出発点である。
 目を引くのは、太陽エネルギーのこの流動が、標題の示すように、大陽から肛門へという奇矯と言うべき連想によって捉えられていることである。バタイユによれば、大陽が地球に注ぎかける熱源は、植物を生育させ、動物と人間の交接運動にエネルギーを供給し、海洋の干満を支配しながら、まだそれでも尽きることがなく、それは最後に過剰そのものとなって排泄される。それは地球にとっての火山活動である。そしてこの過剰は、人間においては、肛門からの排泄行為となる、というのだ。バタイユにはスカトロジーに対する関心が持続するが、それは原則的には、ここで明らかにされたような過剰なエネルギーの発現の様態としてである。大陽から火山を経て肛門へといたる熱の移動とイメージの変容について、彼は次のように言う。〈太陽の光冠は、十八歳のその肉体の汚れなき肛門であり、肛門とは夜であるけれども、太陽を除いてはそれと較べ得るほどに目を眩ませるものはない〉t.1-p.86。またこの火山はイエスヴィアス山Jesuveと名づけられるが、これはイエスJesusとヴェスヴィアス山Vesuveが組み合わされた造語であり*5、そこではすでに、宗教とは過剰なエネルギーの形態の一つであるとバタイユが考えていたことも見えている
。〈私の情熱はただイエスヴィアス山によって表現される〉t.1-p.85と彼は書く。『WC』に描かれるダーティの排泄行為は、このエコノミーの反映であろう。肛門はさらに、人間の存在の原型としての猿の肛門、色鮮やかに充血し突出する猿の肛門となってバタイユを襲う。次の『松果腺の眼』で、二七年、ロンドンの動物園で猿の発赤した尻を見たとき、〈転覆され、恍惚とするほどの呆然状態に投げ込まれた〉t.2-p.19と回想している。そして彼は肛門を太陽に向けた手長猿の供犠を語るのであるt.2-p.28。
 『松果腺の眼』は、前述のように三〇年頃まで、つまり『眼球譚』のあとまで書き継がれたようだが、私には、未完に終わったこの幻想的テキストは、この時期のバタイユの探求の痕をいちばんよく見せているように思われる。これには「イエスヴィアス山」と「松果腺の眼1−4」と名付けられた五種類の草稿がある。「イエスビアス山」は最初にあって、題名からすると、『大陽肛門』での火山の主題を展開しようとして発想されたようだが、火山のイメージはこの著作では背景に後退し*6、関心は松果腺の眼というやはり奇怪な幻想へと移ってゆく。松果腺の眼とは何か。人間の頭蓋の上部には一個の分泌腺があって、松果腺と呼ばれているが、この分泌腺の作用はよく解明されていず、ある生理学者たちは、〈眼球となるはずだったが、発展しなかった〉ものと考えている、とバタイユは書く(「松果腺の眼(4)」2-43)*7。そこから出発して、彼は分泌線の作用を自分に引き寄せて展開する。
 この未発達に終わった眼は、肛門に発端を持っている、と彼は考える。前述のように猿はエネルギーを集約し発散させる突出した肛門を持っているが、この肛門のありように変化が起こるのだ。猿は森から出て、後足で歩行を始め、直立の度合いを高める。するとこの肛門は両足の間に引き込まれてゆく。こうして人間が成立するとき、肛門は尻の奥に隠されてしまう。肛門のこの隠蔽は太陽との直結性の隠蔽であり、この隠蔽によって人間は自律的な存在となるのだ。しかしながら、肛門のこの隠蔽は、それで平穏に完了するのではない。内部に貯め込まれたエネルギーは、新たな出口を求める。それは直立に向かう人間の動きに従って、上方に向けて集中され、まさに太陽との直接的な関係を回復しようとして、頭頂に開口部を求める。こうして頭蓋に大陽に向かう眼球が生じようとする。それは、水平方向に働き、対象を捉え、有用な世界を組織してゆく眼ではなく、垂直方向にのみ作用し、大陽を見るためだけの眼である。それが松果腺の眼だ。太陽から火山を経て肛門へ受け渡されたエネルギーは、異様な眼を作り出すことで再び太陽へ回帰しようとする、とバタイユは論じる。
 エネルギーのこの転位は、前述のように『大陽肛門』の〈私は大陽である〉という言明から始まったが、注意しなければならないのは、この太陽もまた不変なものにとどまるのではないことだ。太陽は、一般にそう信じられているように澄明さの象徴ではなく、横溢するエネルギーの源そのものでもある。それは〈悟性の産物ではなく、直接的な生存そのもの〉であり、また〈天空の底に死体のように置かれた太陽は、腐敗の持つ亡霊のような魅惑を伴った非人間的な叫びに応答する〉(ともに『松果腺の眼』t.2-p.25 p.27)ものである。この主張は、三〇年の「腐った太陽」(「ドキュマン」)で、二つの太陽というかたちで明らかにされ、両者の間に強度の変容が起きることが述べられる。最初の太陽は、直視されないために〈最も高く持ち上げられ〉、そのゆえに〈抽象的〉となるイデアリストの太陽であり、第二の太陽は、直視されそのために醜悪となり恐怖を醸し出す太陽である。そしてイカロスの例が示すように、〈上昇の頂点は、実際上、未曾有の激しさで突然の墜落と混じり合〉うt.1-p.232。太陽との回路が再び開かれることで、太陽は突然変容する。回路が通じることは、人間にとって、蓄積されたエネルギーの放出であるが、それは放出であるために、エネルギーを失わしめ、失墜と腐敗をもたらす。すなわち死が引き起こされる。同時にそれは太陽にとっても、溢れるエネルギーの堰を切ることであり、太陽もまたエネルギーを放出し、衰弱し、腐敗する。
 二七年から三〇年頃の間を考えるとき、この時期をいちばん根底で支えたのは、この二重になった変容、つまり太陽自身の変容と、それと呼応する火山から肛門へ、そして眼球のイメージのこの転位だろう。しかし、この転位の運動は、途上でもう一つ別の方向へ分化する。「イエスヴィアス山」の冒頭、松果腺の眼についての考察に入ったところで、バタイユは〈眼球が闘牛のイメージと決定的に結ばれて現れた〉t.2-p.14と書く。これはもちろん『眼球譚』のことであろう。この小説で眼球が重要な役割を果たしていることは、誰にでもわかるが、眼球と闘牛が結びつく理由は何か。
 眼球の背後に大陽を見ることができれば、眼球が闘牛に結びつくのを理解することは難しくない。前述の「腐った大陽」でバタイユは、ミトラ神の供犠に言及している。この儀礼では、簀の子を渡した穴の下に人間が入り、神官が牛の喉を切り、下にいる人間はその血を太陽からの贈り物として受け取って太陽に同化する。すなわち牛は太陽の象徴である。闘牛はこの儀礼の流れの上にある。バタイユは、大陽と牛のこの重複に、彼自身の幻想の眼球を接続する。
 バタイユが闘牛と結びついたと述べる眼球は、まず『松果腺の眼』の眼球であるに違いない。松果腺の眼というイメージは、おそらくはあまりに破天荒であったために次第に背景に退くが*8、太陽に向かう眼球という考えかたは、通常の眼球の上に転嫁される。それによって正常な二つの眼球もまた異様な運動を始める。『眼球譚』での眼球oeilは、音とかたちによって卵oeufと睾丸couilに結びつく。シモーヌと話者はこの連動に突き動かされ、とりわけ牛を求めるよう促されて、真昼の闘技場に導き入れられる。すると眼球は、一方では牛の睾丸となってシモーヌのヴァギナの中に滑り込み、他方では呼応して闘牛士の眼窩からほとばしり出て、陽光の下、太陽につながるその存在を露わにする*9。そしてさらには修道士の抉られた眼球となって、睾丸と同じくシモーヌのヴァギナの中に入り込むのだ。
 簡略に言えば、この時期のバタイユの中心にあるのは、太陽、肛門、眼球、そして再び太陽へというイメージの転位である。太陽自身の変質がこの転位を動かす。この転位は、眼を介して闘牛へと転化してゆく。ところで闘牛とは、今見たように供犠の一つのかたちだが、太陽から発するイメージの転位は、次第にこの供犠というかたちに場を譲っていった、というふうに見える。説得力を持つためには、供犠という全人類的な行為のほうが適当であり、そこには人間の本質のいっそう広い展開があるとも考えられたからにちがいない。

2 自己毀損者(供犠へ)

 太陽への志向は、眼球と闘牛を経由して、供犠というかたちを結ぶ。だが、この志向は、ほかのテキストにおいてもすでに示唆され、また言及されている。『太陽肛門』では、女を犯しながら喉を掻き切られたいという願望が語られ、『眼球譚』では、この願望をそのまま受け継ぐかのように司祭はシモーヌとの性交のなかで殺害され、『松果腺の眼』では、手長猿の処刑が語られる。
 供犠という行為への関心は、直観的なかたちで、もっと遡る時期からあったに違いない。バタイユの青年期についての知識がいくらかは豊富になった現在、想像を誘うものはいくつかある。父親のことは明らかにその一つである。この父親は、梅毒で失明し、半身不随状態にあり、戦争中避難する家族に置き去りされて死ぬ。悲惨のうちに周囲から見放されて死ぬという状況を、バタイユが供犠の状況に重ねていたことは確かである。それに、父親には、眼球の問題も備わっていた。父親の失明した眼球は、排泄のとき、反転し、白目の部分を剥き出しするのだったからだ。〈彼には何も見えないので、彼の瞳は、非常にしばしば上方の空虚に向いてしまうのだった。それはとりわけ、小便をする際に起こった〉1-76。これは水平に働く眼球の否定であり、それが排泄の際に現れたことは、肛門と眼球の結びつきの変奏の一つだったろう。またバタイユは、十台の後半、「ランスのノートル・ダム」に見られるように敬虔な信仰を持ったが、そのなかで、日夜見つめたに十字架のイエスの像が、まぎれもなく磔刑の図であることに次第に気づいていったにちがいない*10。
 こうした想念はバタイユの中で混融していたと思われるが、ある時、それを結像させる触媒が与えられる。それはボレルが治療の際彼に渡した数枚の写真、今ではよく知られるようになったが、一九〇五年、皇帝暗殺を謀った罪で、気を失わないよう大量の阿片を与えられて刻み切りの刑に処せられる若い中国人の写真である。バタイユは、この恐怖と苦痛に満ちた存在を「刑苦」と呼んで、生涯この写真に惹かれ続ける。四三年の『内的体験』(現代思潮社、p.268、t.5-p.139,140、あるいは『有罪者』p.77、t.5-p.275)で、彼は次のように書く。〈この刑苦については、私はかつて一連の写真を手に入れていた。最後にはその犠牲者は、胸を抉り取られて身をよじり、手足は、肘と膝のところで切断されていた。髪の毛は逆立ち、見るも浅ましい凄惨な姿は、血で縞模様をなし、一匹の雀蜂のように美しかった〉。この姿は、彼の最後の著作である六一年の『エロスの涙』のそのまた最後に、今度は五葉の写真すべてを提示した上で現れる。〈この写真は私の生涯で決定的な役割を果たした。私は、恍惚とさせるようでもあれば同時に耐え難くもあるこの苦痛の姿に、絶えることなく憑きまとわれた〉(トレヴィル社、p.182、t.10-p.626、以下同)。この魅惑はなぜだったのか。この写真は、ジョルジュ・デュマの『心理学提要』(一九二三年)に掲載されたものだったが、バタイユはこの書物のことを思い起こして、次のように書きとめる。〈デュマはこの犠牲者の表情が恍惚に似た外見を示していることを強調していた〉。すなわち彼は、そこで苦痛と恍惚が同じであること、苦痛が強いものになればなるほど恍惚も強いものとなるらしいことを教えられる。
 苦痛と恍惚のこの同一性は、『太陽肛門』の女を犯しながら殺されたいという願望、『眼球譚』の射精しつつ殺害される司祭の姿を呼び起こすが、こうしたとき、もう一つ触媒的なできごとが彼を横切る。それは二八年の「プレコロンビア芸術展」である。バタイユはこれを見学し、「消え去ったアメリカ」を書き、それははっきりした主張を持った彼の最初の理論的な論考となる。コロンブス以前の南米には、いくつかの古代文明があったが、その中で彼は、より豊かで社会組織を発達させていたとされるインカやマヤの文明よりも、〈途方もない暴力と夢遊症的な歩み〉t.1-p.155をもつアズテカの文明に引かれる。アズテカのこの特性を集約するのは、その供犠である。インカにもマヤにも供犠はあったが、アズテカの供犠はその残酷さと規模においてはるかに優るものであった。犠牲者は黒曜石の一撃で胸を裂かれ、心臓は鼓動を止める前に掴み出されて神に捧げられ、祭司は犠牲者の皮を剥いで被り、狂乱し、その後には人肉食の儀礼が行われる。しかも年毎の生け贄の数は、ひとつの都市で数千に達するほどであった。心臓がなお鼓動を続けながら太陽に向かって差しだされるアズテカの供犠は、バタイユのうちで、気を失うこともできずに心臓をさらけ出している中国人死刑囚の写真と二重写しになったに違いない。そして彼は、何よりもまず、はるかに大規模なアズテカの供犠の中にも、刻み切りの写真と同じ志向が現れてくるのを見た。〈これらの恐怖が驚くほど幸福な性格を持つ〉t.1-p.157ことを彼は語っている。
 アズテカの供犠と中国人死刑囚の姿は、彼のうちで、消えることなく持続する。戦争の時期、彼は『有用性の限界』を計画し書き続けるが、そこでは太陽から始まるエネルギーの貫流が宇宙的な規模に拡大されて、再度取り上げられる。その中で考察の出発点となるのがアズテカの供犠である。この書物は完成しないが、そのときの展開は、四九年の『呪われた部分』に移し入れられる。『エロスの涙』も、若い中国人の死の写真を最後に置いているだけではなく、その主題はこの写真が浮き彫りにした最初の思想を受け継いでいる。〈この書物の意味は、最初の一歩から、「小さな死」(訳注:性的オルガスムのこと)と決定的な死が同一であることに向けて意識を拡げることにある。快楽と狂熱から底なしの恐怖へはつながりがある〉(p.45、t.10-p.577)とバタイユは言う。最初期に見出された、苦痛と陶酔、恐怖と幸福の同一性は、最後の著作まで一貫して持続されるのである。
 たぶん問題は供犠だと言えるのだが、しかしながらここで供犠だと言ってしまうと、おそらく問題をあまりに拡げすぎて(供犠にはさまざまのレベルと様態がある)、この時期に特有の彼の問いを取り逃がしてしまうことになるだろう。私は今しばらく彼の書いたものを密着して読むことを続けたい。読んでみたいのは、「ドキュマン」の最後の論文のひとつ、三〇年の「供犠的身体毀損とゴッホの切られた耳」(『ドキュマン』、二見書房)、および補足的に三七年の「プロメテウスたるヴァン・ゴッホ」(『ランスの大聖堂』、みすず書房)である。前者は、身体を自分で損傷した者たち、すなわち自己毀損者の例を多く集めて、その意味を探ろうとしたものだが、これを読むには、自己毀損の意味と、それが太陽との間に持つ関係の二つの段階を追うことが有効であると思われる。
 ある男は、自分の手の親指を歯で食いちぎる。ある女は、自分の手で自分の眼球を抉り出す。ゴッホもまた、耳の切断によってこの自己毀損者の系譜の中に入ってくる。〈ゴッホが属しているのは、芸術の歴史ではなく、私たち人間の存在の血にまみれた神話である〉(「プロメテウスたるヴァン・ゴッホ」、p.39、t.1-p.500)というからには、彼の作品はまず「神話」的に読まれねばならない。ゴッホにおいては、その作品の並はずれた質のために、自己毀損者の特性はいっそう明瞭となってくるが、それはまずさまざまの神話的な、あるいは民族学的な出来事にも視野を広げることを求めてくる。自己毀損的行為は、各地の神話と祭礼に数多く見られる。プロメテウスは、自分の肝臓を捧げ続け、オイディプスは自分の眼を潰し、キュベレーの神官たちは興奮のあまり自分の男根を切断して女神に捧げるのだった。割礼の儀式は至る所に見られるし、歯や指を捧げる例もそれに劣らず各文明に遍在している。ではこの自己毀損とは何か。〈自分を、あるいは自分自身のある部分を自分の外へ投げ出す必要性〉(「供犠的身体毀損」、p.167、t.1-p.265)は、どこから来るのか。バタイユはこの論文ではそれをはっきりと書いていないが、以後のバタイユをいくらか読んだ者には、理由は明らかであろう。これは外に出ること、すなわちextaseの実践なのだ。自分の身体の一部を身体の外へと投げ出すことで、個体としての限界を越えようとすることだ。この自己毀損について、それが投げ出すことであるに注目するならば、自己毀損とは贈与の一種である。だが贈与されるのが自己であり、また贈与が実は破壊であることによって、この自己毀損はバタイユの贈与の理論を集約するものである。
 そしてこの自己毀損は、もっとも中枢的には、太陽の存在と連動している、とバタイユは考える。自分の親指を食いちぎった男は、〈太陽を凝視し、そして指を一本引き抜く命令をその光から受けて〉p.156、t.1-p.258それを行ったのだし、目を抉りだした女は、〈神の声がし、やがて炎の人を見〉p.165、t.1-p.263て、その命令を受けたのだと言っているが、バタイユがこの炎の人を太陽と見なしているのは確実である。プロメテウスの肝臓をついばみに来る鷲は、明らかに太陽の化身である。そしてゴッホは、〈太陽との間に驚くべき関係を持って〉いてt.1-p.259、それは画家としての彼の仕事の中にはっきりと見出すことができる。それがゴッホの例の利点である。
 太陽が実際に彼の作品に直接現れるのは、事件後の一時期のことだが、代替物は、もっと頻繁に現れている。それはもちろんひまわりであり、ろうそくである。彼は数多くのひまわりを、枯れたひまわりすらをも描く。事件のあった年、アルルで、彼はろうそくの灯された作品をいくつか制作し、そして夜、絵を描くという口実のもとに、帽子に火のついたろうそくを挿して現れる。ろうそくは太陽の本来の明るさから較べたら、衰弱した光であるのかも知れない。太陽それ自体は、事件後彼がサン・レミの精神病院に滞在することになってから、突然「その栄耀の絶頂にある」ものとして出現し、けれども退院後死ぬまでの間は姿を消してしまう。バタイユがこれらの消長に見ているのは、明らかに『太陽肛門』から「腐った太陽」にいたる過程で確かめられた、燃え上がりかつ凋落する太陽である。
 バタイユは、ゴッホの背後に、変容する太陽の存在を見ている。彼はゴッホとこの太陽の関係について、次のように述べる。

〈この画家(かぼそい燭台の灯、および時に新鮮で時に萎れたひまわりへの同化を次第に進めていった)と、太陽がそのもっとも強い爆発のかたちであるような一つの理想との間の関係は、かくして、人間がかつて神々との間に持っていた関係に類似したものとなって――後者の関係が人々の心をまだ打つ限りにおいてのことであるが――現れるように見える。身体の毀損は、通常、こうした関係の中に、供犠として入り込んでくる。それは、神話のなかで、かなり一般的に太陽神として性格づけられている最終段階の理想に、自分の身体の一部分を引き裂き、むしり取ることで完全に類似しようとする意図を表している〉p.164、t.1-p.262。

 太陽とは、一方的に熱と光を与え、その源を自分自身の中に持ち、ほかの何ものにも依拠しない存在である。太陽がこのような自立的なありようを持っているのは、まさに自分を破壊し、燃焼させ、消費することによってである。だから太陽の呼びかけに応じ、太陽に同一化しようとする者は、自己を破壊し、それによって輝かなければならない。こうして太陽の呼びかけに応じる者は自己毀損者となる。自己の存在を破壊することはエクスターズの実践であることを先に見たが、それは同時に有用性の世界――どのものも他のもののために存在している――から自己を引き離すこと、自己をそれ自体で存在させようとすることでもある。だから自己毀損とは、自己の存在の探求でもある。
 だが「供犠的身体毀損とゴッホの切られた耳」は、さらにもう一つ先の問題を提出する。というのは、自己を毀損することは、自分を神と関係づける可能性をもたらすからである。自己が他者との関係の中にあること、つまり他者に依存することは、人間の条件であり、この条件の中にある限り、人間は人間に留まる。これに対して、存在の理由を自分自身のうちに持つこと、他の誰も依存しないことは、人間的な条件を超えることであり、そのことは神的な性格を帯びることになる。そして自己毀損が、今見たように、自己をそれ自体として存在させようとすることであるとすれば、自己を毀損する者は神的な性格を持とうとすることになる。
 ここである変容が始まっていることがわかるだろう。神あるいは太陽の声にしたがって、神に捧げようと自己を破壊する者は、神に近づきつつそのまま神へと変貌しようとする。あるいはこの変容の度合いがもっと進むと、神に自己を捧げようとする者、すなわち自己毀損者は、そのためにすでにして神聖さを帯び、半ば神となってしまう。「神への供犠」は「神の供犠」へと変容してしまうのである。
 ここに注意を要する点がある。自己毀損の試みは、以上のように神性を帯び始め、そのために神話と化してしまうということが実際に起こるからである。私たちに一般的に知られている自己毀損者はほぼ神話の神々、あるいは神話的人物である。プロメテウスもオイディプスもそうである。バタイユの偏愛するアステカの神々もこの自己毀損によって神、とりわけ太陽神となる。疥癬病みのナナウアチンは、自ら炎の中に飛び込むことで太陽となった(『有用性の限界』で語られt.7-p.192、後に『呪われた部分』に移し入れられるp.59)。このような神話化あるいは想像化は、完全な自己毀損がきわめて困難であることから来ていて、社会学者たちはこの変化を不可避だと見なしている、とバタイユは考える。彼はユベール/モースの「供犠に関する試論」を次のように引用している。〈自らを供犠に供する神は、取り返しがつかないやり方で自分を贈与する。なぜなら、今回、どんな媒介も消えてしまっているからだ。同時に供犠を行う者sacrifiantでもある神は、犠牲victimeと一体をなしており、時には祭司sacrificateurとも一体である。通常の供犠の中に入り込んでいるさまざまの要素のすべてが、ここでは、お互いの中に侵入し合って、混融している。このような混融は、ただ神秘的で、想像上の、そして理想的な存在にとってしか起こり得ない〉t.1-p.268。
 これに対して、バタイユは真っ向から反論する。彼は神の供犠は自己毀損者によって実現されていると批判する。この批判のなかに、この時期のバタイユのもっとも枢要な主張があると私には思われる。

〈ユベール/モースは、ここで、自己毀損から借りることのできたであろう「神の供犠」の例を無視している。そしてただこの例を通すことで、供犠はその見せかけの性格を失う〉t.1-p.268。

 供犠のなかに作用するさまざまな力の意味を捉えるためには(ユベール/モースが行っているように)、祭司、犠牲、そして参列者という構図を描くことは、きわめて有効であった。このことはバタイユも百も承知だったろう。しかし、この構図を出発点として、ユベール/モースとバタイユの間には、言ってみれば、次にそれをどの方向に動かすかについての違いがある。ユベール/モースは、供犠の作用の意味を明晰に保持するために、人間はこの構図を保持し、それを逸脱する――「混融」だと彼らは言う――ものは神話の領域に入れてしまったと考える。しかし、バタイユは、この構図をもう一度原点に向かって凝縮しようとした、と言えるように思う。彼は、供犠の本質だけを取り出すために、拡大され明瞭化された供犠の意味を極度に集約して単独の人間のうちに見出そうとした。そしてそれを、自分で自分の身体を破壊する自己毀損者のうちに見出した。そのことは、彼にしてみれば当然であったと言える。論文の最後で、彼は再度ゴッホを取り上げ、通常の供犠を行う者たちと較べてはもちろん、集団的騒擾のなかで自己毀損を行う者たちに較べても、いっそう強く〈この驚嘆すべき自由〉t.1-p.270を獲得したのだと述べている。そこから較べると、供犠が犠牲、執行者、参列者に分かたれて儀礼の形をとっているのは、「見せかけ」すなわち空疎な道具立てに過ぎない、と言うのだ。
 供犠をめぐるこの時期のバタイユの思考の頂点は、この自己毀損者の上にある。自己毀損あるいは自己の贈与は、供犠のより集約された、あるいは供犠を超えるイメージである。戦争中に書かれた『有用性の限界』には、「自己を贈与することのなかに見出される栄光」という節があるしt.7-p.191、『内的体験』は、そのすべてではないにしても、このイメージの浸透を受けている。彼はただ自分を破壊することによって、それだけによって神性を帯び、けれどもどこまでも人間であり続けようと考えるのである。

3 「死にゆく私」と「死にゆく神」の間で

 ここにもう一つ気になるテキストがある。それは三三年に、マソンが「供犠」と題した連作の展覧会を開いたときに作品に付して発表されたテキストである。このテキストは三六年に、マソンの画集に含まれて刊行される。この画集は「アセファル」で教典のように使われたらしいが、バタイユのテキストは、後年改稿されて「死はある意味で瞞着である」という標題で『内的体験』に収録される。だからこのテキストは版としては二種あることになるが、二つを較べると、なるほど前者の記述が後者に受け継がれているところが認められるものの、後者にとってその主題となる最重要部分――たとえば標題ともなる「死は一つの瞞着である」という主張――は、後から加えられたものであって、この意味では、二つを別の著作とし、「供犠」を独立した論文として扱うほうがよいと思われる。「供犠」について言えば、標題に反して供犠という言葉は一度も現れないが、供犠の姿を背後から照射するかのように、死に関する展開がたどられている。そこに私たちは、自己毀損者の例から引き出された死についての考察が深化されているのを見ることができる。
 「死」の問題は、「私」という存在から出発する。「私」とは一組の任意の男女の関係から生まれて、全く蓋然性のない存在であるすぎない。哲学は、この存在を問うことができず、せいぜいそれを価値の基準に作り替えてしまうことをしてきただけである。この非蓋然的な存在は、異質なものとして世界の形成から排除されるが、他方でこの異質性のために途方もなく自由であって、世界のうちにあるものの限界を越え出て行くことができる。
 ところで非蓋然的な存在がこの力を持つのは、死の持つ暴力を介することによってのみである。〈ただ死という限界において、この「私」の本性そのもの――途方もなく自由で「そこにあるもの」を超越して行くところの――が、暴力的に露わになる〉t.1-p.91。明らかにされるこの「私」は、抽象的でも、個体的でも、中性的でもない。なぜならそれは「死にゆく私」だからである。そして〈「私」は、ただ「死にゆく私」というかたちにおいてのみ、「私」の特異性に、「私」の完全な超越性に接近する〉t.1-p.91。これをより敷衍してバタイユは次にように述べる。

〈けれども、「死にゆく私」がこのように明らかになるという出来事は、死が単に苦悩に対して示すされるたびごとに起こるのではない。このような出来事があるということは、存在は、それが死の非現実的な時間の中へ投げ込まれる瞬間に、強権的な完成を遂げ、至高のものとなることを想定させる。それは、生が強権的imperatifとなることが要請されること、同時にそのような生が衰弱することdefaillanceを想定させる。この生とその衰弱は、「私」というものが純然たる誘惑を受け、その結果英雄的な形態を取るに至ったことの結末である。こうして、それは「死にゆく神」という引き裂くような転倒に接近する〉t.1-p.92

 これは両義的で難解な問題に触れた箇所だが、私たちは、これまでの理解をもとにすることでいくつかの推測を働かせることができる。「死にゆく私」は「死にゆく神」となるというのが上述のいくつかの引用の骨子だが、それは明らかに、前章で見てきたような同じ時期の探求、自己毀損とは神の供犠でもあるという死の経験の探求を受けている。
 人間は、死を意識することによって、死んでゆく自分を意識する。おそらくこれが自己を意識する最も重要な方法である。こうして、人間は、死にいっそう近づくことで、自分をいっそう完全に意識することに接近する。だがこの度合いがさらに進むと、この意識は人間の自己としての存在を意識することを超えてしまう。これが「完全な超越性」と言われているものだ。そして、このような超越性は、人間の存在の限界を超えるものであるゆえに、死につつあるという属性を持つことを条件として、神性を帯びる。これが、「私」は「死にゆく私」となることで「死にゆく神」となるという「引き裂くような転倒」の意味であろう。
 この過程は、明らかに「供犠的身体毀損とゴッホの切られた耳」で見られたものだが、ただ「供犠」では、それはもっと精密に、他の可能性をも視野に入れ、批判しつつ考察されている。問題はまず、生が完成して強権的となり、同時に衰弱するdefaillanceと述べられているところである。この出来事が〈「私」というものが混じりけなしの誘惑を受け、その結果、英雄的な形態をとるに至ったことの結末〉だとされている点を考え合わせるなら、それは、自己意識がその極限で完結しながら、同時に崩壊する出来事をさしているだろう。この生が「強権的」となりうる可能性があることが触れられているが、このimperatifという表現は、明らかに同時期の異質学――とりわけ「ファシスムの心理構造」――での用い方と共通しており、清浄でも不浄でもある「至高のもの」が倒錯と固着によってイデアリスト的な支配力を持つようになり得ることを指している*11。だが、それはすぐさま衰弱に向かうと述べられていることは、この固着を逃れるということだ。そしてこのように逃れ得るのは、この「至高のもの」が「死んでゆく」ことによってである。すなわち、出現した「神」は、本当の神であるためには「死んでゆく神」でなければならないということだ。こうして、アズテカの神々は、自ら死に、かつ同時に常に死を要求する神であったし、ニーチェが神の死を宣告するのは、自分自身が神となり、ついで神として死ぬためであった*12。バタイユは、イエスの処刑を同じ視点から読み取ろうとし、また神の死と再生の神話に興味を引かれ続ける。
 しかしながら、「死にゆく神」は、本当は、神話にすらならずに死んでゆくのがもっと望ましいのだ。バタイユは、神を、ユベール/モースの言う〈神秘的で、想像上の、そして理想的な〉存在から引きずり降ろす。「死にゆく神」は、荘厳な神ではない。それは惨めに虐殺されてゆく神である。この「死にゆく神」の様相をバタイユは、いくつか言及している。それはまず次のような箇所である。

〈神の死は、形而上学的な変質としてではなく(しかしながら、存在の共通の尺度に則って)、力溢れる喜びに渇く生を、圧するような死の動物性の中に吸収することとして、実現される。引き裂かれた身体の汚物まみれの様相は、嫌悪が完全なものとなることを保証し、生はその中に沈んでゆく〉1-92。

 神の死はけっして崇高で理想的である様態をとらず、人間的ですらなく、動物性の水準にまで落ちてゆくものである。そして次の引用は、「死にゆく神」のこの様相が、それを見守る者たちをどこに導くかを述べている。

〈恍惚としたヴィジョンの流れのうちで、盲目的に生きられた十字架上の死とラマ・サバクタニの限界において露呈してくるのは、ついに物体objet、光と影のカオスのなかで、けっして神としてでも虚無としてでもなく、破局として現れる物体である〉1-94。

 残酷と汚辱のなかで、神でも虚無でもなく破局となって最後に現れるのは、ただ物体である世界だ。この物体objetという表現は、「低次唯物論とグノーシス」から異質学の探求のうちに彼の関心を惹きつけた「物質(matiereあるいはmateriel)」という言葉と通底しているだろう。このような世界をもたらす「神の死」を、バタイユは直截には、〈犬のように死ぬ〉t.1-p.93ことでなければならない、と言っている。犬のように死ぬとは、日本語の直訳でもそのニュアンスは伝わるだろうが、フランス語で惨めに死ぬことを意味する。このテキストが献呈されたマソンの作品には、〈犬のように死ぬ〉神が描かれている。画集「供犠」には十二の作品が収められているが、その一つで、十字架に欠けられた人物は、犬ではないが、ろばに変貌し、その上失禁にまで至っているのだ*13。


*1バタイユの回想による。「シュルレアリスム、その日その日」。バタイユ全集、ガリマール社、第八巻、一七七頁。以下この全集からの引用は、t.8-p.177のように指示する。また邦訳のあるものは、多く借用させていただいた。訳者の方々に感謝したい。その場合の出典もページ数を指示する。
*2『評伝シモーヌ・ヴェイユ』(シモーヌ・ペトルマン)からの引用。これはヴェイユがボリス・スヴァーリンに宛てた手紙の一節である。
*3バタイユは一九一八年、二十一歳の時に、「ランスの大聖堂」(『ランスの大聖堂』、みすず書房)を書いている。これは彼にとって残存する最初の著作である。彼はフランス中部のビヨンに生まれ、四歳の時に北仏のランスに転居し、この町で第一次大戦に遭遇する。『眼球譚』での叙述によれば、彼はドイツ軍の包囲下の町に半身不随の父親を残して母とともに避難し、その間に父親は死去して、そのことは深い傷となって彼に残る。同じ時、町にあった有名な大聖堂がドイツ軍の砲撃を受け、会堂部分を破壊される。戦後これを再建する運動が起こり、当時サン・フルールの神学校にいたバタイユは、再建への協力を呼びかけるパンフレットを起草した。これが「ランスの大聖堂」である。
 この文書を読むと、大戦で荒廃した精神を聖堂の再建によって立て直そうと訴える(同時にそれは父を遺棄した自分の傷を癒そうとすることであったろう)敬虔と言うほかない青年の姿が現れてくるが、問題は、後年のバタイユがこの文書について完全な沈黙を守ったという点である。文書の存在が明らかになるのは、彼の死後、古文書学校時代の友人アンドレ・マソン(画家のマソンとは同姓同名の別人)が書いた追悼記(「クリティック」、一九六四年)中での言及による。文書は数年後ようやく発見される。バタイユは自分の草稿類を入念に保存したが、それと較べるとこれほどの隠蔽のしかたは注目を引く。だが文書を実際に読んでみると、隠そうとした理由ははっきりしているようにも見える。この敬虔さは、以後激烈なキリスト教批判者となった人間から見れば、若年の迷妄と見えたかも知れないからである。
 彼は聖堂が象徴する天空へ向かう志向性を称揚したが、それは十年後の「ドキュマン」では、完全に転倒されるものだった。それにこの文書には、フランスという風土の称揚すらある。ランスとは、フランク王国の建設者であったクロヴィスがキリスト教に改宗し、戴冠式を挙げた(四九六年)町であり、その由来のために、以後歴代のフランス国王は、ここで戴冠式を挙げなければフランス国王とはみなされなくなった。ジャンヌ・ダルクもここでシャルル七世を戴冠させる。だからランスの聖堂を再建するというのは、フランス精神の再建という意味をも持っていたのであって、それは民族や土地に対する固着を激しく批判することになる人間にとっては、許容できないものだったろう。
 では読者としては、この著作をどう受け取るか。この文書は以後のバタイユからすると異物のようなものであって、彼自身がしたように目をつぶってしまうと、一貫したイメージが結びやすくなろうが、それはできない。私は次のように考えたい。この著作から見えてくるのは、地上の合理性に縛り付けられた人間の条件を越えようとする傾向であり、この傾向は、少年期においては避けがたい環境による限定を受けて、カトリックの伝統に接近する結果をもたらした、と。私たちはそこに強い宗教的傾向を見ることができる。
*4兄宛の手紙である。近年になってバタイユの書簡集がいくつか出版されたが、この手紙は、『バタイユ書簡選』、ミシェル・シュリヤ編、一九九七年(Georges Bataille, choix de lettres, 1917-1962, edition etablie, presentee et annotee par Michel Surya, edition Gallimard, 1997)にある。五六七ページ。
*5『太陽肛門』(二見書房)の邦訳での生田耕作氏の指摘による。
*6当然ながら、火山への関心は消え去るものではない。「アセファル」では、儀式に硫黄の青い火が用いられたが、硫黄が珍重されたのはそれが火山の産物であることによる。また、『有罪者』には、エトナ山で神秘的な経験を持ったことが語られている。
*7この発想が、実際に脳生理学に根拠を持つかどうかは、未確認である。
*8頭頂の眼球は、『内的体験』の「刑苦への前歴」の「青空」の章にも現れる。
*9この点に関しては、バルトの「眼の隠喩」とフーコーの「侵犯行為への序言」というよく知られた二つの論文があるが、眼球のイメージの卵への転位をそれだけで取り出し、この転位の様態をフェティッシュなやりかたで明らかにしてみせるバルトの分析よりも、眼球の持つ侵犯的な役割を浮き彫りにするフーコーの論考(太陽との結びつきについては言及されていないが)のほうが私には興味深い。
*10三四年の「供犠」に次のような一節がある。〈十字架を前にしてのキリスト教的な瞑想は、単なる敵意のうちで棄却されるのではなく、完全な敵意のうちで引き受けられるのであり、この敵意は十字架に体をぴったりと押しつけるよう求めてくるのだった。このようにして瞑想は、恭しい讃美としてではなく、私の死として生きられねばならないし、それは可能なことでもある。瞑想は残忍な恍惚感を貪ろうする意欲に満ち、盲目的な狂気の飛躍を伴うが、この飛躍だけが、抗うことのできない純粋な要請の持つ受難(パッション)へと道を通じさせる〉(1-94)。このテキストについては後に扱う。
*11バタイユの異質学の構想に関する筆者の考えについては、「バタイユ・マテリアリスト」および「バタイユ・ポリティック」を参照されたい。
*12「ニーチェの狂気」三九年。この点に関する筆者の考えについては、『ニーチェの誘惑』(書肆山田、一九九六年)の解説を参照されたい。
*13聖なるものがスカトロジーと結びついていることは、同じ頃の「サドの使用価値」で異質学の試みとして理論的に明瞭に主張され、以後とりわけ『青空』『死者』『C神父』『シャルロット・ダンジェルヴィル』などのフィクション作品に現れる。


(第1章 終)

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