『横浜トリエンナーレ2001』 パシフィコ横浜, 赤レンガ倉庫, 他, 横浜市内 2001/9/2-11/11 (9/11,25,10/9,10/23休), 10:00-18:00 (金10:00-20:00) パシフィコ横浜がメイン会場、ということで嫌な予感がしたのだけど、それが 当たってしまった。正直に言って、草間 弥生 『ナルシスの庭』 (1996-2001) 以外、 これと言って観て楽しめるものが無かった。全作品をチェックしたわけでなく、 パシフィコ横浜と赤レンガ倉庫の2会場と、その界隈の野外作品をチェックした のだけれども、それ以上丁寧に観て回る気も殺がれてしまった。違う会場で それなりの企画の中で観れば面白いと感じたかもしれない作品もあるが。 こまめに展覧会や画廊を巡っていた方が、作品を楽しむ、ということはできる ように思う。 まず、多くの作品を企画的にも展示空間的にも詰め込み過ぎのように思う。 相互に脈絡を感じない作品を何十も続けて観ると、一つ一つの作品の印象が漠然と してしまう。何十もの作品を並べていたとはいえ、La Biennale di Venezia の Arsenale 会場であれば、今年なら _Platea dell'Umanita_ というテーマが展示 された作品群からも感じられるものだった。去年の越後妻有トリエンナーレの場合、 テーマとしての方向性は弱かったが、サイト固有性という制約が代わりに方向性を 決めていた感もあった。しかし、横浜の場合、サイトスペシフィックでもない。 脈略なくてもこんだけ集積すれば、見本市みたいに、最近の現代美術の流行の傾向 (映像や写真を使った作品や、ワーク・イン・プログレス的なプロジェクトが多い) とかは判るかもしれないが。国際美術展なんて所詮見本市のようなもの、と言えば それまでなのだが、他に比べてもここまで見本市みたい、と感じたのは、 現代美術の見本市 NICAF のかつての会場であり、その他多くの見本市イベントが 多く開催されている パシフィコ横浜 が会場の一つだったせいだけでは無いと思う。 また、パシフィコ横浜 の場合、空間の区切り方が曖昧になってしまっていた。 その曖昧な区切りを使って隣接する作品に関連を持たせているのならまだしも、 そういう計算が感じられないのは辛い。例えば、Pipilotti Rist の インスタレーションなど、天井もちゃんとしたホワイトキューブの中に作られて いたら、綺麗だったかもしれないと思った。しかし、ビデオが投影されたレースの 上すぐに天井はなく、レースを透かして、ちょっと離れた場所にある他のブースの 高めの壁やら遥か高くの見本市会場の天井が見え、ビデオの映像もわけわから なくなっているし。隣の Marina Abramovic のブースからのカンカンいう足音や、 会場全体に響く雑音で、ビデオの音声もかき消されがちという…。 パシフィコ横浜 は天井も高く遠くが見とおせるような感じもあるし、舞台裏とも 言えるブースの裏側も見えてしまうし、全体としても雑然とした印象が否めなかった。 アートは多分に見せ方勝負だと思うのだが、そんな見せ方でいいのか、と思った。 そんな中、草間 弥生 『ナルシスの庭』 は、ガラスで囲まれた閉空間を作りこむ 必要があるおかげもあって、パシフィコ横浜会場 の欠点から逃れられていた。 さらに、沢山のミラー状の表面を持つボールが吊され、床にも多くが配置された 空間が、綺麗さを越えた偏執まで感じさせる、そんな強さも作品にあって、 他に比べて際立っていた。もちろん、どこに立っても全て球に自分が写っている のが見える、と、コンセプトと表現が見合っていたし。 赤レンガ倉庫会場の場合、ハコ的に、普通の美術館のように空間の区切りも良く 出来ていたと思うが。笠原 恵実子 の (女性の) 髪を使った丸い座布団の作品と やなぎ みわ の作品の並びなど、館全体とまで言わなくても、フロア全体が その方向の作品でまとめられていたら、もっとインパクトがあると思うのだけど。 しかし、やなぎ みわ の新作は、今までの無限性を感じさせる構図の美しい作品 ではなく、写真で物語を作るような作品。前の作品の方が見た目の強さがあった ように思うのだが。 世界中のそれなりに名の通った作家の作品がこれだけ集まれば、さすがに楽しめる ものもそれなりの数はあるだろう、と期待していたのだけれども…。 2001/10/8 嶋田 Trout Fishing in Japan 丈裕