『Mutations』 TN Probe, 港区北青山3-6-1ハナエモリビル5F, tel.03-3498-2171, http://www.tnprobe.com/ . 2001/11/10-2002/01/26 (日祝休;12/23-1/6休), 11:00-19:30. 結局何を伝えたいのかほとんど理解できなかったというか理解したいと思う気が 失せる展示だったけれども、特にビデオの展示の仕方としては、ひょっとして こういうことなのかなぁ、と考えさせられることはあった、そんな主に建築と都市に 関する展覧会だった。ちなみに、会場デザインはアトリエワン。 例えば、科学技術の分野でのプレゼンテーションにおいて、論文をそのまま 読み上げるような講演や、論文を (拡大して) 貼り付けたようなポスターは、 最も悪いものだとされている。論文に書かれていることを追ってちゃんと論理的に 理解するという目的なら、せいぜい数十分の聴講や大判のポスターの立読より、 机に向かって論文を読んだ方が良い。発表を聴いたりポスターを見たりした人に、 「後でちゃんと論文を読んでみよう」と思わせるのが、講演やポスターでの プレゼンテーションの主目的である。そう工夫されているものが、良いものと されている。 しかし、Rem Koolhaas の Harvard Univ. での都市プロジェクトに関する展示は、 展覧会のパンフレットのページをそのままギャラリーの壁三面にびっしり貼る、 というもの。ある意味で、この最もやってはいけないと言われているやり方で 展示されていた。もちろん、ここでの展示は科学技術における論文発表ではないし、 そうしてはいけないということはない。しかし、違う文脈とはいえ、下手な 発表としてありがちという意味で表現形式も「凡庸」で、それも「悪い」とされて いるようなプレゼンテーションをここであえてするような、この文脈における 表現上の必然性が、僕にはたいして判らなかった。こんな感じで、テキストに基づく 展示は、カタログ (壁に貼られたり床に敷き詰められたりしたものでもいい) を 読まなければ何かやっているらしいという雰囲気以上のものは得られないし、 カタログを読めば展示として観る必要が無い、というものだった。 しかし、こんな展示をする必然性を考えていて、興味深かったのは、ビデオの 展示方法。映画的に大きな投影面や大きなディスプレイに向かって椅子が並べられて 観るのでもなく、また、彫刻的に台座の上に置かれたディスプレイを観るのとも違う。 低い位置に置かれたTVを床に座って、もしくは、それに近いくらい腰を下ろして観る、 ということになっている。ある意味で、真剣に映像を読み取る、というよりも、 カウチポテト的にまったりと観るということを想定しているかのようだった。 そう、窓際に並べられたヘッドホンを使ったサウンド作品の展示にしても、居間的、 というか、縁側的、というか、のんびりまったりした居間カフェ的な展示空間だった。 実際、ミネラルウォーターを買って長居できるようになっていた。もしかしたら、 こういう居間カフェのようなノリで展示する、というのが、この展示のコンセプトで、 壁に貼られたページとかもその演出に過ぎないのかもしれない。 しかし、そういう形での情報発信と受容の可能性を試みた、というには、もはや 「居間カフェ」なんて新しいコンセプトでもなく、この展示スペースのある界隈に それなりの数存在する。こういう展示形態でないと伝わらない何かがあるから それを選択した、というより、居間カフェでまったり本を読んだり音楽を聴いたり するというようなスタイルが、もはやもっとも自然な情報の受容方法になっている 人たちが増えてきており、それをより自然なものとして使ってしまったのだろうか、 と、この展示方法を観ていて思ってしまった。 確かに、例えば科学技術で用いられているプレゼンテーションに比べて、緊張を 強いることなくリラックスできるのかもしれないが。しかし、その緊張感というのは、 かならずしも興味を持っていない人に興味を持ってもらったり、今まで興味の 無かった知らなかったことに接するために、要するに他者と情報交換するのに 避けられないものではないのだろうか。 例えば、居間カフェのような Koolhaas の都市プロジェクトの展示は、結局のところ、 Koolhaas の名前も知らない、もしくは、必ずその仕事に興味を持っていない人に、 このプロジェクトを興味持たせ、知ってもらうための展示ではない。この展示空間は、 こんな展覧会が無くても Koolhaas のプロジェクトの資料を読む、という人が、 自分の部屋や図書館の閲覧室の代わりに、まったりと資料を読むための空間である。 情報伝達は資料を読むことに任せられている、という意味で、展示空間というのは もはや情報を伝えるためにあるのではない。せいぜい、そこに集う人達が同じ興味や 趣味、価値観を持っているということを確認するため以上のものはない、と僕は思う。 そういう意味で、こういう興味や趣味、価値観を必ずしも共有していない (例えば、 Koolhaas はそれなりに興味はあるけど、展示を観て面白そうだったら資料を読んで みようと思うかもしれないが、無条件で資料をチェックするほどではない) 人が 行っても仕方ない展覧会のように思う。いや、興味や趣味を共有しているかどうかの 試験紙くらいの意味はあるかもしれない。 こういう展覧会は、他にも、社会プロジェクト的な現代美術の展示でもありがちだし、 現代美術の文脈でも問題があると思うのだが。ここで展示されている都市プロジェクト のようなものは、そういうものに比べて、目的や結果について社会的に説明責任が あるし合理性実効性も求められているものだと思うのだが。こんなことしていて 良いのだろうか…。 2001/12/09 嶋田 Trout Fishing in Japan 丈裕