川俣 正 『デイリーニュース』 Tadashi Kawamata, _Daily News_ 水戸芸術館現代美術ギャラリー, 水戸市五軒町1-6-8, 029-227-8120, http://www.arttowermito.or.jp/ . 2001/11/3-2002/1/14 (月休;12/24,1/14開,12/27-1/3休), 9:30-18:30. メインの展示ともいえる約150トンもの新聞紙の山の圧倒感は凄かったし、それだけ でも水戸まで行った甲斐があったとは思ったけれども、他の過去のプロジェクトの 展示に関して言えば、全く否定的に感じてしまった。ま、後者は、おまけと思えば 気にならないものではあったけれども。 川俣 正 といえば、美術館のような空間を用いず、比較的公共的な空間を使って、 そこに仮組みの足場のようなものを作品として作る、という印象が強い。美術館を 場所としてあまり使わないように思うのだが、『日本の現代美術1985--1995』 (東京都現代美術館,1995) の際に、美術館の建物の外側に、建設の足場の材料を 使って回廊のようなものを作ったものを観たことがある程度。今回は、建物の外部は 全く使わず、内部のギャラリー空間のみを使っていた。それも意外だったが。 建物の内部空間を使ったインスタレーション、というと、フランスにおける椅子を 組み上げた _Le Passage des Chaises_ や _Les Chaises de Traverse_ といった 作品を思い出すのだが。そちらは Gilles Coudert によるドキュメンタリー映画で 観ただけだけれど、ある意味で共通するところもあるかなぁ、と思うところはあった。 「新聞の回廊」というか。整然と積み上げるのではなく、雑然とした形に (構造的 には安定しているが) 積み上げるというのも、川俣らしい、というか。建物の外部に インスタレーションしていたときは、この雑然とした感じは、それが仮の物である ことを表現していた感もあったけれども。今回の展示では、むしろそういう社会的な 意味を離れて、単に 川俣 の癖というか個性という感じになってきたような印象を 受けたのだが。それは、もしかしたら、ギャラリーのホワイトキューブな空間に 置かれたからかもしれない。あと、整然に詰まれていたら、逆に、大量にあるという 印象を見た目に与えないようにも感じる。例えば、ギャラリー崩れて流れ出てくる ように形作ったり、不安定に撒き込むように迫るような形で新聞紙の壁が屹立して いたり、という形が、見た目に量を感じさせるような効果も考えられているように 思われた。しかし、4つのギャラリーから溢れ出さんというばかりの新聞紙は、 その意味とか作家の意図なんでどうでも思うくらい圧倒的だ。この手の立体作品 (例えば、国安 孝昌 の丸太と煉瓦を積み上げる作品を、僕は連想するわけだが。) は、 量の効果は大きいと思うし、そういう点でも今回の150トンの新聞紙、というのは 凄かったように思う。 しかし、その一方で、過去や現在進行中のプロジェクトのドキュメントの展示に 関して言えば、ここ数年流行の、社会プロジェクト的な現代美術作品に関する展示 同様のダメさだった。しかし、写真とラフスケッチからなる過去の記録をみていて、 Kristo 以来、この手のプレゼンの仕方は変わらないのかなぁ、とか思ってしまった。 というか、こういうプロジェクトのドキュメントの作品化は、それが美的な体験を もたらすからというよりも、この手の売ることができない作品の資金集め的制度 でもいうべき、制度的なニーズから生まれているのかしらん、と思ってしまった。 そういう意味では、現在進行形のプロジェクトのプレゼンの方が工夫されていた とは思うけれど。しかし、むしろ、居間カフェ的展示同様のダメさも感じてしまった。 2002/1/13 嶋田 Trout Fishing in Japan 丈裕