| 白山書房の本紹介 | ![]() |
|
丹沢は「聖地」であった。 現在歩かれている丹沢の尾根道のほとんどは、修行者たちが数百年もの間、踏み分けてきた行者道である。 【プロフィール】 |
●目次 大山修験の行者道 八菅修験の行者道 日向修験の行者道 丹沢山界マンダラ 丹沢については多くの本やガイドブックが今までに出版されている。今はインターネット上で山行記録やコース紹介をしているグループや個人も少なくない。東京・横浜などの大都市に近い丹沢は、現代の登山者やハイカーにとってアクセスしやすい格好の大自然である。ある人はゆっくりと景色や花を愛で、またある人はハードに沢や稜線を攻め登る。 その中で、古い文化や歴史に興味のある人は八菅山伏や日向山伏の行者道についての情報をどこかで読んだり、山開きや山麓の寺院・神社の祭礼をつかさどる現代の山伏を見て、過去の山伏たちの姿に想いをはせることもあるだろう。 近年、山岳宗教の研究にはめざましい進展がある。今まで不明だった過去の山岳宗教のありさまが、考古学・歴史学・地理学・宗教学・文化人類学・民俗学などの学際的な研究によって次第に明らかにされつつある。本書は、そこで輪郭が現れはじめた全国的な山岳宗教史の流れの中に丹沢山地を置いて、新たな視点で丹沢を紹介したつもりである。 「山岳宗教」とは、「験者」「修験者」「山伏」「行者」「法印」などと呼ばれる宗教者が、大自然の中で修行しながら宗教的な力の獲得を目指すものである。 その中でも中世期に体系化された「修験道」は山岳宗教の代表と言えるだろう。鎌倉時代になると、七〜八世紀の山岳宗教者「役小角」(役行者)が修験道の祖として神格化されるようになった。この信仰はもちろん今も受け継がれている。「なーむじんべんだーいぼさーつ」(南無神変大菩薩)という役行者の宝号は、現代の山伏の儀礼の中でも大変重要なものなのである。 江戸時代の日向山伏も丹沢表尾根から主脈へ至る尾根筋を「役行者のお通りの跡」と書き残している。役行者の行法を受け継ぐ修験者としての自覚を持って修行に励んでいたことがわかる。 しかし、中世の大山修験は、修行ルートの開拓者を「上人(良弁)登峰、斗藪三十五日也」と記している。役行者ではなく大山寺を開山した良弁の行法を受け継ぐ修験者という自覚は、修験道が全国的に体系化される以前の山伏の姿でもある。 実は、この山地の全体を「丹沢」という地名で表現するようになったのは、明治以降の地形図が普及してからのことである。その時、すでに丹沢の山伏集団はその歴史を終えていた。明治政府が国家神道を宗教政策の基本に据え新しい国づくりを目指し始めた時、神仏習合の祈祷を行い、村の鎮守の祭祀をつかさどっていた山伏たちの存在は否定されてしまった。それが明治五年(一八七二)の修験道廃止令である。 現在、紀伊半島大峰・葛城や出羽三山では、復活した修験教団を中心に、全国から集まった山伏たちによる伝統的な峰入り修行が行われている。その中には、毎年、多くの新客(新米の修行者)の姿もある。それと同時に、地方の山地においても昔の行者道を再興したり、新しい行場を開いたり、地元の山開きや祭礼で中心的な役割を果たしている現代の山伏さんたちも沢山いる。山岳宗教は今も生きているのである。 そして、我々も丹沢山地を歩いている。この尾根筋は修行者たちが、何百年もの間、踏み分けてきた行者道なのである。 鐘ヶ岳 発見者の一人、神奈川県埋蔵文化財センターの富永樹之氏によれば、瓦はすべて南多摩古窯群(八王子市)で作られたもので、軒丸瓦は千代廃寺(小田原市)の八世紀末の修復時のものと同笵(同じ型から作ったもの)の六葉単弁蓮華文。平瓦のうち「下」の文字が押されているものは国分寺(海老名市)及び南多摩古窯群のものと同笵の可能性が高い。また、現場の平場の広さから、複数の堂社を構えていたと考えられるそうだ。 平安時代前期、屋根を瓦で葺いていた建築物は政治権力と結びつきのある寺院以外にはまず考えられない。つまり、鐘ヶ岳十七丁目付近は謎の古代山岳寺院「鐘ヶ岳廃寺」跡なのである。 鐘ヶ岳には登山道脇に幕末から明治の頃の丁石(丁目石)が二十八丁まで立っていて登山者を楽しませてくれる。江戸時代、この道は山頂近くの浅間社と禅法寺への参道であった。鐘ヶ岳は江戸時代に流行した富士山信仰の中で、手軽に登拝できる「浅間(仙元)大菩薩」として近隣庶民の信仰を集めていた。 では、古代の「鐘ヶ岳廃寺」のような山岳寺院はなぜ建立されたのだろうか。その謎は当時の僧たちにとって山がどういう場所だったのかを考えれば理解できる。 歴史に名を残す古代の僧の多くは山林修行者であった。たとえば、行基は生駒山(大阪府・奈良県)で、良弁は春日奥山(奈良県)で、道鏡は[城山系(和歌山県・大阪府・奈良県)で、空海は四国の山々と岬や吉野(奈良県)で修行を積んだ。 また、国家の統制や保護を受けていた官寺と呼ばれる寺々も山の修行拠点を持っていたのである。比良山(滋賀県)、吉野、春日奥山、笠置山(京都府)などはそのような官寺の僧たちが山林修行に励むエリアであった。 山林修行では、禅定(瞑想)や読経のほか、仏に懺悔することで五穀豊穣などのご利益を願う「悔過法」、薬草や仏に供える花を摘みながら一定のコースを歩く「行道」などが行われていたと考えられている。また、山林修行者たちは特に神の鎮まる山を遥拝し、神々のご加護を祈った。 官寺である相模国分寺は八世紀後半に建立されたことがわかっている。国分寺の僧たちが、修行エリアとして選択した山林はどこか。古代国府があったとされる平塚市北部から見ても、国分寺跡がある海老名市から見ても、最も美しくそびえているのは大山である。標高の高い丹沢の主脈や表尾根は、相模川沿いの平野部からはその高さを実感することができない。古来、相模平野では大山が神の鎮まる山であった。(以下略)
あとがき 私が丹沢の行者道を調べ始めたのは、一九九七年(平成九年)、県立相模台工業高校(現神奈川総合産業高校)在勤中に、職場の先輩だった故広島三朗氏(神奈川ヒマラヤ登山隊長、一九九七年スキルブルム峰で遭難)から言われたこの言葉がきっかけである。 「学生時代に日本の宗教思想なんて勉強していたんだったら、丹沢の山伏のことを調べてみない?」 当時、広島氏は『神奈川県の山』(山と溪谷社)という登山ガイドブックを執筆中で、山にまつわるちょっとした歴史話もちょこちょこと書き入れるのが広島氏のスタイルだった。ところが、丹沢の山伏については八菅修験のことを除けば不正確な情報しかなかったのが現状で、面倒だからあんた調べなさい、という気持ちもあってそんなことを言ったんじゃないかと思う。 何しろ広島氏はK2(8611m)に初めて登った日本人の一人だけあって、チマチマした日本社会の標準を外れた言動が多く、喧嘩早いし、遠慮せずに思ったことを言ったりやったりする人だったので、「また勝手なことを言ってる」と思いながら「そんな暇ないですよ」と即座に断ったのだった。 だからといって、私は広島氏をけっして避けていたわけではなく、実は、広島氏からは多くのことを教えてもらった。フィールドワークの重要性や人にモノを伝えるプレゼンテーション力、それにパキスタン研究の第一人者でもあった広島氏ならではの国際的な視点など、目からウロコを落としてくれた先輩として忘れられない存在なのである。ほんの十年程前の学校には、広島氏に限らず規格外のユニークな先生が存在していた。 勝手なことを私に言ったあと、広島氏はカラコルム山脈で帰らぬ人となり、そうすると妙なもので、なぜだか調べてみようという気にじわじわとなって来るのが不思議だった。結局、その後の数年間の行者道調べで、少しずつやってもなかなか埒が明かないことに気づき、集中的に研究・調査・山伏修行をすることにして、さっそく退職した翌日には京都聖護院(本山修験宗)の[城入峰で「新客」としてお世話になっていた。 本書でも紹介したように、丹沢の山伏と聖護院の間には中世期から明治の初めまで深いつながりがあった。その歴史を考えた時に、修行するのなら聖護院でという気持ちが生まれたのは確かである。[城や大峰の修行では中井教善氏(吉野喜蔵院・本山修験宗)、中村覚祐氏(聖護院門跡・本山修験宗)、宮城泰岳氏(聖護院門跡・本山修験宗)をはじめたくさんの山伏の皆様にお世話になり、修験の教えと心をご教示頂いた。修行中は中世の時代にタイムスリップしたかのような感動を何度も味わうこともあった。それに、もちろん、[城や大峰の峰入り儀礼がどれだけ丹沢の山伏にも影響を与えていたかということは修行しなければ体感できなかったことである。 また、フィールドワークの時間確保を考えて入学した放送大学大学院では日本山岳修験学会理事の山本義孝氏(袋井市教育委員会)から山岳宗教研究に取り組む上での適切なアドバイスを継続的に頂くことができたのは幸運だった。山本氏はすでに考古学研究の立場から山岳宗教についての多くの論考を世に出されていたのだが、当時は考古学的なアプローチを離れて遠江の地域社会と民間宗教者のかかわりをテーマにした修士論文を執筆中だった。山本氏には本書についても原稿段階から色々なアドバイスを頂くことができた。 今回の私の調査研究で決定的な瞬間と自分が思っているのは『大山縁起』の中に峰入りルートが書かれていることに気付いた時とその記述通りの複数の滝を塩川の谷で発見した時である。そもそも『大山縁起』の全文そのものが普段あまり目にすることがない代物で、これを真正面から取り上げた唯一の書である小島瓔禮氏の『神奈川県語り物資料―相模大山縁起―』(神奈川県教育委員会)もすでに入手不可能となり、この小島氏の書の存在さえも一部の研究者が知るのみとなっていた。 ある日、神奈川県立金沢文庫の図書室でこの書を拝見し、原典の読下し及び校注と論考のレベルの高さに驚嘆しながら、すぐに『大山縁起』の原典の中に丹沢山地の広域にわたる峰入りルートの記述があることに気が付いた。それと同時に、なぜこの書が大山研究や山岳宗教研究の中で忘れ去られていたのか不思議に思い、「昔」はすごい研究者がいたのだなあなどと大変失礼な感想を持ってしまったことを正直に告白する。小島瓔禮氏は柳田国男賞を受賞された伊勢神宮の稲作儀礼についての論考『太陽と稲の神殿』(白水社)や『猫の王―猫はなぜ突然姿を消すのか』(小学館)をはじめ『校注風土記』(角川書店)等々、多くの書を発表されている著名な民俗学者・古典文学者なのだが、お恥ずかしいことにそのことや高校の先輩でもあったことなどを知ったのはそれからだいぶ月日が経ってからであった。 二〇〇四年(平成十六年)秋に、偶然立ち寄った厚木市郷土資料館で正体不明の石造碑伝があることを聞き調査をしたのがきっかけで、その年十二月はじめの資料館主催の講演会に小島氏のお話を聞きに伺った。小島氏は「昔」の人どころか元気いっぱいの現役の大先生であった。その際、小島氏は私の拙論に目を通して下さり、大山と塩川の谷のつながりに驚かれるとともに、「五十年来の夢が実現した」というコメントまで頂けたことは身に余る光栄であった。そして自分が調べてきたことが決して間違いではなかったと確信を持つことができた。 二〇〇三年以降、葛城・大峰、そしてもちろん丹沢を中心に多くの霊山を歩き回った。その中でも、奥駈修行のあと熊野那智で山伏の皆様と別れ一人歩いた熊野古道中辺路や京都周辺・琵琶湖周辺の山々、そして関西から鈍行で向かった東北の出羽三山などは忘れられない旅となった。青春18切符とユースホステル利用の貧乏旅行である。熊野古道では珠の大きな最多角の数珠と行者笠を持った私を呼び止め「お接待」してくれたおばあちゃんもいた。また、月山に登る前に参加した出羽三山ツアーではガイドが出羽三山研究で著名な岩鼻通明氏(山形大学助教授)だったという幸運もあった。 丹沢周辺のことでは、神奈川県立埋蔵文化財センターの富永樹之氏、厚木市郷土資料館の大野一郎氏、愛川町八菅の矢後忠良氏、丹沢山みやま山荘の宮崎直樹氏、神奈川キノコの会会長の城川四郎(父)をはじめ多くの方々から伺ったお話が修験霊山だった頃の丹沢の姿を想起する役に立ったことは言うまでもない。 その他にも、鳥瞰図のチェックについては、河中豪紀氏(ハーモニカ奏者)、校正については、スキルブルム登山隊のメンバーで、その後二度にわたって遭難した隊員6名の遺体回収のためにバルトロ氷河へ赴いた両角繁氏・尾上弘司氏(神奈川ヒマラヤンクラブ)が忙しい中を協力して下さった。 以上、この「あとがき」の中でお名前をあげた皆様には深く御礼を申し上げる次第である。 私が丹沢山地を初めて縦走したのは小学生の時であった。自宅のある秦野市渋沢からやはり以前住んでいた津久井の青根まで。父に連れられての山行であったが、まさかそのルートのほとんどが数百年以上の歴史を持つ行者道であったことなど知る由もなかった。あれからずいぶんの月日が経ったが、今は丹沢の主脈を歩きながら、遠くから聞こえてきそうな法螺貝の響きや大きな岩の前で勤行に励んだり大山を遥拝している「往にし方」の修験者たちの姿をイメージすることができる。 丹沢山地は、近代・現代を通じて自然環境の破壊が進み、修験者たちが峰入り修行をしていた往時のおもかげは年々失われていく現状にある。私には、丹沢山地がかつては聖域であったことをぜひ多くの皆様に知って頂きたいという想いがある。未来への展望は正しい歴史認識の中からこそ開けてくる。現代人が「山」の持つ文化遺産・歴史遺産としての価値に気付いた時に、自然環境の問題やこの社会のあり方そのものについても新たな展望が見えてくるのではないだろうか。吉野・大峰・熊野・高野山を含む世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」しかり、「富士山」しかりである。そして「丹沢山地」も文化遺産・歴史遺産として見直してみようではないか。 | |