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Ken Brownの動機、リリース1.2


Original comment Follow up Code comparison Rebuttal

背景

2004年5月20日、私はAlexis de Tocqueville Institutionの代表であ るKen Brownの、Linus TorvaldsはLinuxを書かなかったとする主張を論破する論説記事を投稿した。私の論説はSlashdot, Groklaw, その他多くのインターネットニュースサイトで取り上げられた。その結果、私たちのサーバに1 日以内に15 万リクエストがなだれ込んだ。昨日は国民の休日だったので、誰もそばについていて「頑張れ、お前ならできる」と はげましてやらなかったにもかかわらず、サーバは持ちこたえている。Sun Microsystemsと、Apacheを作った人たちに感謝した い。私の論説はインターネット中でミラーされ、そのため本当のヒット数はおそらくこれに相当な数字をかけたものになるだろ う。またSlashdotやGroklawその他のサイトには、かなりの数のコメントがついている。その多くが私についてのものだ。私は今 まで一度も、複数の精神分析医による遠隔精神分析セッションをこの規模で受けたことはなかったので、面白い経験だった。

Brownの本


私はKen Brownの本の見本を前もって入手していた。まだ報道禁止の期間にあたると思うので、コメントは控えよう。私は調 査報道官ではないが、まだ報道禁止期間中の出版物について議論するのが倫理的にまずいことくらい私でも分かる。一部の人々 は、ほかの人々よりも倫理を真剣にとらえる。であるから私は題名さえ明らかにはしない。代わりにThe Brown Book(Brownの本、 茶色の本)と呼ぼう。色によってニックネームを付けるということには前例がある:"The International Standard for the audio CD" (IS 10149)は普通The Red Bookと呼ばれる。CD-ROMの規格はYellow Bookに記述されている。

この本の内容には、批判すべきことが大いにある、と言えば十分だろう。出版されたときにはそうなることだろう。私がそれ を手伝うことさえあるかもしれない。

Brownの動機

今日私がこのメモを書こうと思ったのは、昨日受け取った1通の電子メールがきっかけだ。実際のところ、たくさんのメール を受け取るのだが :-) 、ほとんどは歴史的な資料について私に礼を言うものだ。昨日とどいたメールのうち1通はLinusからだっ た。私は彼に、事前に私の記事を見せなかったことについて詫びる旨のメールを送っていたのだが、それに対する返信だった。 礼儀として、私は事前に見せようとしたのだが、私は彼の古いtransmeta.comのアドレスを使っていて、フィンランドのジャーナ リストであるLinusの親切な父親がメールをくれるまで、新しいアドレスを知らなかった。

メールの中で、Brownは一度も連絡してこなかったとLinusは言った。電子メールでの連絡なし、電話もなし、個人的なインタ ビューなし。全く何もない。Brownが、Linuxの作者ではないというかどでLinusを告発するという、議論を呼びそうな本を書いて いるということを考えれば、真面目な著者ならば少なくとも相手に告発の内容を明らかにして対決し、彼に反論の機会を与える べきだと思うだろう。ある人物に関して人々に話をしようというのに、肝心の本人に話をしないとは、いったいどういうリポー ターなんだろうか?

私と、(彼と飛行機で隣り合わせた人から私が受け取ったメールによれば)スカンジナビアにいるもう1人の人にインタビュー するために、相当のお金を使ってヨーロッパまで飛んできたというのに、BrownがLinusに電話をかけることさえしなかったのは なぜだろう? もし彼が電話会社の選択で大失敗していたとしても、いったいいくらかかっただろうか? 多分1ドル? 私は しょっちゅうアムステルダムからU.S.に電話をかけるが、1分5セント以下だ。D.C.からカリフォルニアまで電話をかけるのに、 いったいいくらかかるだろうか?

昨日投稿されたコメント全部を読んで、私はこれから全体の状況をまとめようとしている。多くの人が、私の栄光をLinusが すべて盗んだために私がLinusを「嫌って」いると(いまだもって)思っていることは明らかだ(私の「栄光」については後述)。 この見方がそれほどまでに広がっているとは私は思っていなかった。今では、Brownもこの見方を信じていて、私が「復讐」のた めに喜んでLinusのことを悪く言うと思ったのではないかと疑っている。アムステルダムへ飛べば、Linusの顔に泥をひっかけ、 私にLinusの悪口を言わせることができるとBrownは思った。彼は、LinusがLinuxを私から盗んだという彼の気違いじみた主張を 私が支持してくれると思った。Brownは2つの点で間違っていた。まず1番目に、私はLinusに対して何の「うらみ」も持っていな い。彼は自身でLinuxを書いたのだから、クレジットを受けるのは当然だ。2番目に、私は断じて意地悪な人間ではない。もし仮 に、これだけの年月がたってもなお私が彼に腹を立てていたとしても、私は秘密の計画を持ったけちな筆者を使って目的を達成 しようなどとは思わない。私のホームページは週に2500のヒットがある。もし私が何か言いたければ、そこで公開すればよい。

Brownの本が出版されたら、主流派のメディアで大きく取り上げられることは間違いない。もしメディアに連絡できる立場に あるなら、バランスを取るために、記者にこのページと私の元々の論説記事のことを教えることを強く勧める。私はBrownの動機 について徹底的に調べるべきだと強く信じている。Brownが、IPやオープンソースやその他似たようなものについて正しい研究を 行おうとしていたとは、1ナノ秒たりとも私は信じない。私が思うに、Brownは彼に出資していた者たち(彼は私の率直な問いに もかかわらずそれを明かすことを拒否したが)が欲しがっていた論拠を作ろうとしていたのだ。著名そうに聞こえる名前の機関 が証拠を提出するほうが、実際に利害関係のある一派が証拠を提出するよりも見栄えが良かろう。

いくつかの誤解を解く

最後に、いくつかの誤解を解き、また2、3の間違いを正したい。まず最初に、私はLinusに対して「全く」怒ってなどいない。 「本当だ」。彼もまた私に対して怒っていない。私はいわゆるLinusに栄光を奪われたと感じている「痛い負け犬」などではない。 MINIXは私にとって単にある種の楽しい趣味だった。私は教授である。私は教え、研究し、書籍を執筆し、カンファレンスに出席 し、教授がやる仕事をする。私は自分の仕事が、自分の生徒たちが、自分の大学が好きだ。もしこの大学で修士を得たいなら、 私のホームページを見れば情報が載っているので見るといい。私が MINIXを書いたのは、私の生徒たちにOSをいじる実地体験をしてほしかったからだ。John Lionsの本で教えるのをAT&Tが禁じ た後、私は私の生徒たちがいじれるようなUnixライクなシステムを書くことを決めた。その時点で私は既に、コンピュータアーキテクチャについての本 を1冊、コンピュータネット ワークについての本を1冊と、2冊の書籍を執筆済みだったので、3冊目としてOSに関する本を執筆するのは妥当に思 えた。そこでそれを実行に移した。私はGNU/HURDやバークレイUNIXを置き換えるつもりはなかった。誓って言うが、このことは もう十分言った。私は、私の生徒とほかの学生たちに、現在の技術を使えばどのようにUNIXライクなOSを書くことができるかを 示そうとしただけなのだ。多くの他の人々が、無用のお飾りがいっぱい付いた無料の本格的なUNIXを欲しがって、MINIXがそうな るよう欲した。私はしばらくの間議論の渦の中心へと引きずり込まれたが、Linuxが現れて、解放されて教授の仕事に戻ることが できたというのが本当のところだ。私はハッカーの王の立場など志願はしなかったし、その役が提供されたときにも欲しがらな かった。Linusは素晴らしい仕事をしているように見えるし、私は彼がこれからも大いに成功することを祈っている。

確かにMINIXを書くのは楽しかったが、それが私のこれまでの業績のなかで最も重要なものだとは思っていない。それは何よ りもまず気晴らしの余技だった。私がこれまでにしたなかで最も重要なことは、驚くほど優秀な生徒、特にPh.D.を大量に送り出 したということだ。私のホームページのリストを見てほしい。彼らは偉大なことをやってのけている。私は母鶏のように誇らし い気持ちでいっぱいだ。Linusもある意味で私の生徒といってよいとすれば、その範囲において私は彼のことも誇りに思う。教授 というものは、生徒が自分を超える栄誉を手にするとうれしいものだ。私はまた100以上の出版済み研究論文を書き、14冊の書籍 を書き、それらの書籍はおよそ20種類の言語に翻訳された。結果として私はIEEEのフェローとなり、ACMのフェローとなり、その 他数々の賞を受賞した。私にとって本当に意味があるのは、こういったことだ。もしMINIXが「商売上の」大きな成功を収めてい たとしたら、こういった学術的な物事を実現するための時間がなかっただろう。しかし私が実際のところより強い興味を持って いるのはこういったことなのだ。

マイクロカーネル再訪

マイクロカーネルについては、一言、二言、言わずにはいられない。マイクロカーネルはとても小さなカーネルだ。もしファ イルシステムがカーネル内で動作するなら、それはマイクロカーネル「ではない」。マイクロカーネルは、低レベルのプロセス 管理、スケジューリング、プロセス間通信、割り込みハンドリング、およびメモリ管理の基礎を扱うべきで、その他扱うべきこ とはほとんどない。MINIX 1.0のコアマイクロカーネルは1400行以下のCとアセンブラのコードだった。それにヘッダとデバイス ドライバも加える必要があるが、カーネルモードで動作するものは全部合わせても5000行以下だった。MicrosoftはWindows NT 3.51がマイクロカーネルだと主張していた。それは違う。似たようなものでさえなかった。彼ら自身、NT 4.0ではその主張を取 り下げた。マイクロカーネルには大きな成功を収めているものもある。QNXやL4がその例だ。私は、一体全体どうしてマイクロカー ネルによる20%の速度低下の可能性を人々が嫌がるのか理解できない。彼ら自身、20倍も遅くなることがよくあるJavaやPerlのよ うな言語でプログラムを書くというのにだ。マイクロカーネルのせいで3.0 GHz PCが2.4 GHz PCになったからって、何が問題だ というのだ? 以前は2.4 GHzよりも目に見えて遅いマシンを購入して、満足して使っていたではないか。私にとっては、堅牢で、 信頼性が高く、今日の重量級のOSに見られる数多くの欠点を克服できるシステムのためならば、20%のパフォーマンスくらいあき らめるのは何でもないことだ。

訂正

ここで私の元々の論説記事についての誤りを訂正したい。昨日受け取ったメールの1つが、Coherentの起源を明らかにしてく れた。メールを書いたのはBob Scwarzではなかった。メールを書いたのは、Mark Williams CompanyのCEOだった。3人のウォーター ルー大学の元学生、Dave Conroy, Randall Howard, and Johann Georgeが仕事のほとんどをやった。ウォータールーはカナダに あり、メールによればそこではみな野球をするという。といっても、氷が溶けてホッケーができない時期に限られるが。ウォー タールーの学生にとってCoherentを作り上げるには6人年かそこらかかったが、それにはカーネル、Cコンパイラ、シェル、およ び「すべての」ユーティリティが含まれていた。カーネルはコード全体のうちほんの一部分でしかなかったから、カーネル自体 はおそらく1人年程度しかかからなかっただろう。私がMINIXを書くのには3年間かかったが、私がそれを書くのに使ったのは夜の 時間だけだったし、コードを解説する400ページ分のテキストも同時に(夜の時間を使って)書いた。優れたプログラマは12000 行からなるカーネルを1年で書けると私は思う。

ここまで読んだ人には、時間を割いてくれたことに感謝したい。オリジナルの変更されていないバージョンを使うことを条件 に、このウェブページをミラーすることを許可する。

Andy Tanenbaum, 21 May 2004

Comparison of the MINIX and Linux code

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This article was translated by Hisashi MORITA with permission from the author. Feedback on the translation are welcome.

    Changelog
  • 2004-08-05: Permission obtained, put onto the web.
  • 2004-07-16: Draft.


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