雪の日の土屋さん事件 その2

 忘れもしません。その日は1月15日の祝日の深夜でした。朝から降り続いた雪がまだ止まずにいました。この分では明日の出勤は苦労しそうだなと思いつつ、私は本を読んでいました。たぶん11時ごろだったと思います。コンコンと玄関をノックする人がいました。そんな時間に訪ねてくるような友人はいなかったので、いきなり私は警戒モードに入りました。ドア越しにおそるおそる尋ねました。
「どなたですか」
「土屋です」
「何でしょう」
「ちょっとここを開けてくれないかなあ」
 “そんなことできるか”と思って、台所の窓を少しだけ開けました。そこには、中年の割には黒々とした頭に雪をかなり降りつもらせていた土屋さんが立っていました。
「休日出勤したんだけど、部屋の鍵を会社に忘れてきちゃったんですよ。ここに泊めてくれないかなあ」
 私はついにキレました。
「何いってるんですか。そんなことできるわけないでしょう? なんで私にそんなこと頼むんですか。ここにはほかにもいっぱい人がいるんだから、そこへ行けばいいじゃないですか。隣は男の人の一人暮らしですよ。そこへ行ってください」
思わずたたみかけると、土屋さんはいいました。
「僕、このアパートではキミしか知らないんだよね」
火に油を注ぐ発言。
「そんなこと私に関係ないでしょう」
「土間でいいからさ。頼むよ」
1Kの文化住宅に土間なんてないことは自分が一番よく知っているくせに、土屋さんはあくまでも厚顔無恥でした。
「じゃあ、ホテルに泊まればいいじゃないですか。少し行ったところにラブホテルがいくつかあるから、そこへ泊まってください」
「お金、ないんだよね」
そういって土屋さんは寒そうに身を震わせました。

 このままだとずっとそこに居座りそうだったので、私は決心しました。
「じゃあ、お金を貸してあげます。私もこの週末はお金がないので、6,000円ぐらいしか出せませんが」
そういってサイフから千円札の束を抜き取り、窓越しに差し出しました。土屋さんはうらめしそうに私を見上げましたが、それを受け取ると、ようやく私の部屋の前から立ち去ってくれました。

 一連のやりとりで変に神経が高ぶってしまった私は、もう読書には戻れず、かといって眠りにつくこともできませんでした。しかたないので14インチテレビをつけ、“なんという人だろう。人をなんだと思っているんだろう”と怒りに心をたぎらせつつ、目はブラウン管の中で動く人間たちをぼんやり追いかけていました。

 すると!またコンコンとノックする音が聞こえるのです。時計を見ると1時でした。
「土屋です。やっぱり泊めてくれないかなあ。ラブホテルは一人じゃ泊められないっていうんだよ」
 私はサイフに2枚だけ残っていた千円札を抜き取り、窓を少しだけ開けてそれを投げるように渡していいました。
「私の持っているお金はこれですべてです。貸してあげますから、これで泊まれるホテルに泊まってください。これ以上グダグダいうなら警察を呼びます」
そして、すぐさま窓をしめて台所の電気を消しました。 

 翌日、会社にいってこの話をすると、同僚はいいました。
「そいつ、寸借詐欺かなんかじゃないの?」
 それはありえる、と思いました。もしかしたらあの着任状もにせものかも、と、机の引き出しをさらって青いはがきを探し出し、そこに書かれていた電話番号をまわしてみました。
「国際なんとか部の土屋さんをお願いします」
「少々お待ちくださいませ」 
「土屋です」
 …あの声でした。何もいわずに電話を切りました。

 その日の帰りに隣に住む大家さんのところへ行って事の顛末を話し、土屋という人がこれまで他の住人とトラブルを起こしたことはないかと聞いてみました。30代主婦といった感じの大家さんは私の話を聞いて明らかに動揺していました。
「今までそんなことはなかったけれど…。会社も会社だし…」
このまま話していても打開策を提示してくれそうにないので、私は
「とにかくそういうことがあったんです。次に何かあったらよろしくお願いします」
 といって、自分の部屋に帰ってきました。

 これが事件のすべてです。土屋さんはその後まもなく、お金を返してくれました。顔をこわばらせる私に、バツの悪そうな顔をして。私は口も聞きませんでした。そして土屋さんはまもなく引っ越していきました。大家さんが何かいったのかもしれません。その雪の日以降は、私にからむこともまったくなくなりましたから。

 あの頃にストーカーという言葉があったなら、立件できた事件だったかもしれません。しかし、若かった私にはただ恐いだけで、どうしていいかわかりませんでした。そういう“やたらからんでくる変なおじさん”の話を、警察に持っていくことなんて考えませんでした。具体的な事件ではなかったですからね。

 今から考えれば、あのおじさんは単身赴任で心底寂しかったのでしょう。それで何とか現地妻でも作って、心のよりどころを確保したいとあがいていたのだと思います。かわいそうな土屋さん。でも、そこには“できれば若い女で”“掃除、洗濯をやってくれる女で”といった中年男の女に対する願望や差別意識もほの見えて、思い出すたびにやっぱり腹が立ってくるのです。今では山一証券もなくなってしまいました。どんな暮らしをしているのか知らないけれど、きっと幸せじゃないような気がするな。

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