原風景

 モノがいっぱい並んでいる場所が好きです。大型書店。レンタルビデオショップ。CDストア。手芸店。スーパーマーケット。DIYショップ。大きな薬局。秋葉原。そういうところへ行けないときはコンビニでも構いません。比較的小さなものがずらーっと並んでいるのを見ると、すごくワクワクして、すごく安心するのです。米国の郊外型スーパーマーケットなんて私にはパラダイス。別に買いたいものがなくても、野菜コーナーに始まって、惣菜コーナー、グローサリー、ビタミン剤コーナーに至るまで、棚をひとつずつ、上から下まで、くまなくチェックするのは至福の時です。

 おかしいですよね(笑)。自分でも何でだろう?って思っていました。なぜ私はモノがたくさんあると安心するのか。ずっとわからなかったのですが、あるときハッと気がついたのです。そう、これは私の原風景なんだ、と。

 私の実家は大阪でコンビニエンスストアのようなものを経営していました。たばこと菓子パンと袋菓子と、洗剤やトイレットペーパーなどちょっとした日用品の販売。経営者は祖母でしたが、実際に切り回していたのは母でした。今はもう祖母が引退し、両親も年金生活に入ってしまって、たばこの販売だけを半分閉めたような店で続けているのですが、私の子供時代、そこから上がる収入は、生活の糧の半分でした。もう半分は会社員をしていた父の給与です。

 営業時間は朝7時から夜10時まで。手伝わされるのがいやでした。友だちからは「お菓子が好きなだけ食べられてええなあ」とよくうらやましがられたのですが、私はいつも「ほんなら家を換わったげるわ」と答えていました。結構本気でした。そんなに繁盛している店ではなかったのですが、四六時中なんのかんのと店の仕事にわずらわされてしまいます。特にいやだったのは食事中にお客さんが来ることでした。いつもなぜか私と妹のどちらかが出ていくことになっていて、母の「店!」の一言で飛んでいかなければなりません。お客さんに邪魔されずにゆっくりごはんを食べられる生活をしたい、と小学生の私は願ったものです。だから“大人になっても絶対商売している家に嫁に行くのはいやや”と思っていました。あまり強く念じたためか、お嫁に行くこと自体が保留になってしまいました(笑)。

 仕入れも母が一人で行っていたので、家事が忙しくなってくると商品を補充できずに店の棚が歯抜けになってきます。商売は嫌いだったくせに、すき間のあいた店の風景を見るのは悲しいことでした。売るものがないということはお金が入ってこないということで、お金が入ってこないということはわが家の生活が苦しくなるということです。子供心に焦燥感がありました。逆に無事に仕入れができて、店が商品であふれていると、“売るものがあるからわが家は大丈夫”とうなづけるのです。いやよいやよも好きのうち? やっぱり商売人の血をひいているのでしょうね。今でもモノのある風景に魅かれるのは、こうした子どものときの体験によるところが大きいと思われます。でも、もしほんとうに店を経営していたら、私は失敗していたでしょうね。在庫を積んどかないと不安だから(笑)。かんばん方式なんて、とてもじゃないけどできそうにありません。

 いろんなモノが豊富にあって、すぐ手に入る環境でしか暮らしたことがないので、私は山や海のそばでは住めないでしょう。そういう意味では根っからの街っ子です。へんに自然の豊かなところにいったりすると、所在がなくなってしまいます。そこでどう過ごしたいいかわからない。都会を離れると、自分は無力であるという思いが増幅されてしまうのです。

 私にとって、自然は愛するものというよりは恐れるものです。映画「Perfect storm」のキャッチフレーズに“自然は人間のことなど愛しちゃいない”というのがありましたが、“自然は人間のことなど眼中にない”というのが私の実感です。昔、ぴあのムック誌の取材で首都圏の植物園を集中的に訪ねたことがあります。そのひとつにアリタキ・アーボレイタムという私設の植物園がありました。取材をした7月というのは植物園にとってオフシーズンなのですが、そんなことはいっていられません。電話でアポイントをとったとき、そこは休園していました。秋のシーズンに備えてぜひ取材させてください、とがんばると、園長のアリタキさんは「そんなにいうなら来てもいいけど、長袖と長いパンツを身につけて、手袋を忘れないように」といいました。東京から電車で30分ほどのところにある植物園でそんな重装備がいるのだろうかと私は半ば不思議に思いました。

 いってみると、そこはジャングルでした。というと熱帯雨林を想像されると思いますが、あくまで日本の植生で形成されたジャングルです。樹木は立錐の余地もないほど生い茂り、枝葉という枝葉にクモの巣のベールがかかり、養蜂園ならぬ養蚊園に来てしまったかと思うぐらいの数のヤブ蚊がわがもの顔で飛びまわっています。長袖を着ていなければ、5分だっていられなかったでしょう。また地面には、インドかネパールあたりの仏頭があちこちにゴロンところがっていたりして、かなり異色の植物園でした。正直、恐かったです。これが自然のほんとうの姿だと思いました。私がふだん公園や公共施設で目にする自然は、人間の手によって管理された人工の造形物だったのです。それで十分でした。ほんとうの自然の中でなんて、とても生きていけないと思いました。

 だから私は私の原風景に忠実に、下手に自然に憧れを抱かないまま暮らしています。郊外で、広いけれども静かすぎる家に住むよりは、うさぎ小屋でいいから都会にいたいし、キャンプに行くよりは買い物をしたい。旅行だって、チベットよりはシンガポール、グランドキャニオンよりはラスベガス。なんて貧しい世界観なんでしょう、と哀れまれるかもしれません。しかし、人間一度獲得してしまった性癖は、なかなか変えることができないようです。

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