物語の力

 「Crouching Tiger,Hidden Dragon」(うずくまる虎、隠れる龍)(邦題:グリーンデスティニー」)という映画に、魂を奪われてしまいました。本編が終わって、“立ち上がれない”と思った作品は久しぶりです。あらためて、映画が目を開けて見られる夢であったことを思い出させてくれました。そして、この夢こそが生きる糧だと。創造力と想像力は人の持っている力の中で最も尊い財産です。

 あまりに感動したので、ふだんは買わないパンフレットを買い、サウンドトラックCDを買い、この映画に関する書籍がないかと大きな書店やインターネットを渉猟する始末(笑)。今からはやDVDの発売を心待ちにしています。

 物語の舞台は中世の中国です。この時代には、一生を武道の修業に捧げる武侠という人々がいました。日本でいえば宮本武蔵かな。しかし、日本と違うのは、武侠の世界には男も女もないことです。武芸に励む女性は男性と同じぐらいいて、扱いはまったく同等でした。ただ、いったん武道の道を選んでしまうと、自由に生きられるものの結婚が遠のいてしまうといった事情はあったようですね。

 で、まず非常に腕のたつベテラン武侠リー・ムーバイがいました。しかし、戦いに明け暮れて過ぎた年月をふりかえり、引退を決意します。それにあたって所有する天下の名剣 碧名剣(グリーン・デスティニー)を人に献上することにしました。そして、同じ武侠仲間である女性ユー・シューリンと結婚しようと考えていたのですが、これはまだ彼の胸の内に秘められています。

 ところが、このグリーン・デスティニーが何者かによって盗まれてしまいます。賊を追いかけたシューリンがたどりついたのは、今まで中国の西域を治め、近頃北京に栄転してきた政府高官の家。そこには、親のいいつけにしたがって嫁に行くことが決まっている一人娘イェンがいました。彼女は見かけはしとやかなお嬢さまなのですが、西域在住時代に武芸にいそしみ、相当な腕前に達していました。実は、剣を奪ったのは結婚するよりも女性武侠の道を行きたい彼女の仕業で、剣の実力のほどを試したい遊び心でした。

 ムーバイは剣を奪ったのがイェンと知り、その武術の才能を正しい方向に伸ばしてやりたいと師匠になることを申し出るのですが、彼女が求めているのはただムーバイと戦うことだけ。しかし、形勢不利とみると彼女は剣を置いて逃げてしまいました。

 イェンの元に、一人の青年がしのんできました。西域在住時代に出会った盗賊の頭ローで、二人だけしか知らないことながら、イェンとは恋人どうしです。イェンとローは西域の奥地で一時夫婦同然の暮らしをしていたのですが、立派な人間になってイェンをきちんと妻に迎えたいとローがイェンを親元に帰します。しかし、イェンの結婚はすでに決まっていたことで、盗賊の過去がじゃまをしてローもちゃんとした職業に就くことができません。そして、ついに結婚式の日はやってきてしまうのです……。

 何がすごいって、ワイヤーアクションシーンがすごいんですよね。もう重力なんか完全に無視して、人が壁を走り、屋根を飛び、木々の間を飛び回るんですよ。まるで妖精みたい。ワイヤーアクションは香港映画の十八番で、すでにツイ・ハーク監督などが「Chinese Ghost Story」シリーズなどでがんがん披露し、ハリウッド映画でも「Matrix」(邦題:マトリックス)「Romio must die」(邦題:ロミオ・マスト・ダイ)などで採用されています。しかし、この映画のワイヤーアクションはこれらより数倍高度なレベルで実現されていて、しかも洗練されているんです! 竹林でのムーバイとイェンの戦闘シーンなんて、もう幽玄の世界なんですから!

 マーシャル・アーツシーンも半端ではありません。しかも、この映画はヒロインが戦うんですよねー。特にシューリンとイェンの剣や槍を使った戦闘シーンは質・量的にとても見ごたえがあります。

 そして、スケール! 首都北京から水墨画に出てきそうな竹林、砂漠の広がる西域まで、中国の広大な土地をいかんなく利用してロケが行われていて、観ていてカタルシスがあります。こういう風景は中国でないと撮れないよなあ、と思うシーンがいくつもいくつもありました。

 そしてキャスト! アダルトカップル、ヤングカップル、2組の恋人たちが主軸となっているのですが、このメインキャスト4人がぴったりとはまっているんです。思慮深いけれども、奥底に静かな闘志を秘めるムーバイにチョウ・ユンファ。ムーバイを愛し、ひそかに告白を待ちながらも武芸に生きる女性武侠シューリンにミッシェル・ヨー。この人は007シリーズの「Tomorrow never die」でボンドガールを務めた女優です。自由を求めてひたすら戦う清楚なお嬢さまイェンに、チャン・ツィイー。映画出演はこれが2作目の新人ですが、彼女の体を張ったがんばりこそがこの映画の成功を支えているといっても過言ではありません。盗賊の頭ローはチャン・チェン。台湾出身の若手俳優で、14歳のときにエドワード・ヤン監督の「Brighter Summer Day」(邦題:クーリンチェ少年殺人事件)で映画デビュー、香港のウォン・カーウァイ監督の「Happy Together」(邦題:ブエノスアイレス)で印象的な役を務めるなど、着々と王道を歩んでおり、今やアジア映画界の期待の星です。台湾の有名な俳優の息子さんだそうで、日本でいえば、緒方直人くんや松田龍平くんって感じかな。「Brighter…」は私も観ていたのですが、この映画ではすっかり精悍な青年に変貌していたので、全然気がつきませんでした。チャン・チェン、芝居は今いちだけど、かっこいいんですよー。ベニチオの次はチャン・チェンだなー(笑)。

 監督のアン・リーも台湾出身です。しかし、イリノイ州立大学、ニューヨーク大学で映画製作を学んで、そのまま米国で監督活動をスタートさせました。これまでに「Wedding banquet」(邦題:ウェディングバンケット)「Eat Drink Man Woman」(邦題:恋人たちの食卓)「The ice storm」(邦題:アイスストーム)「Sence and sensibility」(邦題:ある晴れた日に)「Ride with the devil」(邦題:楽園をください)などという作品を撮っています。一般に、“文芸映画のアン・リー”という認識をされていて、この映画が単に荒唐無稽なアクション映画に終わらなかったのも、人間をしっかり描くことに長けたアン・リーの手腕があったからだと私は思います。

 「Crouching Tiger…」は、ハリウッドの資本は入っているものの、全編北京語で展開するれっきとした外国語映画です。なのに、今年のアカデミー賞の作品賞にノミネートされてしまいました。これはアジア映画の歴史上、画期的なことです。米国に「The Internet Movie Database」というすぐれもののデータベースサイトがあるのですが、そこのユーザー投票でも堂々9位にランクイン。ここの上位には「The Godfather」(邦題:ゴッドファーザー)や「Citizen kane」(邦題:市民ケーン)などそうそうたる顔ぶれの映画が並んでいるので、これだってとてもすごいことなんです。

 日本で公開された作品賞候補作品(「Erin Brokovich」(邦題:エリン・ブロコビッチ)「Gladiater」(邦題:グラディエーター))の中ではダントツで一等賞。作品賞候補にはベニチオが助演男優賞にノミネートされている「Traffic」が入っていて、私はそちらも応援したいのですが、うーん、心は千々に乱れます(笑)。

 ちょっとくやしいのは、映画文化ということでは日本も負けていないはずなのに中国映画人に先を越されてしまったこと。今回は台湾、香港、中国の映画人が総力を結集して作っていて、彼らの国際的なネットワーク力を痛感しました。日本をもっと世界にアピールするには、日本人監督がハリウッドに進出しないとだめですね。そして日本人俳優を使ってハリウッドの資本で撮る。舞台は日本であってもなくても構わないんですけどね。問題は…英語なんだろうな、やっぱり。

 ともあれ、これこそ映画!と膝を打ちたくなる感動大作。私の頭は当分の間「Crouching Tiger…」に占拠されることになりそうです。

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