戦慄の日

 少し間があいてしまいました。ひどい風邪をひいて、この2週間、咳と頭痛に始まって、あらゆる風邪の症状をひとめぐりしました。ようやく回復の兆しが見えてきて、この風邪の話でホームページ復帰をしようかと思っていたのですが、とんでもないことに遭遇して、風邪のことなんて吹き飛んでしまいました。時間が経っていないので、今もキーボードを打つ手が少し震えています。

 4月16日の午後7時30分ごろ、私は地下鉄日比谷線の人形町の駅を降りて、水天宮前のロイヤルパークホテルに向かおうとしていました。甘酒横丁の信号が青になって横断歩道を渡り始めたとき、右の方で「バーン」とすごい音がしたのです。車の衝突だということはすぐわかりましたが、音のした方に顔を向けた瞬間は、何がどうなったのかは定かではありませんでした。2トントラックがずるずると後退したのか、その向こうの乗用車が前進したのか記憶があいまいなのですが、そこには確かに、右の横腹をえぐれたようにへこませたメタリックグレーの4ドア乗用車が見えました。今からそのときの状況を総合して考えると、その乗用車は左側のレーンから無理やり右折しようとしたのではないかと思います。しかし、その交差点は右折禁止でした。そこへ、そんなところで曲がる車があるとは思っていなかった2トントラックが知らずにつっこんだのではないかと思います。とにかく、乗用車のハンドルは右に切れていました。

「うわー、すごい事故」とそこにいあわせた誰しもが思ったと思います。ただし、そのときは単なる野次馬として。ところが、次の瞬間、他人事ではなくなってしまいました。コントロールを失った乗用車が、右折しようと思った側の横断歩道めがけて突っ込んできたのです。そう、それは私の渡っている横断歩道でした。「あの乗用車がこちらへ暴走してくる」とわかったときの、あの戦慄。頭の中が真っ白になってしまいました。乗用車の暴走する方向は予測不能。どこへどう逃げたら助かるのかわかりません。逃げ惑うというのはこのことでしょう。それでも“横断歩道さえ渡りきってしまえば”、と必死の思いで足を動かし、対岸にたどりつきました。そして、振り向いたところへ、目をおおいたくなるような映像が飛びこんできたのです。

 乗用車がゆるいカーブを描いていったん歩道に乗り上げ、道路標識の鉄柱をなぎ倒し、横断歩道を渡ろうとしていた女性を二人、後ろからすくい上げる格好ではねました。何ということ。車はそこで止まったのですが、エンジンはなおもブーン、ブーンと空まわりして大きな音を立てていました。

 もう、それからの現場は修羅場でした。はねられた女性の一人は若い人で、うめき声をあげながら、それでもなんとか立ち上がりました。けれど、体の動きが通常の人のそれではなくて、またくず折れるように倒れてしまいました。たぶん足か腰を骨折していたのだと思います。顔は苦痛にゆがんでいましたが、驚愕のあまり、泣くことも叫ぶこともできないようでした。もう一人の女性の方はすでにすごい人だかりでよく見えなかったのですが、倒れたあたりにまったく動きがなかったので、もっと重傷だったのではないかと思います。乗用車にはたくさん人が乗っていました。たぶん男性ばかり4人以上いたでしょう。車のまわりに十重二十重に人が取り巻き、何人もの男性が「救急車、呼ばんかい!」「車をバックさせるんだ!」と怒号を浴びせていました。地獄のような光景でした。

 もし、乗用車のハンドルがもっときつく右に振れた状態で暴走していたら、あそこに横たわっていたのは私だったかもしれない。そう思うと背中が震えてきて、とてもそのままそこで様子を見ていられませんでした。私も目撃者の一人ではありましたが、事故を証言する人はたくさんいそうでした。交差点近くの和菓子屋さんの奥さんの「救急車は呼んだから」という声も聞きました。それで、私はいなくても大丈夫だろうと思って、足早にその場を離れたのです。

 ロイヤルパークホテルでのその用事は、別にこの日でなくてもいいものでした。帰る途中の気まぐれで決めたのです。ですから、ふつうに帰っていれば出会うはずのない事故でした。運命なんてあまり正面きって向かい合ったことのない私でも、こうして鼻先を事件がかすめていくと、ちょっといろいろ考えこんでしまいました。

 今こうしていても、乗用車が暴走し始めた瞬間の映像がスローモーションで何度も何度もフラッシュバックします。恐かった。ほんとうに恐かったです。誰かにいえば気が楽になるかもしれないんですが、口にしたらなんかウルウルしてしまいそうで…。Webを見てみたのですが、ニュースは出ていないようです。これもまた、東京の数ある交通事故の一つにすぎないのでしょう。

 ぜんそくに近いような風邪でずっとダークな日々を送っていたのですが、今回ほど、いま命あることに感謝したことはありません。  

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