信じられる一線

 私が恋した映画「Crouching Tiger,Hidden Dragon」を、友人はこう評価しました。「あんな風に人間が飛ぶわけないじゃん」 あれこそイマジネーションの極致だと思っていた私は、そのように感じる人もいるんだと思ってちょっとショックでした。その友人と私は“信じられる一線”が違っていたのです。あの話をおもしろいと思わないなんて、なんて夢のないヤツとシツボウしかけたんですが、よくよく考えてみれば私にも根本的に相容れない映画や小説のジャンルがありました。

 SFがダメなんです。荒唐無稽きわまりないじゃん、と思っちゃって。映画も小説もSFといわれると触手がぜんぜん伸びなくて、名作と評判の高かった「2001A Space Odyssey」(邦題:2001年宇宙の旅)もこの間やっと観ました。大変だったんですよー。観るたびに寝てしまって(笑)、3度目の挑戦でようやく最後まで見通すことができました。でも、“これのどこがおもしろいの?”と思っちゃった。私にはモノリスもHAL9000も全然信じられなかったのです。「吉田さんだって夢がないじゃない」といわれそう。ティム・バートン監督の「Mars Attacks!」(邦題:マーズアタック)はおもしろかったんですけどね。あそこまでぶっ飛んでいるのはいいんだけど、「Mission to Mars」(邦題:ミッション・トゥ・マース)はダメなんです。

 でも、“信じられる一線”が人によって違っているのはいいことです。価値観が絶対化してしまったらかえってその方が恐ろしい。ある小説が国によって評価されたりされなかったり、ある映画が国によってヒットしたりしなかったり。宣伝のよしあしというファクターもあったりしますが、基本的にはそれだけ多様な価値観があるということで、とても健全なことです。だから評価されなかったからといって人生の終わりではないし、評価されたからといって天下を取ったわけではないのです。肝心なのは、この世には違うものの見方があるということを常に認識しておくことだと思います。

 私の“信じられる一線”は、一見非現実的に見えるけれど、もしかしたらほんとうに起こる(起こった)かもしれないじゃない、というお話です。私の好きな作家の一人に吉行淳之介がいるのですが、私が最初に読んだ彼の作品は、中学1年ごろの国語の教科書に載っていた「子供の領分」でした。

 主人公は小学生の男の子。この子は体が弱くて、いつも病気ばかりしています。そして、その病気と薬のせいで短い間に体重が2倍になったり、逆に元の体重の半分になったりします。人の体重がそんなに激しく増減するわけないじゃん、と思う人は思うでしょうが、子どものころ私も病弱で体調が激しく変化していたので、この話にとてもリアリズムを感じました。あり得る、と思ったのです。

 この不思議な味わいを持った短編によって吉行作品に興味を持った私は、次々に読破していくのですが、これがほとんど男と女の肉体関係の機微を描いた風俗小説だったんですねえ(笑)。性的なものに異常に関心があった頃なので、ハマりました。「夕暮れまで」以前の彼の作品は中学時代にすべて読んだと思います。だからもう、そういうことに関しては友達に何を聞かれても答えることができました(笑)。思えば早熟な読者でした。

 この体験がきっかけになって、“一見非現実的だけど、もしかしたら起こるかもしれない話”は、私の人生を通してのマイ・フェイバリットとなりました。アン・タイラーやジョン・アーヴィングが好きなのは、彼らの書くのがそういう小説だからです。ポール・オースターやスティーブ・エリクソンなど現代アメリカ文学の翻訳で知られる柴田元幸氏が、ある本の中で“僕は人生棒ふり話が好き”と語っていました。彼は、そのときはいっしょうけんめいに生きたつもりだったんだけど、後になって“私はいったいこの人生で何をやってきたんだ”と思い、人生を棒にふったと感じたり悩んだりする主人公が出てくる話が好きなのだそうです。ちょっと趣味が特殊なような気がするけれど(笑)、やっぱり本好きな人にはマイ・フェイバリットがあるんだなあと思って親近感を持ちました。

 さて、あなたの“信じられる一線”は、どのあたりにあるでしょう? 今度お目にかかったら、この話を私に振ってみてください。たぶん、どういう話は認めてもいいけど、どういう話は認められないか。たぶん、かなり盛り上がると思います。 

戻る このサブジェクトについてメールを書く