一日の濃度

 とっぷりと暮れた夜、ふと過ごした一日を振り返ります。“今日は充実していたなあ”と思うのは、原稿を書いていた日。それも短い原稿ではなくて、ある程度ボリュームのある原稿を、午前中いっぱい、昼食をはさんで午後いっぱいガガーッと書き進められた日は、それがたとえ完成しなくても、“仕事したぞー!”という気になります。
 
 二番目に充実を感じる一日は、新幹線や飛行機に乗って日帰り出張をした日か、関東近辺ながら取材で一日動きまわっていた日。私の仕事としては取材そのものは前哨戦に過ぎないんですけれど、物理的に移動しているとなんか働いている気になるんですよね。
 
 三番目に充実を感じる一日は、大掃除をした日です。私は基本的に掃除が嫌いなんです。にもかかわらず、ものすごい決意のもとに重い腰を上げ、寄り道をすることなく、汗みどろになりながら、最初に立てた予定どおり、部屋をきれいにできた日は、それが稀な出来事であるだけに、“私だってやればできる”と自分をほめてやりたくなります(笑)。
 
 こうした日々は私にとって“濃い一日”なんですが、逆に不充実な日もあります。たとえば、テレビをダラダラと見てしまった日。この番組だけと思ってスイッチをつけたのにも関わらず、ザッピングの虜となって次から次へと番組を渡り歩いた後は、後悔のため息が深いです。“こんな風に時間を無駄づかいしている間に、人生が終わっちゃうんですよー”ともう一人の私に毒づかれると、気分は塩をかけたナメクジになってしまいます。
 
 人にはレジャーのドライブも、私にとっては不充実な時間の過ごし方です。特に助手席は最悪。何もできないんですもの。本を読んだり、ビデオを見ていられるのならともかく、景色を見ているか、本当は運転に集中してもらいたいドライバーの話相手をするしか選択肢はありません。景色なんて10分も見れば飽きちゃうし、両方が前を向いているなんて、会話の体勢としては不自然だし。大体無目的にクルマを走らせるというのが、環境保護の観点からいってもまちがっているような気がします。
 
 不思議に思われるかもしれませんが、一日中本を読んでいた、一日中刺繍をしていたという日も、不充実に入るんです。確かに達成感はあるんですよ。“わーい、500ページ読了したぞー”とか、“わーい、お太鼓の文様仕上げたぞー”とかとは思います。しかし、“アンタは書いてナンボのもの”という強迫観念が私の中にはあるので、ほかのことをして一日が過ぎると“あーあ、することをしなかった”と思っちゃうんですよねー。それが週末や盆や正月であってもね。ちょっとビョーキっぽい、と自分でも思います。そうであるならビョーキついでにホームページをもっと更新せんかいって? ごもっともでございます(笑)。
 
 だから、喫茶店やファミレスで長話をしている人々に遭遇すると、銀座でウインドウショッピングしている人を見ると、行列のできる店に辛抱強く並んでいる人々に出会うと、つい思ってしまうんです。“あの人たちの時間に濃度はあるんだろうか?”と。まあ、よけいなお世話なんですけどね。そこには私とは尺度の違う充実度が存在するんだろうとは思うんですが、時間を流れるままにするというのが、私にはどうにも罪深いことのような気がしてしまうのです。単なる時間貧乏なんでしょうか。 

戻る このサブジェクトについてメールを書く