新聞左翼

 私は新聞左翼であります。何のこっちゃ? と思われるかもしれませんね。朝、新聞を取ると、まず折りこみ広告を抜きとります。そして、左手の親指を新聞の谷折りになった側へ差し入れて、残りの指で山折りをへこませながら立てると、私の顔の前に来るのは最終面です。そこからおもむろに一面に向かって新聞のページを繰っていくのです。これを新聞左翼というのだそうです。新聞の左側から読んでいくからです。私の造語ではなくて、以前、どこかにそう書かれているのを読みました。その記事を読む前からそうしていて、“あっ、私だけじゃないんだ”とわが意を得た記憶があります。もう、すっかり習慣になってしまいました。

 だから、ときどき登場する、その日の広告面を買いきっての連続広告は、私にはまったく効果がありません。そういう広告はたいてい、謎をしかけたり、期待をあおりつつ、最終的な結論にたどりつく手法をとっています。しかし、私はいきなリ結論を見てしまうので、印象は普通の広告とまったく同じ。逆にページをめくっていくほどに、“???”状態になります。広告を企画した人には申し訳ないと思うのですけれど、新聞は一面から読まれると頭から思いこんでいるほうにも問題があるといえましょう(笑)。

 どうしてそんな風に読むのかといえば、興味の順番がそうなっているからです。日経新聞を取っているのですが、必ず読むのは最終面の「文化」「私の履歴書」「交遊抄」。最高に忙しいときにはここしか読まなかったりします(笑)。社会面も興味のあるページで、たいてい、ほとんどすべての記事に目を通します。しかし、そこからはページを繰る速度ががぜん上がります。できるだけどのページもしっかり読もうと思うのですが、ダメですね。惹かれるものがない。情報通信のページだけは知っている企業が多いので目も止まるのですが、あとは視線ひらひらモード。それなのに一面に到着するあたりになるとすっかり疲れていたりします。適当に飛ばし読みした結果、大きなニュースがあった日など、人に「一面に載ってたじゃない。知らないの!?」といわれてギクッとする始末です。

 この世のできごとは、歴史の教科書に載るような「正史」と「それ以外」の2つに分類されるような気がしますが、圧倒的に興味があるのは「それ以外」なんですね。オモテ舞台には現われないもの。大義ではなくて小義。その意味では、日経の「文化」欄なんてほんとにおもしろい。1111、2222といった“並び数字のナンバープレートの写真”を集めている人や、すたれつつあるというお座敷芸“東八拳”を次代に伝えようとしている人、現代ギリシャ語辞典を自分のために編纂した人。この世のすべての人に関係あることではないかもしれないけれど、その人やその人のいる世界では大きな意味があって、それぞれに偉業。そういうものに感動しちゃうんですよねえ。若田さんが月に行ったり、ヒラリー夫人が大統領めざすのもすごいことなんですけど、私にとっては“テーマを持った断固とした生き方”や“生涯貫きとおした心意気”の方がニュース。政治・経済・国際情勢もここらでちゃんと勉強しなければいけないと思いつつ、新聞左翼はやめられないのです。

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