インテリ狂人 魂の解放

 以前私が紹介した「待ち暮らし」の作者 Ha Jin(ハ・ジン)の新作です。「The Crazed」(狂人)といいます。去年11月の米国出張のときに入った本屋さんでちょうど平積みになっていて、装丁が美しいのもあって思わず購入したものです。忙しさにとりまぎれてほったらかしにしてあったんですけど、5月の初めぐらいから読み始めて、ようやく先日読了しました。ちょっとペースが遅いですね。

 物語の舞台は、1980年代後半の中国。主人公Jianは地方大学で文学を専攻する大学院生。日本でいうところのゼミのYang教授に気に入られて、後継者となるべく博士号試験を受け、北京大学で勉強するようにいわれます。それだけでなく、北京で医学の勉強をしている美人の娘Meimeiと結婚しろということになって、婚約までこぎつけます。同期の友人などは経済的な成功を望んで大学をやめ公務員になるというのですが、Jianにはそんな願望もまったくなく、学者が自分の道だろうとぼんやり考えています。周りからみればおそろしいほど前途洋洋なJianの未来なのですが、Yang教授が脳梗塞で倒れたことから、少しずつその状況は変わっていきます。

 Yang夫人は夫が倒れたそのときチベットにいて、夫の急病を知らせても帰れないといってきました。娘のMeimeiも勉強が忙しくて北京を離れられず、父の看病ができません。仕方がないので、ゼミの生徒が交代で世話をすることになったのですが、Jianは博士号試験の準備が遅々として進まないことをいらだちつつ、そこでYang教授のひどい錯乱ぶりをまのあたりにします。そのとりとめのない発言から、今まで学者の鑑といわれてきた教授には、本当は政治家となって大きな権力を手にしたいという願望があったことや、その昔、夫人とは別に結婚したい相手がいてずっと彼女を忘れられないでいることや、そのうえ現実にも若い愛人がいることを知ってしまいます。ときには正気と狂気の間をさまようこともあって、西洋の古典文学の一節を朗々と暗誦したかと思えば、中国に真の学者なんていない、誰もかれもただの事務員だと毒づくのです。JianはYang教授の狂気につきあううち、自分の学者としての未来をも疑うようになっていくのです。

 夫人が帰国してもYang教授の容態は回復せず、失意と憎悪の言葉を吐きながらとうとう亡くなってしまいます。Jianはあんな風に死にたくないと心底思い、博士号試験を受験しない、つまり学者にならないことを決意します。それを婚約者Meimeiに告げると、“臆病者。博士号をとって北京に来るのが怖いんでしょ。そんなあなたには用はない”と彼女は去っていきました。彼女は父が自分の後を継ぐのにふさわしい男だといったから、一緒になってもいいと思っていたのです。すべてを失い、絶望するJian。そのとき、彼は大学寮の友人から天安門で起こっている大規模な学生運動のことを聞き、“一緒に参加しないか”と誘われます。臆病で北京に行かないのではないことをMeimeiに証明したかったJianは、政治的な思想などまったくないのに同行することを決意します。電車を乗り継ぎ乗り継ぎ、北京にたどり着いたJianがそこで見たものは、人民解放軍の暴挙にほかなりませんでした。そしてその後、実は自分に学者をめざさせないように策略をめぐらした人物がいたことを知って、Jianはある行動に出ます。その行動とは…。

 Ha Jinはこの作品で、中国のアカデミズムの閉塞感と国家の暴力の象徴としての天安門事件を描きたかったんだと思います。天安門事件は、彼が祖国を捨てる決心をした出来事だったといいますから、いつかこれについて書こうと思っていたんでしょうね。あいかわらずHa Jinの書く主人公は、最後の最後に行動するまでは優柔不断が服着て歩いているような人物でした(笑)。“人間は迷う生き物である”ということを、彼はメッセージの根底に置いているのかもしれませんが、あれは半分以上本人の性格のような気がするなあ。 

 日ごろ取材している中で、中国の人件費は日本の1/3なんてことは知っていたんですが、あらためて中国の貨幣経済は日本とはまったく違うものであることを認識させられました。たとえば、Yang教授がまだ元気だったときのこと。米国に出張するんですが、そのときちょっとだけ寄り道するんですね。それを大学の事務局が知って、“公費の出張でそんなことは許せない、渡航費を返しなさい”というんです。日本円で20万円程度のお金なんですが、大学側はそれが大学教授にとっても非常な大金で、彼に返せるわけがないことを知っていてそういうんです。また、Jianがある用事で山奥の田舎町にいったときには、村人たちの貧しさにびっくりしました。子供の泣き声が何時間も何時間もずっと聞こえることを不思議に思ったJianが村人に尋ねると、“ああ、あれはサソリに刺されたんだ”というんです。“薬はないのか”というと、“薬を買うお金がない”という返事。サソリに刺されたら最後、その痛みに子供はたっぷり半日泣き続けるしかないんだそうです。さらにさらに、ちょうどそのころ映画の撮影部隊が村に来ていて、村人の半分が撮影に参加していたのですが、そのギャラが一日拘束されて一人一元。それでも卵を売ったり野菜を売ったりして稼ぐお金より高いので、カントクにどんなにクソミソにいわれても撮影に付き合っているほうが生活的にはありがたいのです。思わず絶句しませんか。

 Ha Jinは、情景描写、人物描写が巧みなんですが、今回特に魅力を感じたのは、Yang教授です。文学に造詣が深い真のインテリゲンチャと病いを得たために意識下から現れた下卑た狂人、一人の人物の中にまったく相反する二面性が宿っている様がうまく描かれていました。私がもし男優であったなら、髪を真っ白に染めてでも、ぶよぶよの中年太りになってでも、この役をやりたいと思ったことでしょう。人に尿をとってもらったり、拘束されたり、大変なシーンをたくさん演じなきゃいけないけれど、すごくやりがいがあると思う。うまくやれたら、アカデミー賞ものですよ。私がキャスティングディレクターなら、Yang教授はYing Ruochengにやってもらいたいな。彼は「The Last Emperor」でJohn Loneが入れられた収容所の所長やってた人です。といって“ああ、あの”と思い浮かぶ人はあんまりいないと思いますけど(笑)。Zhang Yimouあたり、映画化しないかしら? 中国では無理かな。

 残念なことに、まだ邦訳が出てないんですけど、Ha Jinの英語は彼自身がネイティブでないせいか、小難しい単語を使ってなくてとても読みやすいです。淡々とした文芸系の小説がお好みの方はトライしてみてください。

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