夜のバス

 夜にバスを待っていた。日曜だからきっとなかなか来ないだろう。いつもなら電車で帰る道を、帰りたくなくてテクテク歩き始め、結局のところ2時間も行かないうちに疲れてしまった。ここから先はバスに運んでもらうことにする。
 あちこち欠けて汚れたプラスチックベンチに腰をかけてあたりを見渡す。見知らぬ風景だった。幹線道路というのに、店も灯りも通る人もまばら。空には高架道路が縦横に走っていて視界をふさいでいる。無粋な構図。
 それでも、秋の夜のビロードのような厚みは感じることができた。ぬるい風がときおり首を撫でていく。この感じ。慣れ親しんだ時間と空間の肌ざわり。世界と私と間にある距離感。君たちはそこにいてくれたまえ。私はここにいるから。お互い侵し合わないでおこう。人生は一人が単位だ。
 
 小娘が路地から現れ、サンダルをカラカラいわせて停留所の庇の下へやってきた。あんな音がするのはヒールの中が空洞だからで、空洞なのは安物だからだ。カラカラカラカラ、安物安物安物安物。小娘は手の中の携帯電話のフラップを開き、耳に当てた。光る液晶画面で顔の半分が幽霊みたいだ。
「アタシ。今、バス待ってるの。そう、これから。うーん、今日はねえ、わかんない。今何してた? 何? そっかあ。日曜日だもんねー。誰出てたの? あー、アタシ、けっこう好きー」
 私の王国が、一瞬にしてくずれてしまった。しかし許そう。バスが来たから。小娘は目線を上げながら四角い車体を確認すると、話を切り上げ、電話を切った。そうするとは思わなかった。
  
 夜走るバスは、まるで異界との出入り口だ。外の闇がまわり込んだ薄暗い車内。あさっての方向を向いたまばらな乗客。男も女も精気を抜かれたような顔をして、背中を丸めてとぼとぼ乗り込んできては降りていく。さっきの小娘すら別人だ。
 取り込まれそうになるので外を見る。商店街からポツリと離れて、一軒だけ店を開けている八百屋。痩せたじいさんがテレビを見ながら店の奥に座っている。大きな木の看板を今風にライトアップした“飲み食い処”。街から浮いている。でも、今はこんな辺鄙なロケーションでも人は来たりするのかもしれない。青やら緑やら幻想的な光が近づいてくると思ったら、熱帯魚の店だった。若いカップルがショーウィンドウに顔をはりつかせて、原色の魚を眺めていた。

 車内に目を戻すと、小娘はもういなかった。残りの乗客は3人。じいさん。おばさん。私。男女比1対2。もし、次の停留所で男が乗ってきたら、降りないでいよう。このバス内の女性人口減少を食いとめるんだ。
 乗ってきたのはあんちゃんだった。こういう賭けは妙に勝つ。かくして私は降りる停留所をやりすごした。窓からの風景はまたどんどん異景になっていく。屋上から飛び降りたらよく死ねそうなマンション群。長い長い橋。ぽつんとファミリーレストラン。流行ってた。高くてまずいのに。気のせいか、停留所と停留所の間隔も長くなった気がする。もう、地名が全然わからない。

「お客さん、どこまで行くの?」
 最初、その声は宙に浮かんで消えた。
「お客さん」
“さん”のアクセントの強さで、ようやく私への言葉だと気づいた。誰もいない。みんな降りたのか。話しかけていたのは、バスの運転手だった。日本じゃないみたい。
「どこで降りるんですか?」
「…終点」
「へええ、珍しい。このバスは、日曜日にはめったに終点まで行く人いないから」
 まだ20代か。自分の仕事に誇りと情熱をもってるタイプ。でも、話し好きの人間がバスの運転手になるのは間違ってるよ。
「あの辺りに知り合いでも?」
妙にほんとうのことを言いたくなった。
「実は…、降りそびれたの」
「えっ、ほんとはどこで降りたかったんですか?」
「三笠町三丁目」
「ずいぶん手前じゃないですか。次の停留所ででも降りればよかったのに」
「…そうなんだけどね」
「反対方向のバスはもうないですよ」
「そうなんだ」
「どうするんですか?」
「どうしようかな」
しばらく沈黙が続いた。しょうがない、タクシーだ。夜の気まぐれは高くつくということか。観念した私の顔をときおり盗み見ていたバスの運転手は、決心したように口を開いた。
「こんなことするとほんとは怒られるんだけど…。もう少し行くと、この道は京城線の高架にぶつかるんです。そこで降ろしてあげますよ。高架沿いに1分ほど歩けば鶴島駅だから。ほんとは停留所じゃないんだけどね。だけど、そこを越えるともう動きのとりようがないから」
 彼の横顔をまじまじと見てしまった。そして、乗降口の上方にあるネームプレートも。横田敬吾くん、か。君は人間ができている。若くても。そういう人もいる。
「ありがとう」
感謝の気持ちを表そうと、精一杯微笑んだ。
 それきり話さなかった。そのうちに高架はやってきて、横田くんは言葉どおりバスを止めてくれた。
「次は降りそびれないように」
私は少し子どもっぽく、大げさにうなづいた。 鶴島から各駅停車を乗り継いで三笠まで帰った。もう気まぐれは起こさなかった。

 柿色のドアを開けてまず目に入ったのは、何度見ても大きいと感心する見慣れたスニーカーだった。今日は帰っているのか。
「ただいま」
「……」
慣れたな、このパターンも。でも、もう終わりだ。私はスリッパをつっかけて、深呼吸をして、リビングに続く部屋の玉のれんをかきわけながらお腹に力を入れて声を出した。
「純くん、ちょっと話をしましょう」

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