■ソルジェニーツィン著『廃墟のなかのロシア』訳者あとがき■


 本書はロシアのノーベル賞作家アレクサンドル・ソルジェニーツィン(Александр Исаевич Солженицын)の著書Россия вобвале. Москва.. ≪Русский путь≫ 1998.の翻訳である。原題の意味するところは「廃墟のなかのロシア」である。

 あの超大国と言われたソ連/ロシアが、なぜこれほど短期間のあいだに没落してしまったか? そうした疑い、驚きは日本でも多くの人々が共有するものだろう。ロシアの人々もまた、信じられない思いでいる。そしていま、ロシアはどこへ向かおうとしているのか?

 ソルジェニーツィンは本書でこうした問題に正面から立ち向かい、再生の道を模索し、同胞に呼びかけている。本書からなによりも強く感じられるのは、著者のロシアを愛する切々たる思いであり、復興にかける熱い心である。


 20年間にもわたる亡命生活のあと、ソルジェニーツィンが祖国ロシアに帰国したのは1994年5月のことだった。

 アメリカのヴァーモント州に高い壁を築いてひたすら執筆に励んでいたソルジェニーツィンだが、1993年6月、帰国の意志を表明した。ロシア帰還をワシントンからモスクワに飛ぶことで果たす選択もあっただろう。しかし彼が選んだのは、ヴァンクーバーからウラジヴォストークへの空路だった。1994年5月28日付の朝日新聞は、彼の帰国当日の模様をこう伝えている。

「……私的な行動だとして公式行事を断り、さっそく数千人の市民が待つ市内の中央広場で、『泥沼から抜け出す道を共に模索し、人々の助けになりたい』と呼びかけた。先に給油のために立ち寄ったロシア極東・北部のマガダンでは、同氏は手をさしのべ祖国の大地に触れた」

 ソルジェニーツィンはこの後、シベリアを陸路横断して首都に上るルートをとる。それは長い間不在だったロシアの現在の姿を実際に見て回り、民衆の声にじかに接しつつ戻って行きたいという止むに止まれない思いによるものであっただろう。8週間後のモスクワ入りは次のように報じられた。

「……駅舎に設けられた演壇で約三千人の市民を前に、『健全なロシア魂がシベリアやロシアの地方には生き残っていた。この魂が我々を現在のどん底から救い出すだろう』と語り、ロシアの健全化のために力を尽くすことを誓った。」(1994年7月22日付「朝日新聞」より)

 そして彼のロシア行脚はその後もずっと続けられている。本書の第一章には、そうして集め、記録してきた庶民の肉声が溢れている。ここからうかがえるのは、ソルジェニーツィンの一貫した対話の姿勢、誠実な活動の様子である。

 それにしても、ソルジェニーツィンの帰還した94年から現在までは、ロシアにとって恐るべき混迷の時期にほかならなかった。

 1986年のチェルノブィリ原発事故(本書203ページの「被曝」を連想させる表現はこれを頭に置いているものと思われる)に押されるかたちで始まったゴルバチョフ書記長による情報公開(グラースノスチ)と再構築(ペレストロイカ)の方針。保守派による1991年のクーデター未遂に始まるソ連邦の解体とエリツィンの登場。第二のクーデターと呼ばれる93年の議会ビルの砲撃。日本に関わりのあることでは1997年のロシア・タンカーからの重油流出事故(「重油の帯」185、191ページを参照)や有害物質の海洋投棄というような事件もあった。やがて機能しなくなったエリツィン陣営を取り巻く新興財閥の政商たちをめぐる黒い噂、経済マフィアの暗躍。ひとくちに言えば、まさにロシアの崩壊が進行したのである(この時期のロシアの政治と社会を知るためには現代政治学の優れた成果である下斗米伸夫氏の『21世紀の世界政治4 ロシア世界』【筑摩書房、1999年】を併せて参照されたい)。

 本書『廃墟のなかのロシア』はこうしたなかで刊行された。


 ロシア本国では本書はどのように受け取られ、評価されているのだろうか。

 ロシア有力紙「独立新聞」1998年7月30日付に掲載されたボリス・リュビーモフ署名の記事のあらましを紹介しよう。

「90年代のロシアでは毎日どこかで華やかなフェスティバル、商品のプレゼン、ミス・コンテストなどが開かれ、豪華なショッピングセンターが立ち並び、行列は姿を消し、検閲もなく、自由があふれているかのようだ。しかしこの本を読んでみれば。心が痛むに違いない。ソルジェニーツィンの書いた作品の舞台は、これまでは数十年前のことが多かった。ところがこの本に書かれている事実は、まさに現代に起きていることばかりである。しかし本書を読んで受ける痛みは、事実の重さからくるのではない。ボリシェヴィキ政権が倒れたことでわが国の不幸は終わった、というわれわれの心に微かに燃え残っていた希望が、ついにすっかり打ち砕かれた、という感があるのである。ソルジェニーツィンは98年5月の集会でロシア再生の可能性は半々だと語った。しかし自分としてはもともと本能的に持っている楽観主義のせいかも知れないが、ロシアがこの廃墟から立ちあがる希望はもっと大きいと感じる。私のこの楽観主義を支える第一の保証はソルジェニーツィンその人の存在なのだ。本書に示された90年代後半のロシア社会のあらゆる苦い真実は認めるが、しかし私は『われわれはまだ止めを刺されてはいない』ということを示す根拠を示すことができる。それは苦しい状況のなかでもがんばっている兵士たち、教師たち、医師たち、聖職者たち、そしてなおも活力を保っている文学作品、文学研究などだ」

 日本に住むロシアの人々にとってもまた、本書は貴重な提言に満ちていると感じられるようだ。私の多くの友人はソルジェニーツィンの主張を正しいものと受け入れている。最近来日した知人の一人は「ロシアにいる時はみんながソルジェニーツィンの話をするのでかえって避けていた。でもあなたに借りて帰りの電車のなかで読み始めたら、私がロシア人だって実感し、自分でもおかしいとおもうけど、なんだか涙が止まらなくなって……」と本書の読後感を語る。

 2000年8月、日本で国際ドストエフスキー研究集会が開催され、諸外国から30人ほどが集った。ここでドストエフスキーの社会時評を論じたロシアの研究者は、正教にこそロシアの未来がある、との自説を展開した。その後の個人的な語らいで、彼はドストエフスキーとソルジェニーツィンは同じ方向を目指し、自分も賛成だ、しかしソルジェニーツィンは細かいプログラムまでを語り過ぎる、文学者は心に訴えることに専念すべきだ、と言っていた(この同じ批判は、日本の文学者によってずっと以前に述べられている。1975年の集会「ソルジェニーツィンを考える」で、三木卓氏は講演「“マトリョーナ”の運命」の最後にこう述べておられた。「彼のやっていることは本来は文学の仕事なんですけれども、その文学の仕事の中に彼はとどまっていられない。そこからはみ出していかなきゃならないような事態だと思います。<…>また、こういう状況のなかに投入されてしまえば、こうやっていくよりないでしょう。それはぼくもそう思うんですけれども、ぼく個人の彼への希望を申しますと、『マトリョーナの家』みたいな作品をもっと書いてほしいとどうしても思うのですね」【『ソルジェニーツィンを考える』集英社、1975年刊、86ページ】。この同じ切迫した状況が、ロシアの現代までずっと続いてきた、ということだろうか)。

 いまやモスクワの街は輝くようで、旧ソ連時代を知る者にとっては、ロシアの人々の表情は信じられないくらいに明るくなった。しかしロシアから噴出してくるニュースには心ふさぐものが多い。疑い、絶望と希望の交錯のなかで、本書はロシアの人々にとって、言わば灯台のような役割を果たしていると言るのだろう。


本書に示されているソルジェニーツィンの「旧き良きロシア」への、ロシア人の純粋な心への信頼感は印象的である。1963年に『イワン・デニーソヴィチの一日』で鮮烈なデビューを果たしたソルジェニーツィンは、同年『マトリョーナの家』を発表している。これはロシアの田舎で語り手がたまたま下宿した家の老いた婦人の姿を描いた短篇だが、不器用で物欲の少ない素朴なマトリョーナの姿は胸を打つ。ロシア文学ではトルストイの『戦争と平和』のプラトン・カラターエフや、ドストエフスキーでは「百姓マレイ」の系譜に連なる人物造形であったし、それは私たち外国の人間がロシアの民衆について抱くイメージとも合致したものだろう。ロシア文学あるい精神史に一貫するこうした民衆への信頼感はどこからくるのだろうか? もしかすると理想化しているとの批判がありうるかもしれないが、しかし物静かで、深い思索を重ね、知性の輝きが顔に不思議な光を与えているロシアの人々にじっさい出会うことは今も難しくない。

 一方で現実を批判するソルジェニーツィン自身の激しい姿勢は、ロシアの伝統的信仰を譲ることなく火刑に処された17世紀古儀式派の聖者アヴァクーム、あるいは本書でも触れられているレスコフ作『僧院の人々』に登場する司祭長トゥベローゾフ、正教会から破門されながらも信念を曲げなかったトルストイたちを思い起こさせる。


 本書の特徴の一つは、ロシアの問題を歴史的にさかのぼって論じているところだろう。たとえば、ソルジェニーツィンはピョートル大帝に対して厳しい批判を投げかけており、これは日本の読者には意外に映るかもしれない。しかしピョートル大帝批判はロシアの歴史のなかではずっと以前から繰り返されてきているテーマなのである。

 その最も早い現れは、シチェルバートフ公爵のユートピア紀行『オフィル国旅行記』(1783年)である。シチェルバートフはここでソルジェニーツィンと同様、ペテルブルグ建設で「何千何万という人々が犠牲となり、数え切れないほど多くの財宝が消費された」と批判し、遷都によって「我が偉大な民族が古代から守ってきた善き行いの記録は、それが行われた場所を忘却すると同時に記憶から薄れていき、子孫にとって激励にも範例にもならなくなった」とペテルブルグ時代を批判する。(シチェルバートフ『オフィル国旅行記』は『ユートピア旅行記叢書9』岩波書店、1998年刊に収められている。)

 この後、ピョートルの欧化政策批判はプーシキン『青銅の騎士』(1833年)からスラヴ派の思想家たちをへて、ドストエフスキーへと受け継がれていく。ドストエフスキーの『悪霊』(1872年)については先の「独立新聞」のボリス・リュビーモフも言及していた。19世紀ロシア社会の動乱を黙示録的な終末感覚のなかで描くこの小説の、破壊と殺人の権化を「ピョートル」と命名したのは作家の十分な計算によるものである。ピョートル大帝を悪魔の使い、「アンチキリスト」と恐れた民衆のイメージとも響き合う。ソルジェニーツィンのピョートル批判の背景にはこんな歴史が流れている。

 本書のソルジェニーツィンの立場は、ロシア文化の伝統に立ち帰ることを呼びかけ、しかしながら西欧文化をすっかり捨て去ることはできないという矛盾を抱えたドストエフスキーの「土壌主義」の立場を思わせる(土地との結びつきの重要性を語るページの主張は現代日本にとっても他人事ではあるまい)。ただ19世紀の「土壌主義」と対比すると、スラヴ派の思想家やドストエフスキーには賢著だったカトリック批判という動機が見られないのが本書の特徴だろうか。また、21世紀に向かう問題として、集約的労働がロシア人には難しいという観察(223ページ)がなされているのも、ソルジェニーツィンと19世紀のロシア作家、思想家たちとの違いだろう。

 私は、1997年にロシア文化研究者、愛好家のグループとともにロシアを訪れた際、オープチナの修道院を訪問し、副院長にインタビューする機会を得た。その内容は本書のソルジェニーツィンの主張と関連するので、報告した新聞記事から紹介しよう。

「現代ロシアの宗教回帰の象徴的な存在が、モスクワ南方300キロ、美しい田園のなかのオープチナ修道院である。19世紀にはゴーゴリやドストエフスキイ、トルストイなどの文学者が精神の拠り所を求めてここを訪れ、民衆は遠い道のりを越えてロシア全土から集まった。その様子は『カラマーゾフの兄弟』の冒頭に生き生きと描かれている。革命後に廃墟となっていたが、ペレストロイカ期に復活。人気ロック歌手グレベンシコフが魂の平安を求めてやって来るなど、再び信者たちの憧れの地となりつつある。ここを日本人のグループが訪れるのは歴史上初めてであり、副修道院長を囲んで話を聞くことができた。

 まだ30歳代かと思われる黒衣の副修道院長によれば、自己の罪を自覚し自分の無力さと神の世界の完全さとを認識することから信仰の道は始まるという。「現代ロシアに見られる資本主義化をどう思うか」という質問には、神の真実にいたる道と外面的な進歩を目指す文明化の道とは相容れない、と否定し、「では社会主義は?」という問いには、物質的なものを追い求めた、とやはり全否定する。教会は今こそ社会に出て行くべきではないか、という私たちのいささか性急な質問には、自分たち聖職者は人々の傲慢な病を治癒させる、花に蜜蜂が群れるように人々はここに来る、ここで話を聞いて、彼らは戻って1000人の人に伝えるのだ、と穏やかな微笑みを絶やさない。」(「讀賣新聞」1997年12月4日付夕刊)

 この記事で私は「いささか性急な質問」と書いているが、質問は同行のプロテスタントの信者、神学者の方からの問いかけだった。その方々は会見のあと、ソルジェニーツィンと同じように、ロシア正教の世俗世界不介入の態度を批判しておられた。本書234ページのソルジェニーツィンの指摘には、我が意を得たと思われる日本のキリスト者の方も多いのではないだろうか。


 ところで本書には日本に関する発言もある。日本の北方領土返還の要求は「国家の名誉、威信に関わる大問題だからである」と友好関係の必要性を強調し(60ページ)、日本は第二次大戦の敗北という体験に押し潰されることなく立ちあがったと高く評価している。

 ソルジェニーツィンは『甦れ、わがロシアよ』でも日本に言及し、「たとえば、日本などは運命を甘受し、国際的使命や魅力ある政治的冒険を放棄しえた途端、繁栄を達成したのである。」「日本の場合を見ると、日本人がどん底から這い上がって、さらに上昇を可能にしたのは、外国資本の注射ではなく、勤勉に働いたからである」と言う。木村浩氏はこの本の「訳者あとがき」で、日本の高い評価は「1982年9月16日から10月16日に至る1か月の日本旅行の成果であろう」と指摘しておられる。

 それに加えて、ソルジェニーツィンの日本観はロシアの多くの人々に共通するものであることも指摘しておきたい。一般に日本と日本文化についてロシア人は高い評価を持っている。茶の湯や生け花、浮世絵などの伝統文化と高度なテクノロジーとが調和して共存できている奇跡の国、とのイメージは広くロシアに行き渡っている。

 本書のもっとも大きな批判、すなわちアングロ・サクソン主導のグローバルスタンダード化に対して民族の文化的伝統を守るべきだ、とのソルジェニーツィンの主張は、現代日本にとっても無縁の問題ではあるまい。物欲が支配し、多様な民族文化が失われていく、という危機はむしろ日本でこそ急速に進行しているといえよう。ソルジェニーツィンがロシアについて行っているように、日本の文化の根源に遡りながら今後の日本民族の進む道を示す文化論が必要とされるのではないだろうか?


 最後にソルジェニーツィンをめぐる個人的な事情を記しておきたい。

 私は1972年にロシア極東のハバロフスクでの語学研修に参加した。そこで知り合ったロシアの学生と別れ際に、文通でソルジェニーツィンのことを書く時には実名は危険だから“S”としよう、と符牒を決めたことを覚えている。1980年にモスクワで10ヶ月を過ごした時に知り合った雑誌編集者は、亡命詩人の特集を組むことを主張して編集部を追われた。「ソルジェニーツィンやマクシーモフなど名前の知られた人物は西に追い出され、俺のようなのは東に、つまりシベリアに追放されるんだ」と弱々しい笑いを浮かべていた(彼のことは拙著『現代ロシアの文芸復興』に書いた)。

 その頃のことだったろうか、モスクワの空港で偶然に故木村浩氏にお目にかかった。氏は小声で、「僕はね、ソルジェニーツィンの『収容所群島』を訳したから、ヴィザが下りないんだよ。でもここに来ないではいられない。だから観光客グループに交じって入国してるんだ。これだと審査がゆるいからね」と笑っておられた。本書を訳しながら、ソルジェニーツィンの多くの作品を訳された木村浩先生のお仕事の偉大さをあらためて感じた。

 この頃、ソルジェニーツィンの小説の読み方についてロシアの知人から教わったことがある。『ガン病棟』などに書かれている時代状況はソ連の人々には当然の知識だ。問題はその描き方である。数学者として、ソルジェニーツィンは数式に合わせてプロットを構築している。その美しさに読者は感動するのだ――こうした彼我の読み方の違いにびっくりしたのだった。最近ようやく日本でもこうした読み方がなされるようになっている。

 1989年には5ヶ月間、モスクワ大学で日本語を教える機会があった。翻訳実習のテキストとしてソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』を提案したところ、学生たちは「日本語訳があるんですね」と目を輝かせて教卓に集まったが、コムソモールの役員だという一人の男子学生が政治的な理由で反対し、結局テキストとしてはチェーホフの『子犬を連れた奥さん』を使うことになった。

 同じ頃、モスクワ放送局を訪れた時に、ちょうど月刊誌に『収容所群島』冒頭が掲載され、その号をテーブルに置いて、その場にいたロシア人も日本人も、歴史の転換を実感して感慨にふけったのだった。

 ソルジェニーツィンは2000年5月の「文学新聞」のインタビューで、時間が許すならこれからは教育に関わりたい、と夢を語っている。最近はロシア文化に関する珠玉の掌編エッセイを雑誌に断続的に発表している。


 本書は現代ロシアについて書かれた最も誠実な書物の一つであり、時代を語る歴史的な意義を持つものである。翻訳に携わることができたのは私たちにとって大きな名誉である。

 いま、ロシアで何が起こっているのか? それを国内から描いた第一級の資料と言えよう。この一冊で現代ロシア社会の展望が得られるよう、できるかぎりの注を付けた。

 原文は造語や皮肉な口調などが散りばめられており、翻訳は困難を極めた。またロシア文化の本質が表現されているという成句の論理は日本文化にないもので、それらしい表現に翻訳することは難しかった。たとえば本書208ページには、文字どおり直訳すると「忍耐は救済に勝る」となってしまうことわざがあるが、このままでは日本文化の文脈では理解不可能だろう。ロシアには「この世」で苦労すれば、「あの世」で報われるというキリスト教の考え方があり、逆にこの世で恵まれると、天国に迎えられない、という論理がある。こうした論理についてはできるだけ説明を含む訳にしている。

 翻訳は、前半部分を上野理恵が、後半部分を坂庭敦史が担当し、全体の訳語の検討を井桁貞義が行った。翻訳の過程でたくさんのロシアの方々にご協力をいただいた。この場を借りてお礼申し上げる。それでも思わぬ誤解をしている可能性があり、お気づきの点をご教示いただきたい。

 最後に井桁の多忙のため大幅に遅れた翻訳の進行を温かく見守り、多くのアドバイスをくださった草思社編集部の平山濶二さんに心から御礼申し上げたい。

初出:ソルジェニーツィン著『廃墟のなかのロシア』(草思社 2000年10月)


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