■『悪霊』スタヴローギンについての一考察■
早大露文専修M2 山口 仁
はじめに
本論考の目的はV.ザハーロフによって提出されたドストエフスキイ作品中の概念「アンビーツィヤ(野心、大志)」と「ヴァススタノヴレーニエ(再建)」を分析する方法を用いて『悪霊』の主人公スタヴローギンを分析することである。
1 ザハーロフの「アンビーツィヤ」、「ヴァススタノヴレーニエ」分析について
ヴラジーミル=ザハーロフは論文「ドストエフスキイの創作の根本的イデアにおけるキリスト教的な意味について」で今まで現代の常識として否定的な意味のみがとらえられていた「アンビーツィヤ」という単語が19世紀においては肯定的にも用いられたこと、特にゴーゴリ、プーシキン、ドストエフスキイがその肯定的側面を意識していたことを指摘し、同時に社会的な意味を強調されてきたドストエフスキイのイデア「ヴァススタノヴレーニエ」にキリスト教的な意味を見いだし、ドストエフスキイ本人の言葉から引用して、「キリスト教的で高い道徳性をもつ思想」だとしている。そしてその具体化には3つの段階があるとしている。
第一段階
「自分の内なる人間」を意識する。
「人間の内なる人間」を意識する。第二段階
人間としての「輪郭」を再建、自分自身の「顔」を見いだす
第三段階
自分の内の神的なものを意識、自らを「変容」させ、キリストの訓戒に従って生きる人間となる。
上記三つの段階を筆者が解釈すれば次のようにとらえられる。
第一段階
「アンビーツィヤ」の発生
第二段階
「アンビーツィヤ」の外面的達成
第三段階
人の手になる「アンビーツィヤ」実現の放棄
キリストによる「ヴァススタノヴレーニエ」の完成
ここで一つ明確にしておきたいことがある。ザハーロフは先述の論文において「アンビーツィヤ」という単語の新しい側面について指摘したが、そこに固執するあまり、常識的な用法での「アンビーツィヤ」の意味が置き去りにされてしまっている観がある。この論文の中で彼は「アンビーツィヤ」という単語には意味の二重性があり、言語・文学においてそれが十分に反映された、としている。しかしながら、プーシキン、ゴーゴリ同様ドストエフスキイにとって「アンビーツィヤ」が近代市民社会のヒューマニズムを表す言葉であった、と説明するのみで、従来の否定的意味での「アンビーツィヤ」がどのようにドストエフスキイに扱われたかには触れていない(従来の用法での「アンビーツィヤ」について触れられるのは、その否定的側面しかとらええなかった、としてベリンスキイを批判する部分においてのみである)。ドストエフスキイという作家におけるこの単語の解釈の二つの流れが明らかにされていない。むしろ論が進むにしたがって「アンビーツィヤ」は肯定的解釈に一元化されてしまっている。しかし地下室人をはじめとして作品に数多く登場する「我意の人」が見せる「アンビーツィヤ」はジェーヴシキン等のそれとは明らかに異なっており、従来の解釈を軽視するのは適当でないと思われる。本レポートの対象となるスタヴローギンもこの「我意の人」に属している。ゆえにザハーロフの言うところの肯定的な意味での「アンビーツィヤ」を「肯定的アンビーツィヤ」、従来の意味で用いられる場合は「否定的アンビーツィヤ 」と呼称して区別する。
2 スタヴローギンの描写の分析
次に『悪霊』の主人公スタヴローギンの描写の分析を通じてザハーロフの理論の妥当性を検証したい。ここでスタヴローギンを取り上げる理由としては、彼がドストエフスキイの作品に登場するアンチ=キリスト者の中でも代表的な人物であり、その挫折までの過程( すなわち失敗の過程)が明確であることもさることながら、彼の外見についての詳しい描写が二度に渡って行われ、その変化を容易に追える点が挙げられる。ザハーロフの理論においては「輪郭」「顔」といった外見上の要素が重要な役割を担っており、その点から見ても、このような特徴をもつスタヴローギンは考察の対象として最も適当であると思われる。
2-1 自意識と「アンビーツィヤ」の発生
物語に初めて登場するスタヴローギンは虚弱質の青白い顔色の十六歳の少年である。彼はステパン=ヴェルホヴェンスキイによって基礎的な教育を受けたとはいえ、外界に接しておらず、自我らしい自我ができあがっていない。つまり「アンビーツィヤ」が発生していないのである。これは彼が外界に能動的な行動をとらず、受動的または内向的であったことを示す描写が目立つことからもそういえる。彼は「奇妙にひっそり考え込みがち」で、リツェイにいくためにステパンから「引き離され」(註、つまり自分の意志によらず)、リツェイ入学後も「口数は少なく、以前と変わらず、ひっそりと内気」であり、卒業後は「母の希望に従って」軍務についている。この時点での彼はまだ先述の第一段階に立っていないと言えよう。
近衛騎兵連隊に配属された彼はその本性を現し始める。常識では考えられぬ振る舞いに次々と及び、最終的には退役してしまう。そしてそのままペテルブルグにとどまり、すさまじい放蕩生活に身を委ねるのである。このことが彼の自己主張のあらわれであることは、スタヴローギン自身が当時の生活を振り返り、自己の力を試し、達成することに快楽を感じていたとダーリヤへの手紙及び「告白」で述べていること、またリツェイ在学中は頻繁に帰ってきていたスクヴォレーシニキとのつながりが薄れ、途絶する様子(軍務についている当時は「めったにペテルブルグから手紙をよこすこともなくなった」とあり、退役後は「スクヴォレーシニキには帰らず、母親にはまったく手紙をよこさなくなった」とある)などにうかがえる。自我の目覚めとともにスタヴローギンの中に「アンビーツィヤ」が発生し、彼は第一段階に立ったと言えよう。しかしスタヴローギンの「アンビーツィヤ」は人間であることで尊敬を得たい、という類の「肯定的アンビーツィヤ」とは到底呼べぬものである。これは我意の主張、と言うよりはその試験のためにあらゆるものを踏み越えようとする「否定的アンビーツィヤ」である。スタヴローギン及び彼の行動が「 獣 」と表現されている点に注意したい。つまり、当時の彼は人間性の欠如した欲望・恣意の権化であり、まさに「人間としての輪郭」をもっていないのである。
そのような彼に転機が訪れる。マトリョーシャ事件である。少女凌辱という重大な罪はスタヴローギンに大きな影響を与える。特にマトリョーシャの自殺を見て見ぬふりをした後に、彼が生涯で初めて「厳しく自己像の把握をする」のは注目すべきである。このことはスタヴローギンが初めて「自分の輪郭」を意識したことを示している。
しかしこの事件もまだこの時点ではきっかけに過ぎず、内的な変化はともかく、スタヴローギンは未だ「獣」であり、外見からは変化は認められない。
「彼の髪は何やら非常に黒く、淡色の目は何やら非常に静かで明るく、顔色は何やら非常に柔らかみがあって白く、頬の赤みはなんだか鮮やかできれいすぎるし、真珠のような歯、珊瑚のような唇-絵にかいたような美男子に見えるのだが、同時に何となく嫌悪をもよおさせるものだった。彼の顔は仮面のようだ、という評判だった。」事件後しばらくしてスクヴォレーシニキに戻ったときのスタヴローギンの描写である。非常に目につくのは繰り返される「何やら」「なんだか」である。これはスタヴローギン内部に潜む「否定的アンビーツィヤ」の過剰を表していると考えられる。この過剰さゆえに彼の外貌は人に奇異の感じを与え、「美男子なのに嫌悪をもよおさせる」こととなる。そして残される印象は「仮面」、人に似て人ならざるもの、である。
2-2 「アンビーツィヤ」の変容と限界
自らの内に生じる「否定的アンビーツィヤ」に身をまかせ続けるスタヴローギンだが、放浪生活の途中で今度は決定的な変化を余儀なくされる。すでに内的変化のきっかけとなっていたマトリョーシャという存在が幽霊となって現れ、そのことによって自らの罪を自覚するのである。この自覚はスタヴローギンに外見上の変化をももたらした。
「見たところ、彼は四年前と全てが同じであった。…(中略)…しかし一つ私を驚かせたことがある。以前彼は美男子と見なされていたものの、実際彼の顔は『仮面に似ていた』のである。…(中略)…しかし、今は-今は、なぜだか分からないが、一目で彼は決定的で、議論をゆるさぬ美男子に見え、どうしても彼の顔が仮面に似ているなどと言うことはできなかった…(中略)…もしかすると、何か新しい思想が今彼の目に輝いているからだろうか?」帰還を果たしたスタヴローギンの描写である。かつてはつきまとっていた醜悪さが消え去り、「仮面」を感じさせた顔が「決定的で、議論をゆるさぬ美男子」に変わっている。ここにいるのはすでに「獣」ではなく、「人間としての輪郭を再建」した者である。スタヴローギンはここにいたって第二段階に立ったと言えよう。彼の「否定的アンビーツィヤ」はここで一つの限界に達している。彼は自分が「その気になればマトリョーシャを振り捨てられることを知って」おり、「自分の意志を完全に統御している」と感じている。しかし彼は「その気にならない」のである。つまり「アンビーツィヤ」の達成が不可能になるのではなく、彼の中に「否定的アンビーツィヤ」が発生しない、という形で限界が現れたのである。
罪の意識に苦しみもだえるスタヴローギンは、何とか自分が「その気になる」ことを望んで様々なことを試みる。人間としての輪郭を取り戻したスタヴローギンのここでの「アンビーツィヤ」は、これまでの自分の力を試し、そして快感を得るという利己から出た「否定的アンビーツィヤ」ではない。「自分で自分を赦したい」という切なる望みであり、「肯定的アンビーツィヤ」と言えよう。彼の「アンビーツィヤ」が変質したことがうかがえる。しかし個々の行動を成し遂げることはできても、本質的な「アンビーツィヤ」は達成されることなく終わる。これはすでに人の域を超えたものであるためである。やがて彼は自分の犯罪行為を公の場にさらけ出すことに思い至る。苦しみを求めることによって自分を赦すことができるのでは、と考えたからである。これがスタヴローギンの「告白」である。これはスタヴローギンの自力による「アンビーツィヤ」達成の最後の試みであり、同時に第三段階へ至る直前の階梯である。自力による解放を求めての行動でありながら、彼の「告白」を呼んだ僧チホンによれば「これ以上にキリスト教思想を表現することはできない」行為なのである。なぜならスタヴローギンが「自らはそれを知らぬまま、聖霊をうやまって」いるからだ、とチホンは言う。スタヴローギンもうすうすこの行為が自力の放棄を要求するものであることに気づいている。持ちこたえられなくなってチホンに相談をしに来たのにもかかわらず、告白文書を手渡す前に三度も自分は「誰も必要としていない」と念を押しているのはそのことに対する抵抗と取れる。
3 キリストの拒否-破滅
キリストの道に帰依するようチホンはしきりに勧め、実際スタヴローギンの心はかなり揺れ動き、彼の言葉に惹かれている。傲岸不遜なスタヴローギンがたびたび素直な表情を見せていることからそれがうかがえる。しかしその素直さは長続きせず、すぐに不機嫌さや皮肉に取って代わられてしまう。結局スタヴローギンは自力を放棄できず、キリストを拒否してしまう。
「そうこうするうちに、彼は書き物机のそばに立ち止まり、象牙製のちいさな磔刑像を取ると、指でいじっていたが、急にそれをまっぷたつに割ってしまった。はっと驚き、彼は戸惑いながらチホンを見たが、不意に彼の上唇が侮辱を受けたかのように、また傲慢な挑戦をともなっているかのようにふるえ始めた」キリスト拒否の象徴としての行動である。スタヴローギンは偉大なキリスト者になれる資質を持ちながら、「アンビーツィヤ」を放棄することができず、それゆえ彼の「ヴァススタノヴレーニエ」は一歩手前で完成されない。最後はリーザやダーリヤといった女性の犠牲に頼って自分の「ヴァススタノヴレーニエ」を果たそうとするが、結局それは果たされない。そしてスタヴローギンに残されたのは-自分で強く否定していたにもかかわらず-自殺という手段のみであった。この手段による決着が自己欺瞞に過ぎないと知りつつ、その選択をしたスタヴローギンの最後のメッセージは次のようなものである。
「だれをも咎むることなかれ、われみずからなり」
「アンビーツィヤ」とともに滅びることの宣言である。
むすび
今回『悪霊』の主人公スタヴローギンの分析にザハーロフの理論を用いて検証してみたところ、人物解釈のみならず表現面でもかなり妥当していると言えそうである。しかし、やはり問題点はある。すでに述べたことだが、「アンビーツィヤ」の解釈における問題である。ザハーロフは「アンビーツィヤ」の肯定的側面に着目し、それを強調している。そしてゾシマ、アリョーシャといったキリスト教的変容を果たすものとヴェルシーロフ、スタヴローギンなどの救われぬものとの差を、「ヴァススタノヴレーニエ」具体化に至る過程の第三段階に立てるか立てないかのみで区別している。つまり「アンビーツィヤ」を一括して肯定的にとらえている向きがある。
確かに、「我意」や「恣意」といった否定的な意味で一括されてきたドストエフスキイの「アンビーツィヤ」という単語に新たな光を当てたという点でザハーロフの指摘は興味深い。ゴーゴリ、プーシキンからその言葉を受け継いだとしていることから文学史的な位置づけも適当であると思われる。ザハーロフはこのヒューマニズム的イデアにキリスト教という要素を加味したものがドストエフスキイ独自のイデア「ヴァススタノヴレーニエ」であるとしている。
この指摘そのものは間違ってはいない。が、ザハーロフの論では自意識の目覚めからヒューマニズム、そしてキリスト教への帰依という過程が漸進的に解釈されている。しかし帰依とは自分の不完全さを意識し、その不完全さが自らの逃れられぬ属性であると認めること、そして自己以外の完全なるものに全てを委ねることである。自ら何かを成そう、果たそうとする「アンビーツィヤ」とは根本的に異なっているのである。つまり「アンビーツィヤ」から「ヴァススタノヴレーニエ」に至る過程ではこの根本的差異が乗り越えられねばならない。ここで飛躍-この場合、「放棄」という全的な否定-が必要とされるのである。ドストエフスキイが単なるヒューマニズムからの脱却を果たし、キリスト教的要素を強く打ち出すに至った過程は決して漸進的ではない「信念の甦生」は大きな飛躍である。そしてその飛躍のきっかけとなったのは「我意」や「恣意」-すなわち従来の用法でのアンビーツィヤ-への深い理解である(『地下室の手記』が強烈な社会主義的ヒューマニズム批判であることに注意されたい)。
このように「アンビーツィヤ」の否定的側面は独立した意味を与えられるべき因子であり、一元的に「アンビーツィヤ」をとらえるべきではない。その二重性を明確にしておく必要がある。と同時に、二つの側面が別個のものとはならず、あくまで同質のものであることにも言及すべきである(社会主義的ヒューマニズムと「人の共食い」(=恣意の究極)が無神論という点で同根である、というのはドストエフスキイ本人の意見であるから)。それゆえに「自力」という同一枠内に置きながらも、「アンビーツィヤ」を「肯定的」と「否定的」の二つに分けてみた。このことによってドストエフスキイの作品における他の登場人物(例として挙げれば、ラスコーリニコフ、ナスターシヤ=フィリッポヴナ等)の「ヴァススタノヴレーニエ」の過程をより明確にできるのではないかと考えるものである。
参考文献
ヴラジーミル=ザハーロフ 「ドストエフスキイの創作の根本的イデアにおけるキリスト教的な意味について」(論文集『20世紀末におけるドストエフスキイ』(モスクワ 1996)に収録)
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