■ロシア文学の愉しみ方■ br>
どこまでも無限に広がる野原。その上に遠く続く空。ゆったりと流れる広い川に空が映っている……これがロシアの人々の理想的な景色、いわゆる原風景というものだろうか。シベリア鉄道で1週間乗り続けてモスクワに着く。そのあいだずっと、こうした平原が続き、真っ赤な夕日が地平線の彼方に沈んでいくのである。ロシア文化には、地平の彼方へ歩み去って行きたいというアナーキーな自由を求める心が表現されている。
遠くへどこまでも広がる空間を前にして、彼方に何があるのかを問う心が生まれる。ロシアの人々の心と、それを映した文学の根底には、こうした探究心が常に存在する。たとえばトルストイの『戦争と平和』を思い出してみよう。フランス軍との戦闘に破れ、負傷して戦場に横たわるアンドレイは、「高い空」を見上げる。その時、傍らをナポレオンが通り過ぎる。アンドレイにとってかつては英雄と思われたナポレオンも、いまや、この「高い空」の下では単なるちっぽけな歴史の駒のようにしか思われなくなる。またドストエフスキイの『罪と罰』では、殺人を犯してシベリアに送られたラスコーリニコフは、川の岸辺に腰を下ろして、対岸のどこまでも広がる平原を呆然と眺めている。この若者の傍らに若い娘ソーニャが不意に姿を現す。それは二人が愛に満たされる瞬間であった。
ロシアでキリスト教が国教とされるのは988年のことである。それまでロシアの人々の信仰は多神教であった。森の精、水の精、かまどの神、白い蛇もまた神聖なものであった。キリスト教化された後も、これらの神々は悪魔や魔女にすっかり身を落としたのではなく、いわゆる二重信仰として生きのびてきた。『罪と罰』で、ラスコーリニコフの殺人の告白を受けたソーニャが「おまえの汚した大地に接吻して、皆に告白しなさい。そうすれば神はふたたび生きる力を与えてくれるでしょう」と言う。ここにはロシア古来の「潤える母なる大地」への民間信仰が滑り込んでいるだろう。
ヨーロッパ北辺に位置するロシアは、17世紀にいたるまで独自の文化を密やかに育てていた。しかし18世紀初めのピョートル大帝による強引な西欧化政策の結果、ヨーロッパの近代文化と出会うことになる。これ以後、ギリシャ・ローマの古典もルネサンスも科学技術も一気に流入する。明治維新の日本に起ったと同じ混乱が、これより約1世紀半前のロシアに見られたのである。西欧と対峙して自国文化のアイデンティティを発見すること。21世紀にいたるまで続けられている、この思想的闘いの先頭に立ったのがロシアだった。ここにロシア文化の栄光と悲惨とがある。ヨーロッパ最先端の文化を追う動きと、古来の土着文化を復興しようとする方向とに引き裂かれながら、急速に変化する社会で、世代間の対立も先鋭化する。そうした矛盾を描いたのがトゥルゲーネフの『父と子』だった。ロシア文学もまた様々な時代の様式が混在し、たがいに絡まりあいながらダイナミックに進むところに特徴がある。
20世紀のロシア革命もまた、ヨーロッパに追いつき追い越そうとする壮大な実験だった。積極的にこれを支持し、革命を推し進めようとする文学者、疑いを抱いて小声で呟く者、反対して亡命する者。誰もが限りなく真剣であり、同時に疑いと笑いとを秘めている。しかし自由を求め、権力を批判する姿勢は一貫したものだった。『ドクトル・ジバゴ』や『巨匠とマルガリータ』は20世紀ロシアの人々のそうした魂の記録である。
ところで、広大な空間に生きるロシアの人々が、その一方で濃密に凝縮された空間である日本の庭園、茶道、生け花などの小さな「美」に惹かれていることをご存じだろうか。それは、長い冬を生きる彼らがヨーロッパのもう一つの極である陽光の国イタリアに惹かれるのと同じ心理なのかもしれない。 br>
初出:『世界文学のすじ書き』(宝島社 2003年12月)
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