■ロシアの夢■

   1.ロシア18世紀とユートピア文学
   2.シチェルバートフと『スウェーデンの貴族S氏のオフィル国旅行記』
   3.スマローコフと「『幸福な社会』の夢」
   4.リョーフシンと「ベリョフ市民の月世界旅行」
   5.ピョートル大帝、エカチェリーナ女帝、ペテルブルグ
   6.ロシア・ユートピア文学の3つの流れ



1. ロシア18世紀とユートピア文学

 ここではないどこか、今ではないいつかに理想的な社会を夢見ることは、どんな時代でも、またどんな民族にも見られる文化的現象であるにちがいない。ロシアに関しては、民衆の抱いていたそうした<ユートピア的想像力>に関してこれまでも様々な角度から紹介されてきたが、近代小説としての「ロシア・ユートピア文学」は日本にあまり知られていないばかりか、ロシアにおいてさえもむしろ近年ようやく研究が開始された分野である。

 ピョートル大帝の欧化政策の結果、ロシアは18世紀において近代国家として生まれ変わった。その事業はさまざまな希望と痛みを伴って継続され、18世紀後半のエカチェリーナ女帝に引き継がれる。この世紀の初めには辺境の後進国だったロシアは、世紀の終わりにはヨーロッパ列強に肩を並べる大国になっていた。人口は3倍に増大し、領土もバルト海からクリミア半島にまで拡大している。

 こうしたロシア国家の新しい展開に伴って、ロシア・ユートピア文学は育ってゆく。資料によれば18世紀の最初の60年間には西欧のユートピア文学の翻訳はわずか15編ほどであったのに比べて、エカチェリーナ女帝が活躍する後半40年間で、540編もの翻訳が出版されたという。言うまでもなく当時の知識人はフランス語やドイツ語など、西欧の文書は原書で読むことが普通であったから、翻訳の出版はユートピア文学への要求の大衆化という質的な変化と拡大を意味しているのであろう。翻訳は40年代から開始される。

 本叢書に収められている作品の翻訳を中心に、ロシアに出現した順に挙げてみよう。ロシアで最もよく知られたのはフェヌロンの『テレマコスの冒険』である。1747年に最初のロシア語訳が出版され、18世紀中に5種類の訳が計10回出されている。

 ジョン・バークレイの『アルゲニス』の翻訳は1751年。そしてトマス・モアの『ユートピア』がフランス語からロシア語に移されるのは1789年、英語からの直接訳は1790年に出版されている。

 『ニコラス・クリミウスの地下世界への旅』はホルベリによって書かれてからわずか20年ほど後、1762年には早くもペテルブルグで翻訳が出されている。モンテスキューの『ペルシャ人の手紙』も4回にわたって翻訳出版があった。これほどにユートピア文学が求められたのはなぜだろう。勃興期にある国家にとって、その未来図の構築は最も必要とされる国家的要請でもあっただろう。この世紀の初めには、文学はまだ国家の事業であった。そして世紀の終わりに向かうに従い、文学が個人の営為としての性格を強めていく中では、ユートピア文学もまた、作者の夢を表現し、個人の価値観を表明する手段となっていったのであろうし、やがて19世紀初めにはさらに読書そのものを楽しむという娯楽的なジャンルにもなってゆくだろう。

 ここに収められた3つの作品とその作者を紹介しよう。


2. シチェルバートフと『スウェーデンの貴族S氏のオフィル国旅行記』

 公爵ミハイル・ミハイロヴィチ・シチェルバートフ(1733年~1790年)は由緒ある貴族の一員として裕福な家庭に生まれた。初期の教育は家庭において行われ、17歳の時にセミョーノフ連隊の親衛隊に入る。1762年にピョートル3世の公布した「貴族の自由に関する布告」を受けて退役し、以後は文官として当時のロシアの国内事情をつぶさに知ることになる。1767年にヤロスラーヴリ貴族団の代議員に選出され、エカチェリーナ女帝の発案による新しい法典作成の立法委員会のメンバーとなる。ここで彼は貴族階級の利益を守るためにリベラルな少数派と論争を重ねた。またこれより前にロシア史の著作に手を染め、おそらく1767年にエカチェリーナ女帝の知己を得、その結果総主教座の蔵書や国家印刷局の蔵書を見ることができるようになった。ここにはピョートル大帝の命令により各地の修道院から集められた年代記などが収められていたのである。政府の要職を歴任しながらも歴史書の執筆は早いペースで進み、1769年には最初の2巻(1273年までの記述が含まれている)が出版された。その後は外交文書なども閲覧することが可能になり、全15巻におよぶロシア史の出版は死後まで続いた。この歴史書は19世紀の歴史家セルゲイ・ソロヴィヨーフなどによって高い評価を得ている。

 一方シチェルバートフは1776年から77年にかけて、ロシア最初の統計学の書物を出版した。同時代のロシアの統計に関するもので、全体の項目は次の12に分かれている。

1.面積
2.国境
3.生産(経済学資料)
4.諸民族(住民統計)
5.信仰
6.統治機構
7.軍事統計
8.収入
9.貿易
10.マニファクチャー
11.民族の性質
12.隣国の配置

 1778年には税務庁長官、1779年には元老院のメンバーとなり、生涯変わることなく政治、経済、哲学に関する論文を発表し続けた。

 80年代の終わりにはエカチェリーナ女帝の宮廷を批判した「ロシアの道徳の退廃について」を書いたが、当時おおやけにされることはなく、ゲルツェンによってロンドンで1858年に初めて刊行された。

 文学作品としては寓話や頌詩、叙情詩も書き、「死の瞬間についての考察」といった哲学論文も発表している。彼の図書室は15000冊もの学術書で埋まっていたという。

 シチェルバートフについては18世紀後半における啓蒙貴族を代表する最も優れた人物であるとの評価は定まっており、彼の研究は現在も続けられている(1996年にペテルブルグで出版された18世紀ロシア文学集『魂についての考察』には「死の瞬間についての考察」および「魂の不死に関する会話」が収められている)。

 『オフィル国旅行記』は<ロシア最初のオリジナルなユートピア文学>とされる。シチェルバートフがこの作品を書き始めたのは50歳を越えた頃、1783年から84年であろうと言われる。残念ながら未完に終わり、主人公の年齢などに整合性を欠く個所も残るが、ロシアの最高の知識人の一人による、フランス革命直前期のロシア国家建設のプログラムであるという歴史的価値は失われていない。この作品の成立の基礎には、シチェルバートフの歴史家としての知識と 、国家というものを描き出す基本的枠組みを与える統計学の教養が不可欠であっただろう。 ヨーロッパ啓蒙主義の思想的影響を強くうけながら、記述の内容は当時のロシアの国内事情に立脚している。

 「オフィル」とは『旧約聖書』に現れる地名をとったものである。

 「オフィル」とされる場所は旧約の世界では良質の黄金の産地として知られる。所在地はおそらくはアラビア半島の南西岸あるいは紅海に面したアフリカのソマリランド海岸にあったとされる。ヒラムがソロモンのために送った船は、アカバから船出してオフルから高価な品を運んだ。ソロモンはオフィルの金や白檀の木を神殿と宮殿の建築に用いた。

「ヒラムは船団を組み、自分の家臣で航海の心得のある船員たちを送り、ソロモンの家臣たちに合流させた。彼らはオフィルに行き、金四百二十キカルを手に入れ、ソロモン王のもとにもたらした。」(新共同訳「列王記上9章28節」)

「また、オフィルから金を積んで来たヒラムの船団は、オフィルから極めて大量の白檀や宝石も運んで来た。王はその白檀で主の神殿と王宮の欄干や、詠唱者のための竪琴や琴を作った。このように白檀がもたらされたことはなく、今日までだれもそのようなことを見た者はなかった。」(同10章11~12節)

「ヨシャファトはタルンシュの船を数艘作り、金を求めてオフィルに行こうとしたが、船団はエツヨン・ゲベルで難破し、行くことができなかった。」(同22章48節)

 シチェルバートフが『旧約聖書』のこうした記述から、嵐の末にたどりつくユートピア国の名前を「オフィル」としたのであろうことは容易に想像がつこう。さらにこれまでの研究では、彼が影響をうけたであろう先行的作品として、ドイツの作者不祥のヨートピア文学「オフィル王国」(1699年)が指摘されている。腐敗した食物の販売には厳しい罰が下されるといった細部にいたるまでの継承関係が指摘されてきている。

 旅行記はスウェーデンの貴族の書いた手記という体裁をとっている。彼はウプサラ大学を卒業することになっているが、これはヨーロッパで最も古い大学の一つで、創立は1477年である。スウェーデンは18世紀前半、国王の権威が弱まり、身分性議会主義が導入された。議会の貴族階級は2つのグループに分かれた。庶民派を標榜する一派はアイロニカルに「ナイトキャップ」あるいは単に「キャップ」派と仇名され、貴族主義を前面に押し出す人々は「ハット」派とされた。「ハット」派は1741年に政権に就くとロシアに宣戦を布告した。この戦争は1743年にスウェーデンの敗北に終わった。旅行記の筆者である若い貴族はこうしたスウェーデンの政治状況に嘲弄されて、インドで軍務に就くことになる。1772年、グスタフ3世は「ハット」派の君主制主義者の助けを得て王位に就くと、両者を和平させ、立憲君主制であるが国王の権限を強めた。この後に訪れた祖国の安定と繁栄の報を受けて、筆者は帰途につくが、折りからの暴風雨に流され、南極大陸にあるというオフィル国に漂着する。この辺りはモアの『ユートピア』を思わせる伝統的な手法である。ジェイムス・クックの南極大陸探検は1772年から75年に行われた。「南極大陸」は執筆当時の話題だったのだろう。

 以後、主人公はオフィル国の政治状況や伝統、習俗、宗教を知っていく 。

 最初のテーマはペレガープという都である。かつて皇帝ペレガによって海岸の沼地に建設された。皇帝はこの新しい都市を首都と定める。これは後述するピョートル大帝のペテルブルグ建設の暗喩である。シチェルバートフは大帝の改革を評価しつつも遷都に関しては批判的であり、以後のオフィル国の歴史はロシアのそれとは大きく異なっている。長い歴史が過ぎ、一人の賢明な皇帝が現れた。彼は首都をオフィルの旧都クワモに返したのである。

 作者の都市に対する否定的な姿勢には、ルソーの影響がうかがわれよう。

 ここで作品中の主な固有名詞と現実との対照表を掲げておこう。

ペレガープ

ペテルブルグ

ペレガ

ピョートル大帝

クワモ

モスクワ

ペギヤ

ネヴァ河

ドゥイスヴイ

スウェーデン

 次のテーマとなるのは宗教である。オフィル国の宗教は理性に基づく理神論であり、ここにはヴォルテールやルソーの思想、また「1」によって唯一絶対の存在を表すフリーメーソンの数字象徴の影響が指摘されてきている。

 さて主人公はペレガープからクワモへと旅する。途中で軍営地を観察し、そこに満足と平安を見る。詳しい数字を挙げながら作者が提示する軍隊組織の具体的で緻密なことには驚かされる。ガバノヴィア市では学校を見学する。教育は無料で、学問の学習以外に生徒たちは体操やゲーム、ダンスに興じている。基本的な道徳が教えられる。ここでは女子のための教育が大きく取り上げられていることに注目したい。エカチェリーナ女帝による貴族の子女を対象とするスモーリヌイ女学院の開設が想起されるが、町人や商人の娘のための学校を考えている点でシチェルバートフのプランは一層進んでいると言えるだろう。

 県からは代議員が選出されて国会を形成する。オフィル国は理想的な国家であり、工業と農業が栄え、政治的、社会的生活は理性的に構築され、行為や道徳の規律によって不和は避けられ、道徳の退廃につながる要素はすべて排除されている。

 ルソーやヴォルテール、フリーメーソンなどの思想的影響のほかに(ロシアにおけるフリーメーソンの展開については笠間啓治著『19世紀ロシア文学とフリーメーソン』[近代文芸社、1997年]を参照されたい)、『オフィル国紀行記』には、本叢書にも収められているフランスのヴェラス作『セヴァランブ物語』、フェヌロン『テレマコスの冒険』、またポーランドのスタニスワフ・レシンスキの作品『ヨーロッパ人と島の人々の会話』(1752年、パリ)などの影響関係が指摘されてきている。一方、啓蒙主義の理想と、貴族の特権あるいは人々の階級的不平等の擁護との間の矛盾も指摘されてきている(クリュチェフスキイ)。フランスの啓蒙主義は封建制度とカトリック教会への反抗を大きな柱としていた。ロシアのシチェルバートフの描くオフィル国では、全能にして全知、そして正しい裁きを行う神に全てが従っている。教会が国家を呑み込み、治めるのである。ほぼ1世紀後にはドストエフスキイが同様の主張を行うことになる。ロシア思想の重要な論点である。

 この作品は検閲にはばまれて長く刊行されなかったが、おそらく筆写の形で広まっていった。1825年、ロシア最初の革命運動である「デカブリストの乱」に参加した若い貴族たちに読まれていたとの研究がある(セメフスキイ)。

 翻訳のテキストとしては、本紀行が最初に公刊された『シチェルバートフ公爵作品集』(ペテルブルグ、1896年)を使用した。翻訳したのは全体のほぼ3分の2ほどの分量である。全訳する良い機会かとも考えたが、同じ時期の複数のロシア・ユートピア文学を併せて訳出することで、広がりをもってこの時代を紹介できるだろう方法を選んだ。省略部分があるとはいえ、翻訳には「オフィル国」の全貌が浮かび上がるような個所を選び出している。紹介しなかったのはこの国の各地方の人口や産業などが細かく数え上げられている部分などである。

 翻訳は第1部第2、3、4、7章を井桁が、第1部第5、6、8、11、12章と第2部第1、3、4、5章を草野慶子が担当し、訳語の統一をした。 文体は担当者それぞれのスタイルを残した部分もある。先に触れた不整合な個所はあえてそのまま訳したが、個人名については訳者の判断で統一した。

 翻訳を進めながら、二人の訳者はシチェルバートフの精密な国家設計プランにあらためで驚きを禁じ得なかった。ロシアのユートピア文学は制度的に不明確である、との指摘(カルムイコフ)はここでは全くあてはまらない。作者は制度を整えて社会を変え、そして人の行動をも変え得ると考えている。また、先の女子教育や陪審員制度、立法の直接民主制など、思想的な新しさにも舌を巻いた。18世紀ロシアにこうした思想家が存在したという発見は、訳者たちにとっても大きな喜びに満ちたものであった。

 批判の対象となっているロシアの現実は、やがて19世紀にゴーゴリが風刺的に描き出す『検察官』や『死せる魂』の世界を思わせ、現代ロシア社会にも通じるだろう。シチェルバートフによる諸々の提言が受け入れられていたなら、その後のロシア史の様相は大きく変わったことだろう。


3. スマローコフと「『幸福な社会』の夢」

 アレクサンドル・ペトローヴィチ・スマローコフ(1717年~1777年)。古い貴族の家に生まれた。父はピョートル大帝によって洗礼され、大帝の改革を心から支持していた。教養人の父の養育のもと、アレクサンドルも早くから文学に親しみ、特にフランス古典文学の知識は豊富で、やがて<北方のラシーヌ>と呼ばれるようになる。1747年にロシアに演劇の役割を知らしめたと言われる悲劇『ホレーフ』を出版。56年にはロシア最初の常設公衆劇場の劇場長となるが61年には俳優たちとの不和あるいは陰謀によって追われる。1759年にはロシアで初めての個人文芸雑誌「働き蜂」を創刊する。文学が私的な仕事でもありうる時代がきたのだとされるが、この雑誌はすぐに資金不足に陥った。

 1762年のエカチェリーナ女帝の即位に際してはこれを大いに歓迎し、ピョートル大帝が死によって阻まれた大事業を完成させ、「公正不可侵の裁きの壮麗な神殿を建てる」ことを求めた。エカチェリーナ女帝もスマローコフを評価していた。この頃彼の栄誉は頂点を迎える。

 1770年以後モスクワに移るが、エカチェリーナ女帝との衝突などから次第に時代から取り残され、貧窮のうちに亡くなる。

 スマローコフは30年間の間に9編の悲劇のほか喜劇、頌詩、エレジー、寓話、風刺詩、評論など無数のジャンルの作品を書いた。中でもロシアの現実を風刺する筆は冴え、ヨーロッパから移入した文化を振り回す底の浅い知識人を揶揄する一方で、怠惰な旧体制派、不正な裁判、地主たちの横暴なども批判した。

 「『幸福な社会』の夢」は1759年に彼の雑誌「働き蜂」に掲載された。ここに描かれるのは啓蒙主義の夢見る国家である。君主と政府も万人の利益という原則によって貫かれている。階級的な特権は否定され、農民の子供も大貴族の師弟も、同等の権利を持っている。

 『幸福な社会』に取り上げられる姿は、ロシアの現実のちょうど裏返しの表現になっている。この時期、スマローコフは間近に迫ったエカチェリーナ女帝の治世に、こうした社会が実現すると願っていたのであろうか。君主への提言といった意味合いがありえたのだろう。しかしこの「夢」を読み得たはずのエカチェリーナが、どんな反応を見せたかは不明である。

 翻訳は文集『ロシアのヨートピア文学』(モスクワ大学出版、1986年)によっている。


4. リョーフシンと「ベリョフ市民の月世界旅行」

 ワシーリイ・アレクセーエヴィチ・リョーフシン(1746年~1826年)。モスクワの南の農村地帯トゥーラ県の地主の家に生まれる。18歳から軍務につき、1769年のトルコ戦争に従軍。病気のために文官となる。長編小説や民話、戯曲、寓話を書く。代表作に『恋する男の早朝興行』(1779年)『愛の勝利』(1787年)がある。

 このほかに『携帯用自然史辞典』(1788年)、『家政大全』(1795年)はじめ農業指導書、医事指南書、狩猟に関する案内書なども書いた。翻訳も含む90の作品、190冊にのぼる書物が残されている。

 彼の作品集『ロシア民話集』で初めて民衆の口承文芸ブイリーナ(英雄叙事詩)の英雄たち、アリョーシャ、ドブルィニャが記述文学の世界に紹介された。また著名な啓蒙家ノヴィコフの依頼に答えてドイツ語の文献をたくさん翻訳した。後に『主人と女主人』という文集として全12巻で刊行されている。

 19世紀の国民詩人プーシキンは代表作『エヴゲーニイ・オネーギン』の第7章でリョーフシンに言及している。この韻文小説のヒーローが決闘で友人を死に至らしめ、田舎を去ったあと、ヒロインだけが残される田園に春が訪れる。

心静かな果報者たち
リョフシン学派のひょっこたち
村里のプリアモスたち
それに多感なご婦人
おみたちを春が田舎へ呼んでいる(木村彰一訳)

 訳者はリョーフシンの名が語られることに関する注で「悲劇、小説、ロシヤ説話集その他の多方面な著述のうち、ここでは田園や野菜の栽培を論じたものを念頭においているものと思われる」と書いている。ここで「プリアモス」について訳者がつけている注「五十人以上も子供があったとされる伝説的なトロイアの王。ここでは田園でやすらかな家父長的生活をいとなむ温和な老人の意味で用いられている」もリョーフシンを理解する上で関連があると思われる。どうやら19世紀の初頭にあって、リョーフシンは田園の家父長制を擁護するイデオローグという位置を占めていたようである。

 1793年からリョーフシンはペテルブルグ自由経済協会の書記となり、またイタリアの科学アカデミーの会員に選出されている。晩年はベリョーフ市の裁判官を勤めた。

 『ベリョフ市民の月世界旅行』は「ロシア語愛好家の話相手」1784年に発表された。

 このユートピアは空中旅行という古くからの伝統を踏まえている。古代ギリシャでは神の馬ペガサスに乗ってキマイラを退治したベレロポーンや父ダイダロスの発明した翼で空高く飛んだイカルスの物語が思い浮かぶだろう。

 近くは、本叢書第2巻に収められたゴドウィンの『月の男』あるいは第1巻所収のシラノ・ド・ベルジュラックの作品『別世界または日月両世界の諸国諸帝国』が想起されよう。

 また、ロシアに中世からよく知られていたもう一つの空中飛行物語の系譜を考え合わせる必要があるかも知れない。それはマケドニアのアレクサンダー大王にまつわる伝説である。それによればアレクサンダー大王はグリフォンに乗って空を飛んだという。これは古都ウラジーミルに12世紀に建設されたドミートリイ聖堂の南壁のレリーフにも描かれているという。

 リョーフシンの描くユートピアの特徴を3つの視点から考えてみたい。

 その一つは、これがおそらくロシア最初のテクノロジーの裏付けをもったユートピア文学であるという点だろう。引力や斥力についてのいささか奇妙な議論はともあれ、主人公は8枚の羽根を動かして飛行を続ける。その点では後述する19世紀のテクノロジー型ユートピア文学の出発点であり、娯楽的な読み物の色彩がわずかながら感じ取れるだろう。

 第二に、今のことと矛盾するようであるが、主人公が到着する月のユートピア社会では、農業と牧畜だけが価値ある仕事として評価され、科学は怠け者の暇つぶしであるとしてはっきりと否定されている点である。農学を研究し、田園を愛したというリョーフシンの面目躍如というところであろう。

 原初の無垢なる人々の世界の描写に関しては、これまでもモンテスキューの影響などが論じられている(スヴャトロフスキイ)。また19世紀ロシア文学ではドストエフスキイの『おかしな男の夢』につながる。

 第三に注目すべきは、ここでは皇帝が否定され、家父長制度が擁護されているという点である。この社会を成り立たせているのは愛であり(「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」マルコによる福音書第12章33節)、理想として夢見られているのはロシアの古い農村の社会の理想化されたモデルである。

 とはいえ、ここでも不思議な矛盾を読み取ることはできよう。月の世界から、同じように飛行機械によって地球を訪れた青年クワルボコがそこで出会うのは、エカチェリーナ女帝の支配する君主制のロシアであり、トルコ戦争に勝利して手に入れた土地の栄える姿が夢のように描かれているのである。

 リョーフシンの研究も最近進められるようになった。先の18世紀ロシア文学集『魂についての考察』には、ヴォルテールの「リスボンの災害に寄せて」に関連する彼の論文が収められている。

 翻訳のテクストはユートピア文学集『数百年を超える視点』(モスクワ、1977年)によっている。

 さて、訳出した3つの作品はそれぞれ重なりながらも少しずつ立場が異なっている。ヨーロッパ近代市民社会を強く志向するスマローコフに対して、リョーフシンはロシア農村に残る家父長制を擁護、復活したいと願う。シチェルバートフは近代ロシアを評価しつつも都市型文明を否定し、農村への回帰を語る。スマローコフは科学を積極的に評価し、これに対してリョーフシンは全否定する。

 ところでこの時期のロシア・ユートピア文学を理解する上では、啓蒙君主たるピョートル大帝、エカチェリーナ女帝、そしてペテルブルグという都市の歴史的位置を知ることが不可欠である。次にそれらをロシア史の中に置き直し、イメージの変遷を追ってみることにしよう。


5. ピョートル大帝、エカチェリーナ女帝、ペテルブルグ

 詩人デルジャーヴィンは、1776年、ネヴァ河のほとりにファルコネ作のピョートル大帝騎馬像が完成する前年、このように歌っている。

ロシアよ、栄光に包まれ
視線をどこへ向けても
いたるところ喜びに沸き立ち
いたるところピョートルの偉業が目にはいる
風よ、我らが声を天に運べ
汝は不死なり、偉大なるピョートルよ!
彼は我らが古の闇に打ち勝ち
深き夜に科学を打ち立てた
闇に灯明を点し
善き精神をもたらした
風よ、我らが声を天に運べ
汝は不死なり、偉大なるピョートルよ!
神の如くに、偉大なる神意によって
彼は自らすべてを眺めわたした
奴隷のように、未曾有の努力によって
彼は自らすべてを実行した(……)

 多くの18世紀ロシア詩人たちにとって、ピョートルは偉大な啓蒙君主であり、彼によって建てられたペテルブルグは、いわば<実現したユートピア>だった。スマローコフもまた、「大帝の手によって、ネプチューンの猛々しい力から切り離され、この都、静謐の舎は打ち立てられた」として「北方のローマ」を歌っている。彼らの頌詩はそのままにユートピア文学でもあったのである。

 ロシア18世紀はピョートル大帝の諸事業とともに幕を開ける。

 少年時代から活発で知識欲にあふれ、遊び好きだったピョートルは、いつも徒歩か簡単な乗り物に乗って旅行し、遊技連隊を作って戦争ごっこに励み、天体観測機を使いこなした。

 1697年にアゾフを陥落させた時も、花火を上げ、イルミネーションを飾る一大ページェントを催したという。スマローコフの夢の国の君主が「時には気晴しに精を出す」というのもこうしたピョートルの性格を下敷きにしてうるのだろうか。さてピョートル大帝は1697年に250人からなる使節団を引き連れてオランダやイギリスを歴訪。造船技術をはじめ工業、鉱山、博物館など西洋文明のあらゆる側面を視察し、諸国からたくさんの技術者をロシアに連れ帰った。彼は1700年1月1日以降紀元をキリスト降誕におくことに決めた。こうしてピョートルの欧化政策は開始された。ピョートルは1709年にポルタワでスウェーデンを破り、またネヴァ河河口の沼地に、数千人の犠牲者を出しながらも「西方への窓」ペテルブルグを建設した。14の官等からなる官僚組織を整備し、教会を管理下に置くなど、近代国家としての基盤を作った。

 シチェルバートフの「オフィル国」の歴史はこうしたピョートルの事蹟を踏まえたものである。

 ピョートル讃歌の系譜は19世紀初頭までたどることができる。ヴャーゼムスキイの1818年の頌詩「ペテルブルグ」では<ピョートルの精神とエカチェリーナの知恵>がこの都を作ったとされる。

我は見る、奇しき、偉大なピョートルの都
ピョートルの思いによって沼のなかから打ち建てられた都を
その力強い栄光の記念像は
子孫たちによって百たびも飾り立てられた(……)

偉大な、輝かしいネヴァよ
自然の悪を抑えようと
誰の声が、あの山なす永久の巌を遠い荒野から
切り出し、運び来たのか
北の頂の河岸の固めに敷き詰めようと
誰が岸辺に貪欲な翼を持つ貿易船を呼び寄せたのか
誰が、富を満載した商戦を昼夜分かたず
わが国の岸に呼び寄せたのか
古のカスピ海を若きバルチック海と結び合わせたのは誰か
かの偉大なるピョートルの精神とエカチェリーナの知恵とが
幾世紀にもわたろうという難事業を僅か1世紀で成し遂げたのだ

 ピョートル大帝の死後、ロシアは再び混乱の時代を迎える。帝位の継承さえも無秩序な状態となって(リョーフシンの指摘するとおりである)、政府高官や軍人たちが勝手に皇帝を選ぶような時代が続いた。

 エカチェリーナ2世は北ドイツの小貴族の家に生まれた。1745年ロシア皇太子ピョートル3世と結婚し、62年の宮廷クーデターで即位。在位は1762年から96年である。疲弊していたロシア社会を短期間のうちに立て直した。

 外交ではポーランドやロシア・トルコ戦争に勝利し領土を大きく拡大した。リョーフシンが「一人の偉大な女性がトルコ人の傲慢な行いを懲らしめた」というのはこの戦争をさしている。戦争の結果、1783年にロシアはクリミア半島を手に入れた。リョーフシンの描写するのはやはり実在の、ロシア領となったばかりの地方の、理想化された姿であろう。

 女帝の治世の前半はモンテスキュー『法の精神』などをもとにした「エカチェリーナ訓令」(67年)を起草するなど啓蒙君主しての手腕を発揮し、ヴォルテールなどとも文通した。ボリショイ劇場を作り、エルミタージュ美術館の基盤を作った。しかし73年のプガチョフの反乱、89年のフランス革命などの経験から晩年は保守化した。デルジャーヴィンによる『頌詩・フェリーツァ』(1783)をはじめ女帝を賛美する作品も数多く書かれた。

 作家ドストエフスキイは19世紀半ばにピョートル大帝を「ロシア人がどれほど精神的に自由になりうるか、その意志はどれほど強固でありうるか」の好例であると言っている。18世紀ばかりではなく、19世紀にいたるまで、ピョートルあるいはエカチェリーナをめぐる評価をめぐっては多くのロシアの思想家、文学者が発言し続けている。

 プーシキンはやはりピョートル大帝の騎馬像をモチーフとして『青銅の騎士』を書いている(1833年)。そこでは多くの18世紀詩人たちの頌詩が引用されると同時に、洪水で沈みゆくペテルブルグが幻視され、破滅のヴィジョンが語られている。この転換を経て、ゴーゴリは『ネフスキー大通り』(1835年)で「ここではすべてが偽り、すべては夢のまた夢」と書く。(ロシア文化の中のペテルブルグの意味については現代にいたるまでの展開を語る周到な研究書が出ている。大石雅彦著『聖ペテルブルグ』[水声社、1996年])

 19世紀になって「ピョートルの西欧化政策はロシアを分裂させた」との認識が広まり、ドストエフスキイもまた「ロシアの正常な発展はピョートル大帝によって暴力的に破壊された」「ロシアには文化がありません。ニヒリスト・ピョートルのおかげで、文化が根こそぎにされたからなのです」と言う。革命運動のグループの内部で実際に起こった謀殺事件を題材とした『悪霊』(1872年)で、ドストエフスキイは首謀者に「ピョートル」という名前を与えるのである。

 近代ロシアを通じて、このような劇的な評価の転換を経ることになるピョートル大帝をはじめとする啓蒙君主たちの事業に対して、おそらく最初に疑いを抱き、文明論的批判をくわえたのがシチェルバートフだったのである。

 西欧文明と近代市民社会に惹かれ、これを摂取実現するという方向と、古きロシア社会と文化の意義に目覚め、自覚するという方向とは、ただユートピア文学というジャンルばかりでなく、近代ロシアの思想、文化の全体を貫くアポリアであったと言えるだろう。


6. ロシア・ユートピア文学の3つの流れ

 1824年に書かれたブルガーリンの『ありそうな夢物語または29世紀世界旅行記』の冒頭、主人公たちは小舟でピョートル大帝の偉業を語り合い、未来の人類が完成にいたるかを論じている。と、突風が巻き起こり、小舟はあっと言う間に転覆し、気づくとちょうど1000年後の世界へ来ている。ここはシベリアの都市ナジエジジン(希望)市である。地球内部の熱を移動させることにより、北シベリアは熱帯のエルドラドとなり、逆にインドやアフリカは寒気に震えている。建物は鉄で作られ、集中エアコンディション、ガス・システムが完備し、自動制御カーが軌道を走り、飛行機械が鋼鉄の塔から発着し、携帯用ロケット、潜水艦、海中牧場、テレビ、月への移民、共通語が実現している。こうして現代のテクノロジー社会を予言した文明の中で<啓蒙された人々>の生活が楽しげに語られていく。当時の読者が楽しんで読んだ様子が目に浮かぶ。

 すでに翻訳のあるオドエフスキイの『4338年』(深見弾編『ロシア・ソヴィエトSF傑作集』創元文庫)などもこのテクノロジー型をユートピア文学である。こうした<理性・科学・都市・進歩>をメイン・テーマとする<西欧市民社会志向型>のヨートピアの系譜は20世紀にいたるまでロシア文学の中にたどることができる。これに対して<愛・反科学・反都市・古層への回帰>を中心とする<ロシア共同体志向型>のユートピア・ヴィジョンも、リョーフシン以後にドストエフスキイ『貧しき人々』(1846年)からゴンチャローフの『オブローモフ』(1859年)などへとたどることができるだろう。

 また、19世紀から20世紀のロシアにはもう一つのユートピア・ヴィジョンを観察することができる。それはオドエフスキイの1828年の作品『地上の最後の2日間』に発する系譜で、ここでは人間は物理的な変化を遂げ、まったく新しい質を獲得して宇宙の意志と融合する、というヴィジョンが提出されていた。<超人志向型>とも名づけるべきこの第3のタイプは、ドストエフスキイの『悪霊』のキリーロフ像を経て、スホヴォ・コブイリンの飛ぶ存在への変容の夢までを追うことができる(詳しくは小論「ロシア近代文学におけるユートピア・コードと終末のコード」[「ロシア語ロシア文学研究」第19号、1987年]を参照)。

 ロシアはユートピア的想像力の宝庫である。あるいはロシア革命さえ、ユートピア実現の、もう一つの壮大な実験だったのかもしれない。とすれば、社会主義リアリズムもまたユートピア文学の一つのヴァリエーションとして捉える視点が必要なのでもあろうか。

 過酷な現実に立ち向かって生み出されてきた様々なヴィジョンは、むしろロシアの現代を考える上で今こそ改めて検討されるべきものであるように感じられる。

『ユートピア旅行記叢書9』(岩波書店 1998年9月)ロシア編


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