■今も絶えない新たな“発見”■
ドストエフスキイ『罪と罰』 br>
60年安保は過ぎ、全共闘の時代はまだ来ない。そんな時期の高校生だった私は、大江健三郎の『性的人間』を読み、カミュやサルトルから「生きる深い理由は一切欠如している」ことを教えられていた。人生からも社会からも疎外されているという感覚。ある日『罪と罰』を偶然読んだ。意識の堂々巡りから救済される予感がした。もしもドストエフスキイがイタリア人だったらフィレンツェに行っていただろう。私はペテルブルグに向かい、ラスコーリニコフの部屋のモデルとされる石造りの建物から運河沿いに730歩、金貸し老婆の家まで歩いた(それがフリーメーソンの神秘の数字と関わること知るのはずっと後のことだ)。私は街角で聖なる娼婦と出会うことを夢見た。
その後自分で訳すことになって、小説の冒頭を読み直し、確かに若者の焦燥感に満ちた日常生活の感覚がいわば触感を伴って書かれていると、改めて舌を巻くことになる。
最近はインターネットのホームページを使って、レンブラントやチチアンの聖書モチーフの絵画をリンクさせながらこの作品を講義している。するとまた新しい発見があった。この作品では<生-死-復活>という物語の中に、ロシアを含むヨーロッパ宗教文化の多様な要素が、あたかも嵌め絵のように緻密に織り込まれている。作家はここまで計算しているのかと、立体的に構築された芸術作品の<構造的な美しさ>に感動する。
読み手の年齢や興味に合わせて次々に幾つもの姿を見せてくるこの作品、明日は誰に、何を語るのだろうか?
「読売新聞」(1998年9月6日付「私の古典」欄)