戻る
このページのトップへ
ホームへ


● 佐井好子は1953年6月22日、奈良県南部に生まれる。佐井好子は本名。小学生のころから絵を描くことが好きで、やがて読書と絵画を趣味にする少女に育った。中学、高校時代は受験のため読書をする時間は少なかったようだが、『江戸川乱歩はだけは何故か読んでいた』という。

● 中学時代はコーラス部に在籍。高校時代には当時流行していたフォークバンド「赤い鳥」に憧れて男3人、女2人のバンドを組んでいたこともあるが、特に音楽に傾倒することはなかった。1972年に京都芸大を受験するも"落選"、京都の同志社大学法学部に入学する。しかし同年5月より腎臓を患い、約1年間の闘病生活のため安静を強いられる日々を過ごすことになる。『この時期に著名な作家の本はほとんど読んだが、病気のためか暗い小説を読んでいると落ち着いた』ようで、主に小栗虫太郎、橘外男、夢野久作、久生十蘭、横溝正史といった怪奇幻想小説を多数読破。このことがその後の彼女の作詞に大きな影響を与える。

● 退院後、詩を多数書き溜め、『歌にすれば1度に多くの人に詩を聞いてもらえる』と思ったことから、そばにあったギターで曲をつけるようになっていった。1974年、いくつかのラジオ番組などのコンテストに応募した後、すぐに中山ラビのコンサートで前座をやらないかという話が舞い込む。そのステージ終了後にはテイチクを含む2社からオファーがあり、彼女は結局テイチクと契約、1975年5月にファーストアルバム「萬花鏡」を録音する。アルバムは1975年8月25日に発売された。プロデューサーは大野雄二、エンジニアは伊豫部富治。






● 1976年7月25日にセカンドアルバム「密航」を発表。この作品は彼女の感性のルーツ的な部分を占める「シルクロード」をベースに、ある種の意識の航海を描いたトータルアルバムと言える。編曲は大野雄二からクニ河内に変更されているが、エンジニアは伊豫部が前作同様担当している。

● 1977年、レコード会社を日本コロムビアに移籍、同年9月25日、サードアルバム「胎児の夢」を発表。夢野久作の作品イメージを楽曲に活かした幻想的なアルバムとして、話題になった。同年、日活映画「夢野久作の少女地獄」の主題歌を担当。バックサウンド担当はコスモス・ファクトリー。10月1日には婦人生活社より、詩集「青いガラス玉」を発表。

● 1978年12月25日、4枚目のアルバム「蝶のすむ部屋」発売。山本剛トリオをバックにジャジーなサウンドを聞かせた。このアルバム発表直前に佐井好子はインドを旅し、『自分の気に入る曲ができなくなった』ことから、1979年以降、音楽活動を休止する。





● その20年後、1999年10月25日、SFC音楽出版(現ウルトラヴァイヴ)より、佐井好子のアルバム4作品が、2枚組CD2種類の形で再発される。

● 2001年8月、CD版のライナーノーツ執筆を縁に知り合ったJOJO広重と共に、大阪のスタジオで即興によるセッション演奏を録音。この日の録音は「JOJO広重 featuring 佐井好子/crimson voyage」として、同年10月25日にアルケミーレコードより発売された。

● 2003年12月10日、アルケミーレコードより、詩集「青いガラス玉」が新装して復刻発売された。ボーナスCDには、日活映画「少女地獄」の挿入歌"暗い旅"の完全版、デビュー前のポプコン応募曲など、未発表テイク4曲が収録された。




● 2003年12月11日〜23日、大阪市中央区西心斎橋の複眼ギャラリーにおいて、「詩集・青いガラス玉復刻記念・佐井好子レトロスペクティブ」と題された、佐井好子初の個展を開催。「胎児の夢」ジャケットの原画など10点、滝垣内剛氏のイラスト10数点が展示された。


● 2007年1月、都内のスタジオで新作のレコーディング。JOJO広重、山本精一、柴山伸二、早川岳晴、芳垣安洋がバックをつとめる。2008年2月2日、新作アルバム「タクラマカン」(P-VAIN・PCD-26021)リリース。旧作4作品も紙ジャケットで再発。

(文責・JOJO広重)