30. Jan. 2000

 私が今奨学金をもらっている、アレクサンダー・フォン・フンボルト財団からの新着情報です。
 このほど今までの奨学金に加えて、日本の若手法学者のために Gerd Bucerius-Stipendium der Zeit-Stiftung ができました。私が見て新しいなと思った点は、

 1. 年齢制限 35歳まで、例外も認める(従来の枠では40歳)
 2. ポストがあれば博士号は不要 と明言
 3. ドイツ語の知識も不要で、6か月までの研修が可能(従来の枠では必要)
 4. これまでにドイツに留学したことのない人(元 DAAD 奨学生などは除かれる)

です。受給期間は6-12か月ですので、たとえば語学研修4か月プラス受給8か月とか、6か月プラス12か月とかいう組み合わせが可能。額は月3600マルクです。年間2名の枠ですが、近年アメリカ等に人気を奪われているドイツに法律分野の留学生を引き戻そうという試みなので、じゃんじゃんトライしてみてください。
 詳しくは、以下のホームページをご覧になり、直接お問い合わせを。詳しい募集資料を送ってもらえるはずです。
 ドイツ語 英語


  19. Jan. 2000


 あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 この冬休みはケルンで過ごし、ドイツのクリスマスと年越しの様子を見ました。
 同世代のドイツ人にとってクリスマスは日本のお正月と同じで、家族水入らずで過ごすこととされています。したがって普段遊んでくれる友達がみな実家に帰ってしまって誰も周りにいません。外国人はヒマ、ということになるのですが、両親と共にドイツに移住してきたポーランド人の学生さんが、"聖夜に戸を叩く者は迎えられる" と言ってイブの日の家族のお祝いに招いてくれました。法王の国の人らしく敬虔なカトリックの信者です。肉の入らない伝統の夕食や、"パン" を食べながら相互に幸福をお祈りする習わしも教えてもらい、プレゼントとウォトカを大量にいただいて帰ってきました。それから、ケルン大聖堂の深夜のミサを見に行きました。何の掲示もなく公共交通機関がストップしているので、イスラム教徒のタクシーの運転手さんたちが大活躍です。彼らがいなかったらクリスマス期には街が機能しないのではないか? と思いました。ミサそのものには、観光客が多く来ており、私も気が楽でした。
 大みそかには日本人・ドイツ人の友人と、ライン河畔であがる花火を見に行きました。あんなに怖い思いをしたのは久々です。ケルン市があげている花火はきれいで良かったのですが、みな勝手にそこらじゅうで花火を打ち上げ放題、爆竹鳴りまくり、ビン割れまくり、死傷者出まくりです。暴動のようでした。

 本日のテレビ出演について
 今日、ケルン大学のマインケ学長が外国人研究者・留学生を招いて行う恒例の新年会がありました。それを契機として、西部ドイツ放送が "ローカルタイム・スタジオケルン" なる番組で、ケルンの外国人研究者・留学生に関するリポートを放送し、それに出ました。数分間ですが、私の単独出演です。
 そもそも、話が来たのが一昨日で、昨日の午後予定を決め、当日の今日収録、という慌ただしいスケジュールでした。内容は、たくさんの外国人を受け入れているケルン大学における実際の研究生活の一例を紹介するというものです。学生だけでも 6000 人が留学しているというケルン大学でなぜ私に白羽の矢が立ったのか、よくわからないのですが、おそらく、番組制作側の打診を受けた留学生課の W女史が、私のことを推薦してくれたのではないかと思います。何しろ、差別が少なく明るい雰囲気を売り物にしているケルン市、ケルン大学のことですから、母国のスタイルを保ちつつ楽しげに留学生活を送っている高山さんがぴったり、ということになったのでしょう。
 放送されたカットは、ドイツでも家で和食を食べている高山さん、研究室の高山さんと、ビアホールの高山さんで、インタビューの内容は、ケルンが外国人にとってすごしやすいことと、カーニバルを楽しんだことに関してでした(ドイツ語にミスがあったのが恥ずかしいのですが)。快適なケルンライフを満喫している私の姿をよく伝えていたと思います。没になったカットもいくつかありましたが、日本に比べて "やらせ" の度合いが低く、思い出に残る面白い経験になりました。2年間のうちに、本当にいろいろなことをしたものだと思います。


  6. Dez. 1999

 12月になり、留学期間も残り4か月を切りました。こちらであまりに楽しそうに暮らしているためか、最近、"帰るの〜?" と非難がましく言われることがよくあります。あたしゃ、帰ります。日本から逃げるためでなく、日本に何ごとか持ち帰るために留学しているわけですから …。ホームシックになったことは一度もありませんが、ドイツにずっと残りたいと思ったことも一度もありません。それに、私は日本でも楽しく暮らしていたんですよね。
 とはいえ、友人たちに "滞在を延長できないの???" とか、"またドイツに来たときはウチに泊まんなよ" とか言ってもらえるのはありがたいことです。私はつくづく恵まれていたものだと思います。

 先月、休日に独りでルクセンブルクにふらっと行って、ヨーロッパ裁判所の建物を見てきました。この国ではフランス語もドイツ語も英語も使われているのですが、では、人々が普通にしゃべっているのは一体どれか? … 答えは、ルクセンブルク語でした。ドイツ語と似て非なる言葉です。わがカーニバルの公用語であるケルン語や、リセ成城のあるアルザスの言葉もそうなんですが …。聞いているとわかったようなわからないような、不思議な気分になります。
 日本では経験できないのが、このように列車で国境を越える旅です。成人するまで外国に行ったことがなかった私には、考えただけでもわくわくするような未知の世界です。初めてドイツのアーヘンからオランダのファールスに歩いて渡ったときの感動は忘れられません。ケルン駅に出かけ、予約なしでウィーン行きの夜行列車に飛び乗ったこともあります。そこからプラハへ。あるいはベルリンからポーランドへ。
 そして国境の町の人々は、国際的です。いろいろな言葉ができて、よその文化に対する偏見が少ないように思います。こういう所では、お料理やお酒が特別においしかったりして、ますます心ひかれるのでした。

 どうでもいいことですが、こちらで "End Of Days" という映画が公開されています。主演の俳優さんの名前は "シュヴァルツェン/エッガー" とされています。"日本ではシュワルツェネッガーなんだけど" と言ったら、友達に大笑いされました。彼がオーストリアの出身だということも、私はちっとも知りませんでした。オーストリア人の一般的イメージ(たくましいというより優雅)からかけ離れてませんか? そういえば以前日本に旅行した別の友人が、"シュワちゃんだって、ぎゃはははは" と爆笑していたこともあったような気がします。


  9. Okt. 1999

 ドイツ滞在があと半年となり、やることがいっぱいありすぎて大変です。
 新しい写真を載せてみました。撮ってくださった先生方ほかのみなさん、ありがとうございました。

 ときどき、私の著書を買ってくださったという方があります。あんなに高いのにホントに恐縮です。厚く御礼申し上げます。


  19. Juli 1999

 週末、フィンランドにいました。
 日本人とフィンランド人とは親戚のような気がして、子供のころから一度訪れたいと思っていました。案の定、フィンランド語はさっぱりわかりませんでした。

 ラップランドの玄関口、ロバニエミという町はちょうど北極圏の限界上にあり、サンタクロースが働いています。サンタ氏に会うのが主たる目的ではなかったのですが、しっかり一緒に写真を撮ってきてしまった…(ほとんど、ダライ・ラマを見ているような気分でした)。
 そこからさらに約300km北上して、イバロという町を訪ねました。白夜を体験するためです。昼の明るさと夜の静けさとが同居する、不思議な感覚を覚える町でした。真夜中を過ぎると、風が止み、湖に流れ込む川の水面が鏡のように向こう岸の草木を映します。
 北極圏は寒いのかと思っていたら暑くて、イバロの気温は30度ぐらいでした。理由はかんたん、夜が来ないから。

 それにしても、国道上でトナカイが歩いているのに遭遇したときは、"悪い冗談はやめてくれ〜" と思いました。結局3回も出くわしてしまった… トナカイさんはもっと大きい動物なのかと思っていましたが意外と小さくて、シカぐらいしかありません。おとなしくてとってもかわいいのです。
 フィンランド人も、あまり大きくありません。ハッキネン顔のずーぱーSEXYなオニーサン達やスナフキンがいっぱいいました。女の子はミムラ姉さん系でかなりプリティです。そしておじさんやおばさんはお酒が好きで、酩酊状態でカラオケに熱中していました。ドイツでは大して流行ってないのですが。やはり日本人の親戚だったか。


  4. Juli 1999

 今日は、年に一度の同性愛者のお祭り、Christopher Street Day '99 を見に行ってきました。もともと市民権運動に端を発するそうですが、今ではカーニバルに次ぐ大きな催しになっており、たくさんの山車が出ます。ケルンばかりでなく、ドイツ中から、あるいはオランダなどの外国からも同性愛者や支援者の団体が集まり、それはそれは賑やかです。パレードのテーマカラーは虹色、まさにカーニバルのごとき華やかなコスチューム(または革、ラテックス、網)に身を包んだ美男(女)・美女(男)。またドイツ国内のギリシャ人、トルコ人やユダヤ人の同性愛団体もありました。観客の中にも同性愛カップルが非常に多かったのですが、そうでないケルン子もこれらの団体に声援を送っており、私はこの町のオープンな雰囲気を改めて誇りに思った次第です。りりしい女性のウインクにどきっとする場面もありました。プラカードには同性結婚や妊娠中絶を認めようという主張が多かったです。面白かった文句は、"わたくし通りすがりの者です"。
 それにしても、ケルンのひとびとはお祭り好きだ…。まだ続くストリート・フェスティバルを尻目に、乗り込んだ帰り道の満員の路面電車の中でも、みんな知らない人同士で笛を吹いたり歌ったりして盛り上がっておりました。ケルンのカーニバルの歌には "空に掲げて手を叩こう、誰も独りじゃないさ" という歌詞のものがあり、非常時の協力を呼びかける市の広報にも使われています。ここでは外国人も同性愛者も関係なくみんな一緒に踊り騒いでいるというわけです。

  21. Juni. 1999

 けるんサミットのレセプションに出席して
いました。私も。18日の金曜日です。といっても何で自分が招待されたのかいまだによくわかってません。市庁舎の入口に至るまでに3回もパスポートチェックがあったし、入口では名前を名乗って主催者側の人と握手するんです。名乗るような者ではないのに。中に入っても、他の客員研究員や大使館の人は発見できず、私を推薦したはずのフンボルト財団の理事長や事務総長の姿もありませんでした。顔見知りといったらケルン大のマインケ学長と日本文化会館の坂戸館長しかおらず、おろおろしていたところ、日本の某県から来ているいちばん偉いひとびとが声をかけてくださいました。気さくな方たちだと思いました。私はただの学者なのにこんな所にいていいのか???
 時間になると各国の首脳が入場してきました。それにしてもクリントン大統領の人気はすごい。彼が歓迎の聖シュテファン教会少年少女合唱団に突然乱入して歌ったり踊ったりしていた所に私もいたんです。
 報道関係者の数にも圧倒されました。参加者よりずっと多かったんじゃなかろうか。
 レセプションの後私は「日本のものが食べたい」とごねていた在日某国総領事にお寿司をごちそうしました。でも彼が食べたかったの寿司ではなかった。

  4. Juni 1999

 初めて伯林 Berlin に行きました。フランスにパリ、イギリスにロンドンがあるように、ドイツにはベルリンがあったのだ!!! とすっかり感動して帰って来ました。
 何しに行っていたかというと、まずフンボルト財団の奨学生の会合に参加するためで、その後は DAAD の日独セミナーにも出ました。フンボルトのほうは物見遊山みたいなもので気楽でしたが、DAAD では勉強させてもらうことばかりで、恐縮してしまいました。全部の研究発表をできれば聞きたかったです。私も研究発表ではないけれど一応しゃべったので緊張しました(多分緊張しているようにはとても見えなかったことでしょう、でもまだドイツ語を人前で話す機会はあまりないんです)。

 これらの会合と土日と祝日をくっつけて、約1週間ベルリン滞在を楽しみました。いちばん気に入ったものは、地ビール Berliner Kindl のマークになっている子供の絵です。まぁ、毛のあるキューピーがジョッキの中に入ってるといった感じでしょうか。あまりにかわいいので、あちこちで Kindl のグッズはないかと探したのですが、"見たことないね〜" とおみやげ屋さんの人々も言うのです。コースターについている絵や缶、びんは不十分なので、KIOSK のおじさんに頼んで、缶が1ダース入っていた段ボールの絵を切り抜かせてもらってきました。売り出せばいいのになぁ。従来のベルリンのマスコットといえば、くまと信号の人。信号の人は信号の中で立っている赤い人と、歩いている青い人なのですが、旧東ベルリンではこれが帽子をかぶっていてかわいいので、保存運動があったとのことです。

 知らんうちにフンボルトの日本人奨学生の間ではベルリン単身者の会が組織されてしまったらしい。よく考えたら、ベルリン以外にいる人ってほとんど全員ご家族連れぢゃないですか。私もカレーパーティーに行きた〜い!
 また遊びに行きます。


  21.Mai 1999

 ドイツ刑法学会を見に行って来ました。今まで本や論文で名前を知っていただけの先生方がナマの人として目の前にいるので、何か恐竜が歩いているのを見るようでした。
 宮澤浩一先生(慶應 -> 中央大)がドイツの先生方に紹介して下さった。単にありがたかっただけでなく、先生がこれまで学術交流に果たしてこられた役割と努力の大きさを現実のものとして認識しました。アルツト教授の報告にもありましたが、ドイツでは刑法といえども国内法だけを考えていればよい時代はとうに過ぎ去り、今は何事もヨーロッパの枠組みで論じることがあたり前、さらには英米法との関係、世界の中での法のありかたを念頭に置く、というように視点が移り変わってきています。日本の刑法学も、ドイツ法の恩恵にいつまでも子供のように甘えていてはいけないと思いました。世界の中で何ができるか考えよう。

 自分が何をしたか ->  Dr.ローゼナウ@ゲッティンゲン大学 に踊ってもらってすっかりご満悦状態。いつかまたお手合わせ願いたいものです。ほかの若手もみんな、いかにも将来の教授、といった感じの気品を漂わせていて、私は自分を恥ずかしく思ったことであるよ。

 踊りといえば、ここケルンでは、周防監督の映画「Shall We Dance?」が公開され、私の周りのドイツ人の間では評判になっています。社交ダンスに対する認識がドイツと日本とで全く違うのはともかくとして、竹中直人の演技がすごい!とみんな言ってます。ちなみに氏は成城学園には父兄としてみえたこともあります。
 成城学園が2年も留学させてくれたおかげで、2年に一度の刑法学会にも参加できました。ありがとうございました。


  27.Apr.1999

 アレクサンダー・フォン・フンボルト財団の集会でソウル大学の民法でいちばん若い教授と知り合いになってしまいました。金星かも。数年後に来日を希望されてるそうなので、日本でも再会できたらいいな、と思っています。
 今回のボンでの集まりには39か国から120人の若手研究者が参加していましたが、Prof. でも Dr. でもなかったのは3人のみ。私以外の2人は、ブラジル人とアメリカ人でともにお医者さんでした。

 人文科学系統はもちろんのこと、社会科学系の先生方の中にも、ドイツ語の本当に堪能な人がいて、刺激になりました。刺激になったといえば、わがケルン大学で目下シュトックハウゼンを講義しちゃってる清水先生に最初にお目にかかったときにも "こいつすげ〜" と仰天したものです。私とあまり歳も違わないのに… こういう人を雇っている同志社もすごい。


  20.Apr.1999

 皆さまからのメールにて、拙著の刊行を知った私です。本人はまだ現物を見ていません。いやはや、どうもありがとうございました(何のことやら)…。
 でも、値段が高いので、誰にも買えないかも。

 このページを5か月間も更新していなかったので、"死んでるのか?" という苦情をいただいておりましたが、生きております。××××、×××××××××××。×××××××。
 また書きます。