私って商売もできるんだなって思ったのがきっかけ


私って商売もできるんだなって
思ったのがきっかけ…


米本百々子(H21.3.24逝去81歳)
(昭和3年生まれ)
 ヨネモト

 

 晴海通りに面したコーヒーショップ「ヨネモト」の店内は、築地で働く人から買い物
客まで、いつも老若男女でにぎわっている。「ヨネモトのコーヒー飲まないと始まら
ない、終わらない」というおいしいコーヒーに加えて、マスターの米本謙一さん一家
の明るいアットホームな雰囲気も大きな魅力である。


 昼すぎからカウンターに立つのは、謙一さんの母、米本百々子さんである。78歳
とは思えないほど、若々しく、モダンな女性。とても気さくな人柄なので、カウンター
に腰掛ける常連のお客さんとの会話もはずむ。


 ヨネモトは昭和35年、専業主婦だった百々子さんが嫁ぎ先の果物屋の隅でパン
の販売をしたのが始まりである。そのきっかけは、なんと少女時代にまでさかの
ぼるのかもしれない。話をうかがうと大いにうなずける。人生とは、偶然の点の積
み重ねではなく、一本の線でつながっているのではないかと思われるほど、百々
子さんが駆け足で語った半生は、いつか読んだ何かの小説を思い起こさせるよう
で懐かしい気がした。


 百々子さんの実家は大森で鮮魚店を営んでいた。女学校を卒業していすゞ自動
車で秘書の仕事についたが、ここで後に夫となる米本清之助さんと出会うのであ
る。その話は後述するとして、戦時中の思い出は、昭和19年に小学6年だった弟
たちの学童疎開の寮母として富山県氷見市の寺で生活したことである。
「親は死んでもいいからおまえたちは生き延びろ」とは当時の親たちの切実な気
持ちだったのだ。近所の人たちに「百々子さんが子どもたちといっしょに行ってく
れるなら安心」と言われ、百々子さんは「わたしは姉さんなのだ。この子たちの面
倒を見よう」と心に決め、子どもたちといっしょに氷見市へ向かった。寺小屋で
は、小学6年の学童28人の受け持ちになり、勉強を教えたり、まきを運んだり、洗
濯したりという忙しい生活だった。翌年3月に6年生は卒業というので東京へ帰っ
たが、百々子さんは5年生といっしょに氷見に残った。そして4月、京浜地区が大
空襲により、大森の焼け野原と化したのである。このとき実家も焼けてしまったの
だが、富山にいた百々子さんには家族の無事を知るすべもなかった。
「わたしは富山にいて、一時、家族とは音信不通になってしまったのね。日本はお
しまいかな、天涯孤独かなと思いました。2カ月後、東京で怖い目にあった3年か
ら6年までの子どもたちがこちらに来ました。3年生なんて、あまりにも小さくて涙
が出たわよ。この子たちを死なせないぞという思いで、1年くらい一緒に生活して
いました」


 終戦後、富山から大森へ戻ってまもなく、蒲田の駅でいすゞの上司とばったり会
った。「また、うちにおいでよ」と声をかけられ、再びいすゞへ。そこへシベリア抑留
となっていた米本さんが無事に帰還し、いすゞで再会することになるのである。こ
れが縁で二人は結婚することになるのだが、その矢先に父親が脳 溢血で急死。
主を失った魚屋を一時は閉めようと思ったが、百々子さんは弟といっしょに切り盛
りして営業を続けた。
「自転車で仕入れに行って、弟は大森の駅の向こうまで魚を売って歩いたので
す。父が死んで同情してくれたのね。みなさんが来てくれたおかげで店を続けるこ
とができたのよ。暮れに正月用品の注文をとって、弟にお得意さんを回らせまし
た。ここで、商売は面白いと思ったのでしょうね。夫も実家にいていいということに
なり、4年ほど実家にいて手伝ったのよ」


 話は前後するが、現在地のヨネモトが誕生するきかっけは戦前に遡る。百々子
さんの夫の清之助さんの父は京橋の大根河岸で運送店を開いていたが、昭和10
年、市場の築地移転に伴い、運送店も築地へ。そして自宅は湊町へ越したのだ
が、戦時中に区画整理があったため、現在地の周辺に土地を探していたところ、
大家の昆布屋さんが「借家が空いていて物騒だから、留守番がてら入ってくれ」と
言われて移り住んだのが現在地。1階に四畳半と台所、2階には4部屋。百々子
さんが嫁いだころには、運送会社を定年退職した義父は果物を売っていたとい
う。


 小学校に通うようになった長男の謙一さんが「パンを食べたい」と言った。しか
し、近所にパン屋さんはなかった。ふと思いついたのが、果物を売っている店先
のほんの一部分で「パンを売ってみよう」だった。利益は考えないで、主婦業をし
ながら販売できるというので、パン屋さんに注文すると配達してくれた。百々子さ
んは店頭でパンを売り始めた。あんぱん、ジャムパン、コロネ、クリームパン、メロ
ンパン。これが見事に当たった。
「パンが面白いように売れて、楽しくてしょうがなかったわ。ドックパンにキャベツと
揚げたカツをはさんだカツサンドをつくって店に出したところこれもすぐに売れた
のね。揚げパンアンパンだけで100個も売れましたよ。午前中に売り切れたわね。
まだ、お弁当屋さんがなかった時代だったのでパンは重宝したのよ。二人目の子
どもをおんぶして接客していました」


 小学生の謙一さんが登校前の早い時間に、ジャムやバターを塗ったコッペパン
の入った大きな袋を二つぶらさげて、近所のお得意さんに配達したという微笑まし
いエピソードもある。
やがて、大学卒業をひかえた謙一さんが「おふくろが一人でたいへんだから店を
手伝うよ」と言い出した。百々子さんは驚き、「社会に出なさい」と勧めたが、息子
の意志は固かった。喫茶店も始めた。
「あとは息子にまかせることにしたの。主人もいすゞを辞めて店を手伝うようになっ
たし、息子が結婚して夫婦で店に出て、家族で盛り上げていったのよね」


 現在の「コーヒーのヨネモト」のスタイルにしたのは22年前である。そのころ400
円くらいのコーヒーを200円という安価で提供するという大冒険。いまでこそ、安い
コーヒーショップは氾濫しているが、それのはしりだった。お客さんが「200円にし
たらやっていけるのか」と心配してくれたが、安くて おいしいコーヒーに人気集中し
た。
「私は父に死なれたあと、魚屋を自分でやってみたら、あら、私って商売もできる
んだなっていう気になったのね。だから、結婚しても自分は何かできるのではない
かと思ったんですよ。果物屋の店先のほんの一角でパンを売ってみて、あんなに
売れるとは思ってもみなかったわよ。いい経験でした」


 淡々と語る百々子さんは、「いまね、うちの孫娘が手伝いに来ているのよ」 と顔
をほころばせた。

                         (平成18年 龍田恵子著)
 

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