流れ星

 流れ星の夢を見た。
 夢それ自体の具体的な内容はおぼえていないし、いつ見たのかも忘れてしまった。ただ夢のなかで流れ星を見たのである。
 あ、流れ星だ――夢のなかでちょっと驚いて、ちょっとうれしくなって。もしかすると、目が醒めたときすでにそうした気持ちのほうが大切で、夢自体の内容や主題は関係なくなってしまっていたかも知れない。
 瞬くよりも素早く輝いて消える、か細い光の筋、その淡い存在感はそれ自体が夢そのものであるかのようだ。目醒めたときにも夢と現実のあいだを意識が行き交っていたのではないだろうか。すごく不思議な気持ちだったのを憶えている。
 ぼくは本当の流れ星を見たことがあるのだろうか。夢のなかの一瞬の淡い輝きを思い浮かべながら現実の経験の記憶をたぐりよせようと努力していた。
 流れ星は見たことがあるはずだ。いつ、どこで? それが思い出せない。夢の映像のモデルとなったのは、子どものころプラネタリウムで見た流れ星の演出だったのではないか。――この疑問はある体験を契機に関心をもって決着するのだけど、ここでは少し話題を変えよう。
 ぼくは川崎の繁華街で育った。ただの街なかではなく、文字通りの繁華街で、普段は月と一等星くらいしか見えない。空気の澄んだ冬場の深夜にはオリオン座の四角形が見えるから、明るい三等星くらいは見えるのかも知れない。いずれにしても流れ星のかすかな光をとらえられる環境ではない。
 一方で、流れ星はめったに見ることができないという先入観もあった。小学生くらいまでは毎夏のように山梨にある母方の田舎に出かけた。当時、手洗いは屋外にあって、寝るまえには夜空をながめることになった。あまりにたくさんの星々、星が降ってくるような、逆に自分が夜空に吸い込まれてしまうような。畏怖という意味での“こわさ”を感じたのはその夜空が最初で最後ではないだろうか。
 しばらくその夜空を見上げていれば流れ星が見えたにちがいない。ペルセウス座流星群の極大期に近いし、山あいでだいぶ涼しいけれど耐えられない寒さではない。残念ながら当時はそんなことは考えつかなかった。ただ、子どもの根気で流れ星を待つことができたかどうか。
 プラネタリウムで、夕方から夜になり、星々が周囲にきらめき出すと、決まって流れ星が流れた。それを見ながら、流れ星はじっと見ていれば案外見られるものかも知れないと考えるようになった。そう思いはじめる時期には田舎に行くことはなくなっていた。
 そして、実際の流れ星を見たのは大学四年の夏、おそらくペルセウス座流星群の時期だった。研究室の合宿で福島あたりに宿泊した晩のことである。宿の屋上だったかで、先輩や同輩たちとあお向けに寝転んで夜空を見上げていた。
 流れ星にはうまく焦点が合わない。視野の片隅を細いほそい光の線が一瞬駈けぬける。見た、という確信はそれほど強くない。それでも待っているとまた光が走り去る。ぼくは確かに流れ星を見ていた。
 その体験を思い出したのは一昨年の秋、獅子座流星群が話題となった時だ。特に気合いを入れたわけでなく、深夜一時近くに帰宅して自宅の屋上で十分ほど夜空を見上げた。一条の光がはっきりと視野にとらえられ、消えていった。見えた、という確信があった。そのイメージと、夢の映像と、過去の体験はしっかりとつながった。
 今回、流れ星を取り上げるにあたって実際にもう一度見てみたいと思っていた。長野の高原に出かける機会があったので、是非と思ったのだけれど、天候に恵まれずほとんど星も見ることができなかった。
 でも、それはもはや問題ではない。ぼくは確かに流れ星を見たことがあるのだから。


top page

back to home