十二年に一度、龍の年はめぐる。
十二年前、大学の先輩たちと会社をつくった。その企画のもと、「マーくん玉手箱」と題されたエッセイを月刊ペースで一年間連載した。終わったあと、またはじめないのですかと訊いてくれたひとがいた。今思えばただのお世辞に過ぎないのかも知れないのに真面目半分冗談半分に、ネタの仕込みが大変でね、十二年後かなと答えていた。そのことを思い返しても自分として満足のいく連載だったのだと思う。この時点までで自己満足率五〇パーセントというところだろうか。 かつて誰とそんな話をしたのか。別に約束ということでもなかったはずだけれども、もう一度「マーくん玉手箱」をやりたいと思うようになった。半年くらいまえのことで、もちろん先ほどの自己満足な約束もどきのことも思い出していた。 ちなみにぼくは辰年生まれなのだ。西暦二〇〇〇年という区切りの年が偶然にも自分の干支にあたっていると気づいたのは、十八か十九か二十、そのころだったように思う。今からすればだいぶ以前のことだけれど、三十六歳をはるか彼方の年寄りとしか思えないほどでもなくなっていた頃。それでも本当に想像できているのは三十くらいまでで、そのあたりと三十六歳の違いはほとんどわかっていなかった(わかっていないことに気づいていなかったのだ)。 漠然と三十六歳くらいまでにはそれなりにいろいろなことが解決しているように感じていた。この感覚は十二年前の会社をつくったときにも同じだった。二〇〇〇年という区切りと龍の年が重なっている、だからきっと大丈夫、と。年をとるのも悪くない、そう感じていたのである。 いろいろなことが具体的にどんなことで、それなりの解決というのがどのような結果、状況を示すのか今となっては憶えがない。ただ、ずいぶんとはずかしげなことを考えてたように思う。誰にでも覚えのありそうなことのような気もするので、ここでは深入りしないでおこう。 さて、龍の年である。区切りの年にこそ龍はふさわしい。それも豊かな未来をもたらしてくれるに違いない。――個人的にそう感じられるだけなのだろうか。 天を衝いて昇る龍は激しく上昇する気流の姿である。雲を呼び、雷鳴を轟かせる。雲は雨という恵みを運び、稲妻は直感的な閃きを、雷鳴は古い過ちを一喝する天の声にほかならない。東洋の龍はそうしたことごとを一身に体現する天空の存在である。だから未来への期待にあふれる区切りに置かれるにふさわしい。 西洋の龍、ドラゴンは全く別のイメージに彩られている。翼のあるトカゲ、そう表現されるドラゴンは地をはうものと、天駆けるものの姿を重ね合わせた存在だ。大空を渡る姿が神々しくも世界の大きさを実感させる一方で、大地にある姿は勇者を襲わんとする邪悪な存在と化してしまうこともしばしばである。ドラゴンの吐く炎は、龍の雷とは異なり、硫黄の異臭を放つ死への誘い以外の何ものでもない。とはいえ、ドラゴンが地をはうものと天駆けるものの重ね合わせであることもまた、決して忘れてはならない。 本題にもどろう。龍の年、区切りの年にもう一度「マーくん玉手箱」をはじめようと思った。十二年のあいだに当然ながらいろいろなことがあった。解決していないこと、できないことも少なくない。とはいえ、かつて「いずれ解決する」と思っていたように、今も心の底からそう感じられる。 いずれまた龍の年はめぐり、解決されるべきものは解決しているに違いない。だからもう一度、連載をはじめてみようと思う。今度は前回のような発表舞台ではなく、ホームページという小さな個人的な場所だけれど。かれこれ自己満足率は八〇パーセントを超えたか。 来年の六月まで残り十一回。月一回のペースでエッセイを書いていこうと思います。よろしければ、また来月、お会いすることができればうれしいです。 |