数日まえから街でクリスマスの飾りつけを目にするようになった。
以前にも書いたように、ぼくは繁華街で育って今でも同じところに暮らしてる。なので今日あたりは家のなかにいてもクリスマスソングが聞こえてきている。 クリスマスへの盛り上げが去年より早いのではないか。身の回りではいつもこんなもので毎年そう感じているんだという説が有力なのだが、どうも違うような気がしている。十年くらいまえのいわゆるバブル期と呼ばれる時代、年々クリスマスの盛り上げが早まりつつ派手になっていったように記憶している。その早まり感に似ているように感じる。どうだろうか? 景気の浮揚感というか、前向きな姿勢で景気を盛り上げていこうというか。そうした気持ちの表れのように感じられる。それとも、前連載から十二年もの時間が経過して、その分年老いてしまったぼくの心が季節感なんかよりも景気だのなんだのに敏感になってしまったためだろうか。 だとしたら、それは一種の心の錆なのだろう。――酸化皮膜には錆の進行を食い止める効能があるにはあるが、世界と直接触れ合うことを妨げているのも確かだ。 早すぎるクリスマスの盛り上げが商売と関係していることは間違いない。それを商業主義と批判するつもりはない。もはや心は錆びはじめ、瞳は曇りがちなのだ。 今日にいたる半分ほどの時間しか生きていなかったころ、十八歳の十二月だったのかも知れない。ぼくはある発見をし、ある確信を得た。二十五日クリスマスと元旦は同じ曜日なのである。それに気づいた瞬間、イエスの誕生日は別にあると確信した。二十五日は年末最後の一週間のはじまりの日にほかならない。重要なのはそのことであって、誕生日はあとづけの理由に違いない、と。 生身の人間としてこの世に生を受けた偉大なるナザレ人は別の誕生を持っているに違いない。クリスマスは年越しの祭りであり、冬至を過ごした太陽の再生の祝いでもある。その意味では天上神の地上における再誕にはふさわしい時期でもある。 日本では年末よりも年明けを祝う風習がある。一見、正反対のように見えるけれども、新年における再生を祝っているという点で共通しているように思える。初日の出を拝むあたり、やはり太陽の再生を祝っているのではないだろうか。 最後の一週間の冒頭がクリスマス。それと並べるべきは新年に先立つ大晦日であるように思う。鍵は除夜の鐘である(実はもうひとつ思い当たるのだが認知度で断然負けている)。百八つの鐘の音が煩悩を運び去ってくれる。悟りを得て再生する、のである。 クリスマスは全くちがった様相を呈する。キリストの愛をもって許し赦される。貧しいものには施しをし、身近な人びととの愛を確かめあう。金儲けの権化と化してしまった「クリスマス・キャロル」のスクルージにすら救いの手は伸べられる。 新しい年への再生を準備するには十一月はまだ早すぎるのではないか、と感じてしまうのだがどうだろう? これも十月が暖かすぎて秋の深まりを実感できなかったせいだろうか。だとすれば少しは季節を感じる心も残っているのかも知れない。 とはいえ、クリスマスを早々と取り上げたのはぼく自身だし、あまり世間様にあれこれ云える立場にはない。クリスマスを待ちわびる気持ちに焦点をあてるほうが素直だったのかも。――実は来月どうしても取り上げたいテーマがあって話題を繰り上げたのでした。気候のことも、クリスマス商戦に賭けるひとも、誰もなにも責められない……。 それでは、すべてのクリスマスを待ちわびるみなさんに、少し気は早いですが。 よいクリスマスを!! |