秋の気配

 十月にはいってようやく秋らしさが実感できるようになってきた。
 どういうところで実感するかといえば、やはり気温だろう。日中、天気がよければそれなりに暑く感じるけれども、真夏のような蒸し暑さはないし、夕刻になればすみやかに涼しくなる。その「するり」としたさわやかさは秋ならではのものかも知れない。
 日も短くなってきている。それは確かにそうなのだけれど、そこに感じ入るのは秋の気配というより夏の終わりではないかと思っている。記念すべき(と自賛しつつ)前連載の第一回で取り上げたのがその感覚だった。
 日が短くなる、というのは毎日途切れることなくほぼ一定のペースで進行して、あまけにその変化量を実感することが難しい。気温は一日のなかでも大きく変動するし、日ごとに暑かったり寒かったりもする。何よりも直接感じとることができる。自然、夏季の実感の中核を占める。
 もっとひそやかに、しかしながら確実に秋の気配を伝えるものがある。
 食べもの――秋の味覚といえば、さんま、きのこ、くり、などなど。ふと思うと案外そうしたものに強い思い入れがないことに気づく。ぼくはどちらかというと初夏に旬をむかえる食べものが好きなようだ。あなご、しゃこ、あゆ、びわ。ちょっと脱線したのでこの話は別の機会に。
 さて、毎日食べるものが少しずつ秋の味覚を増していく、というのであれば気配とも云えるだろう。でも、さんまですと姿をあらわにされても「ひそやか」と云ってよいものか。商業化されてしまっている面もあるのだが、秋の味覚というのは案外、露骨なところがある。――まつたけの自己主張のはげしさなどいかがなものだろう。そう思うと、たおやかな秋の印象と少々相いれないように感じる。いや別に、まつたけに罪はないし恨みもないのだけど。
 話をもどすと、ひそやかに秋の気配を伝えるもの、それは雲なのだ。
 季節という意味で雲の様子が変わるのは早い。まだまだ暑かった今年の九月も、記憶では中旬にいたるころには秋の気配を見せはじめていた。気温よりも早く秋の訪れを告げるのが雲なのである。ただ、特に意識していなければ暑さに気取られて、頭上に広がる秋の気配を見落としてしまう。ひそやかに、しかし青い空に浮かぶ雲の姿として、確実に秋の気配は伝えられているのだ。
 気象予報士の勉強をすると、ここらへんのことがらについて正しい知識が身につくのだと思う。残念ながらきちんと学んだわけではないので、経験的な憶測としてなぜ、どのような雲が秋の気配を伝えるのか、それをお話しておきたい。
 夏を代表するのが入道雲、雲の分類では積乱雲。積雲が発達して雷や激しい雨をともなっている。夏の高い気温、強い陽射しのもとでは積雲が大きく発達しやすいのである。この積雲は地表近くにできる低層雲で、夏場は中層、高層に雲は目立たない(ように感じる。ちがうかな)。
 秋の雲として知られるいわし雲、ひつじ雲がある。前者は巻積雲と分類される高層雲、後者は高積雲で中層雲である。秋になると温度が下がることで、高空の水蒸気は水滴や氷粒になりやすくなる。で、高空にうすくすじを描くように広がる巻雲が早い時期に秋の気配を伝えてくれる。それを見ると、地上は残暑でも高いところは秋なんだ、と思える。また、徐々に積雲も天を衝く積乱雲には発達しにくくなり、横に長く連なるようになる。要はきっぱりと青空に真っ白な入道雲でコントラストを際立たせる夏空が、多くの多彩で微妙な味わいをたたえる秋空に変わっていく。それを見えるかたちで伝えてくれるのが雲なのだ。
 来年、いち早く秋の気配をとらえるために、少し秋の空をながめてみるのはいかがだろう。


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