コーディネイターに紹介された副所長は意外に若く、おだやかな印象の人物だった。肩書きから先入観を持ってしまったことをKは後悔した。事前に彼女はこう告げた。それが一種の暗示になっていたのか。
「名まえの与えられることのない非組織の副所長なのですから、彼は“副所長”以外のなにものでもないんです」
 谷間に迫る山やまには木々が茂り、彼らの立つ周囲も草におおわれて、視界の半分以上が緑色で埋め尽くされていた。――ここが緑の谷間なのだ。
「ここはネットワークへの接続が困難です」
 コーディネイターがKを振り返った。Kは専門家として解釈を示した。
「距離の問題はあります。ただ、ジオメトリー、不変空間計量が均質でないので、直線的な距離とは違います。とはいえまあ、最大の問題は物理的な接続不良なんでしょう」
「こういう場所でリスニングは可能ですか」
 副所長が訊ねた。
「最低限の品質さえ確保できれば。むしろ興味深い。ジオメトリーに湾曲があると、小鳥の隠れ家が多くなる」
「小鳥、ですか?」
 コーディネイターが聞き返した。
「ネットワーク・リスナーがたまに使うたとえです。ネットワーク環境の豊かさ、生成性のシンボルです。わたしたちはそのさえずりに耳を傾けているといえます」
 副所長が今はじめて会った、というような表情でKを振り返った。
「なぜネットワーク・リスニングをはじめられたんです?」
 Kの脳裡を学生時代から現在にいたるさまざまな記憶が想起された。遺伝子解析に端を発するバイオ・インフォマティクスが、数学技法として一般化されていく時代的ただなかにKはいあわせていた。
「ネットワーク・リスニングと、DNAインフォマティクスには共通のジオメトリー、不変空間計量があります」
 Kの属したゼミがその共通性の研究を推進していた。彼自身の寄与もあるのだが、それを自分から語ることはほとんどない。
「ある情報単位に注目するとき、ジオメトリーは曲がり、時には一点に凝集もしくは縮退しているかのように見えます。そのような効果を持つ情報単位をわたしたちは特に“カプタ”と名づけました。カプタは小鳥のさえずりを引き出すものです」
「さえずりは以前のお話で、物語の断片とおしゃっていたものと同じですか」
 コーディネイターが訊いた。
「文脈の違いがあるんで、全く同じではありませんが、そうみてかまいません」
「ネットワークから、さえずり、物語の断片を聞きとるためには、カプタやそれにともなう空間の曲がりが必要なのですね」
 副所長がことばを取りまとめた。
「何かが別の何かの必要条件となっているわけではありません。それらは同時的に顕れるものです。カプタ、不変空間計量の湾曲、物語の断片、そしてリスナー。全体として同時に環境を形成しているのです」
「空間の曲がりは――」
 コーディネイターは周囲に視線を送った。Kもつられるように緑の谷間を見渡す。この一面の緑は生命なのだ。ここは濃厚なまでに生命に満たされている。
「彼らにもイメージできるはずです。体験的には彼らも知っています」
 彼女のことばの奇妙さに気づくまで時間が必要だった。それを待つためか、副所長もしばらく黙って、ゆっくりと周囲を見渡した。
「彼ら? わたしたち以外の誰かがこの谷間にいるんですか?」
「もちろんです。ここはそのための場所なのです」
 副所長は視線をKに返しながら云った。