〈はじめに〉

T.日本におけるハンセン病の社会小史(明治以降)

U.「らい予防法」廃止決定に至るまでの経緯について

V.療養所の現状と今後の問題

W.「らい予防法」廃止後の課題

■参考文献(上記4冊の他に)

やっと実現した「強制隔離」からの解放!

「らい予防法」廃止と今後の課題>
社団法人「好善社」2001・12

    〈はじめに〉

(1)
  ハンセン病を病んだ人々の念願であった「らい予防法」廃止がついに実現した。
  1953年(昭和28年)改定から42年、1907年(明治40年)の旧法から90年、 実に一世紀間にわたって患者を強制隔離し 、その人権を無視し、差別してきたこの誤った法律が今年3月末に廃止となり、4月1日より 「『らい予防法』の廃止に関する法律」が施行された。しかし、強制隔離によって奪われた人々の人権回復はこれからである。 ハンセン病患者が背負わされてきた「らい予防法」とはいったい何だったのか。この機会に廃止法のもつ意味と今後の課題について学び考えてみたい。
(2)
  ハンセン病療養所の不思議?(「奇妙な国」)  問題の所在として
   @ 所在地の特殊性(囲いの中、離島、山中、海岸)
   A 名前(姓)が別々の夫婦。仮名。
   B 故郷がない。墓がない。入れない。肉親・親戚との絶縁。療養所の納骨堂に。
   C 子供を産めない夫婦。子孫を残せない。
   D 子供のいない奇妙な国としての療養所。
   E 入り口(入所規定)があっても出口(退所規定)のない療養所
☆ 通常の人間関係(かかわり)がタズタに切断された人々の世界。
   いつ、誰が、なぜ、そうさせたのか・・・・。
「ああ/何億の人がいようとも/かかわらなければ路傍の人/私の胸の泉に/枯れ葉一枚も/落としてはくれない」(大島青松園・塔和子『胸の泉に』

T.日本におけるハンセン病の社会小史(明治以降)

(1)
  前史 浮浪らいの時代。治す薬がなく、皮膚と神経が侵され肉体的変形をきたすので、見た目に悲惨に映った。
・ 偏見・差別→天刑病、業病、遺伝病、貧民病として嫌われる。家族から捨てられる→
      土蔵の中(片居) 浮浪 患者部落 お遍路。
☆明治33年の調査 30,300人(実際は6万人以上?)
(2)   明治6年(1873) という年=ノ−ルウェ−の医師アルマウエル・ハンセンがらい菌を発見/ ダミアン神父モロカイ島で常任司祭となる/日本でキリスト教の禁制が解禁/渡来した宣教師の うちの3人によって、日本のらい事業が先鞭された。
(3)
  キリスト教宣教師の活動=明治20年代→私立病院時代
   * テスト・ウィドウ神父(フランス・カトリック) 「神山復生病院」1889(明治22)
   * K.T.M.ヤングマン女史(アメリカ・プロテスタント)「慰廃園」(好善社)1894(明治27)
   * ハンナ・リデル女史(イギリス・聖公会) 「熊本回春病院」1895(明治28)
☆ 捨てられたひとりの患者との出会い。その人達をキリストの福音を持って癒そう。
   その人達が誰からも気がねせずに過ごせるところをつくる。
(4)   光田健輔氏、東京市養育院(市内の窮民・浮浪者の収容施設)に就職(1898/明治31年→同32年 東京市養育院内に「回春病室」を開設、らい患者の隔離を主張し、らい事業に従事→その論理 ( らいは恐ろしい伝染病、民族浄化を目指す文明国の恥。隔離を絶対とする光田イズムは、 偏見・差別の根源となり、以後の日本のハンセン病対策全体を指導する結果となる)。
(5)
  「癩予防ニ関スル件」〈法律第11号(らい予防法)〉の成立=1907(明治40年)
提案説の一部「我国におきましてはこの癩患者というものが、或いは神社、仏閣、或いは公園等 に徘徊いたしまして、その病毒を伝播する恐れがあるのみならず、また地方におきましては、随 分これらの患者が群衆の目に触れますところに、徘徊しまするは外観上甚嫌うべきことであろう と思いまするので、 これらの取り締まりをなすことが必要なりと信ずるのであります」
(光田健輔)
らいの伝播の予防・治療と患者の福祉のためというが、実態は「公共の福祉を図る」という名目 での人権無視による強制隔離・収容、患者撲滅が目的であった。
(6)
  公立療養所の設立 1909 (明治42年)
府県連合立療養所(全国5ブロック)
    第1区/関東・中部(東京・全生病院)
    第2区/東北(青森・松ケ丘保養園)
    第3区/近畿・中国(大阪・外島保養院)
    第4区/四国(香川・大島青松園)
    第5区/九州(熊本・菊池恵楓園)
      定員1200名(3万人の3.7%)
(7)
  断種手術(ワゼクトミ−)による民族浄化 1915(大正 4年)
公立療養所に患者は男女別に収容され、板塀で隔てられていたが子供が生まれた。 患者とその子孫の根絶のために、光田は所内結婚(通い婚)を認める代わりに男性患者に対して 「断種手術」を行った。これが今日の優生手術の発端となった。
    (「優生保護法」(昭和23年公布)第2章第3条の3項参照)→誤った認識・非科学的根拠/
     遺伝と伝染の問題→何という屈辱/人間否定!
(8)
  所長に患者懲戒検束権(「癩予防ニ関スル件」の改正) 1916(大正4年)
収容所の刑務所化→所長の絶対的権力化・患者の犯罪行為と脱走を取り締まるため→24時間 の監視体制/園内通用券(金券)/監禁室設置→刑務所化→1938(昭和13年) 草津・栗生楽生 園の患者刑務所「特別病室」(重監房)設置へと発展→恐怖と暗黒時代へ。
(9)
  国立療養所の設立 全国13ヵ所(私立3ヵ所)=地図参照
1930 (昭和 5年) 第1号「長島愛生園」(岡山県)=光田健輔初代園長就任
1931 (昭和 6年) 「癩予防ニ関スル件」大改正 (光田→絶対隔離の徹底化)
名称を「癩予防法」に。公費により警察権力の手ですべての患者の強制隔離・収容の対象とする。
1941(昭和16年) 公立療養所が国立に移管され、国立療養所の設立(13園)
(10)
  新薬プロミンの発明 アメリカ 1943(昭和18年)→日本での使用 1947(昭和22年) 治る時代への劇的変化!患者への福音
(11)   「全国ハンセン病患者協議会」(全患協)結成 1951(昭和26年)
(12)
  3園長の国会証言(絶対隔離、断種、逃亡罪の罰則強化を主張)
光田健輔(長島愛生園)、宮崎松記(菊池恵楓園)、林芳信(多磨全生園・らい学会会長)
「手錠でもはめてから捕まえて、強制的に・・・もう少し強い法律に・・逃亡罪というような罰則が一つ欲しい・・・」(光田)
(13)
  らい予防法闘争 1953 (昭和28年)  全患協の闘争・国会デモ/座り込み
  人間の回復を!(戦後民主主義/新憲法発布/人権意識の目覚め)
(14)
  旧「らい予防法」の改正。  1953 (昭和28年)
しかし、懲戒検束規定は全廃されたが、全体的には「言葉づかいを改めた程度」に過ぎず、旧法律 の持つ本質は改正されておらず、患者の要求は無視された。強制収容によって患者を終生隔離す るという明治以来の政策は変わっていない。また、特効薬(プロミン)によって医学的に治癒が証明されているにもかかわらず、「退所規定」がどこにもなかった(その他「指定医の診察(強 制診察)」「入退所の知事に対する通知」「秩序維持」「無断外出の罰則」等)
    人権無視の思想はそのまま。
    ☆9項目の附帯決議
患者の要求には9項目の附帯事項をつけることによって答えた。
  @ 患者家族の生活 援護 A 研究所の設置 B 福祉施設の整備 C 外出制限・秩序維持の適 正・慎重を期す D 患者人権の尊重 E 入所者の処遇改善 F 厚生福祉制度 G 病名変更の検討 H職員の充足と待遇改善(以上の事項につき近き将来本法の改正を期する)
1954年以降は、この附帯決議の実施をめぐり、毎年「全患協」と厚生省の間で陳情・折衝が繰 り返され、患者待遇は少しずつ前進していった。
(15)   患者の社会復帰運動 昭和30年代(しかし、ごく一部にとどまる)
(16)   入所者の生活の向上と変化  「全患協」の運動、法律の運用によって療養所内の設備と入所者 の表面的な生活は徐々に改善されていった。新しい患者の発生も皆無に近くなった。ハンセン病問題は終焉期に向かう。
(17)   邑久長島大橋の完成 1988( 昭和63年 要求から16年の歳月。全長135メートル、6億9千万円。 「人間回復の橋」と言われる。
(18)   高松宮記念ハンセン病資料館建設 1993(平成5年) 多磨全生園内に完成。
(19)   「『らい予防法』廃止に関する法律」の成立 1996(平成8年)4月1日

U.「らい予防法」廃止決定に至るまでの経緯について

(1)
  「らい予防法」施行の歴史的経緯(上記参照)
1907(M40年) 旧法成立→1931(昭和6年) 改正「癩予防法」に→1953(S28年)
改正「らい予防法」→全患協の反対(改正・撤廃)運動→1996(平成8年)廃止
(2)
  「らい予防法」の内容の問題点
国家の基本姿勢・人権無視/患者撲滅・絶対隔離/警察権力・強制収容・懲戒検束規定/退所規 定なし/非科学的根拠・伝染と遺伝の問題/ワゼクトミ− (断種)優生保護法・人間否定
(3)
  「全患協」の反対運動をめぐって
1953 (S28)年の運動/今回の運動・改正か廃止か/既得権と基本的人権をめぐる議論/全患協 (各支部所長連盟)内での対立・調整/積極的廃止論者 (島比呂志、松本馨、谺雄二氏ら)と組織論(全患協)→慎重派と推進派/入所者の気持ち(高齢化の中で)
(4)
  行政(厚生省)の姿勢
1953( 昭和28年) 改正時の附帯決議「近き将来本法の改正を期する」を43年間放置/歴代厚 生大臣の発言と姿勢/ハンセン病対策議員懇談会の議員(社会党・山口鶴男事務局長)の協力/ 連立与党・菅直人厚生大臣の謝罪発言(96・1・18)/エイズ薬害訴訟問題との関連・時代の機運
(5)
  「らい予防法」廃止法案成立の背景
  @ 全患協の粘り強い運動の成果(改正→廃止・新法制定要求へ)1996・4・21
  A 大谷藤郎氏(藤楓協会理事長・元厚生省医務局長)→〈らい予防法改正に関する私の個人的見解〉発表 1994・4・20 (「らい予防法」を廃止し、一般衛 生法規の中で他の感染症と一緒に取り扱い、現在園者の医療・福祉・所得保 証・生活を今まで以上に保証することを提案〓全患協・日本らい学会・所長 連盟・厚生省などに大きな影響を与えた)
  B 「全国ハンセン病療養所所長連盟」廃止・新法見解発表→〈らい予防法改正問題についての見解〉 1991・11・8
  C 「日本らい学会」廃止提言→〈「らい予防法」についての日本らい学会の見解〉発表1995・4・22
  D 「全国ハンセン病患者協議会」→〈日本らい学会の『らい予防に関する見解』について〉の評価を発表 1995・4・22
  E 「らい予防法見直し検討会」(座長・大谷藤郎)→廃止見解発表 1995・12・8
  F 「日本弁護士連合会」の声明(予防法廃止評価) 1996・1・18
  G マスコミ報道による啓発(新聞・テレビ/ドキュメント/ニュ−スなど) 
  H 1993年に出版された4冊の本
    ・大谷 藤郎『現代のスティグマ』(勁草社)
    ・島 比呂志『「らい予防法」と患者の人権』(社会評論社)
    ・松本 信『生まれたのは何のために』(教文館)
    ・山本俊一『日本らい史』(東京大学出版会)
(6)
「らい予防法」廃止に関する法律のポイントと問題点
1) 法律としては、第1条「らい予防法(昭和28年法律第214号)は、廃止する。」
のみが廃止の法律であり、2条以下は経過規定である。
@ 「らい予防法」の廃止(第1条)
A 療養所における療養の継続(第2条)
B 療養所への再入所の自由(第3条)
C 社会復帰の支援(第5条)
D 入所者とその親族の経済的援護(第6条)
E 都道府県による費用の支弁(第7条)←国庫の負担(第9条)
F 公課及び差押えの禁止(第10条)
G 附則−−優生保護法及びその他の関連法規の一部改正(「らい」に関する条項・文言の削除)/呼称「らい」→「ハンセン病」
2) 「らい予防法の廃止に関する法律案に対する附付帯決議」(1996・3・26参議院厚生委員会)
@ 入所者への患者給与金の継続保証/入所者への他の医療・福祉等処遇の確保。
A 退所希望者の社会復帰と生活への支援策の充実。
B 通院・在宅治療の医療体制の整備/ハンセン病治療に関する専門知識の普及。
C 一般市民、学校教育の中でのハンセン病に関する正しい知識の普及・啓発に努め、差別・偏見解消への一層の努力。
【問題点】  国の責任の明記がない
@ 廃止理由についての行政のとらえ方の問題(必要がなくなったから) 
A 国家の過ちの隠蔽と責任の回避(間違っていたからと言わない)

V.療養所の現状と今後の問題

        
@ 終焉期にある療養所−入所者の高齢化(平均年齢78歳)
入所者人数 男1930 女1643 計 3573名 (2003・12好善社調べ)
入所者の肉体的・精神的不安  カラオケ/ゲ−トボ−ル/テレビ
A 予防法廃止後の入所者の生活の全面保証(既得権の保証)/退所者への保証は?
B 療養所の統廃合の問題 2020年→ 500人に/納骨堂の問題/療養所の将来構想
C 社会復帰ができるか? 高齢化と社会の偏見/家族・肉親との関係回復は?
D 全患協の今後の活動−その高齢化による組織の弱体化への不安。

W.「らい予防法」廃止後の課題

(目に見える「隔ての壁」は取り除かれたが・・・)
@ 入所者の残された生涯・・・どう生きるか(老いと共に)
A 差別・偏見はなくなるか・・・更なる地道な啓発運動を!
B 療養所と社会のつながり・・・人間関係回復のためにできることは?
C ハンセン病についての正しい知識と理解を! 人権問題としての認識。 

参考文献(上記4冊の他に)
好善社 『ある群像』−好善社 100年の歩み(日本基督教団出版局)
三宅一志『差別者のボクに捧げる!』(増補版)1991 (晩聲社)
「らい」園の医療と人権を考える会編『「らい予防法」を問う』1995(明石書店)
島比呂志『片居からの解放』(増補版)1996 (社会評論社)
島比呂志『生存宣言』1996 (社会評論社)
藤野豊編『歴史のなかの「癩者」』 1996 (ゆるみ出版)

                      (まとめ:好善社理事 川崎正明)