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前史 浮浪らいの時代。治す薬がなく、皮膚と神経が侵され肉体的変形をきたすので、見た目に悲惨に映った。 |
・ 偏見・差別→天刑病、業病、遺伝病、貧民病として嫌われる。家族から捨てられる→ |
土蔵の中(片居) 浮浪 患者部落 お遍路。 |
☆明治33年の調査 30,300人(実際は6万人以上?) |
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明治6年(1873) という年=ノ−ルウェ−の医師アルマウエル・ハンセンがらい菌を発見/ ダミアン神父モロカイ島で常任司祭となる/日本でキリスト教の禁制が解禁/渡来した宣教師の うちの3人によって、日本のらい事業が先鞭された。 |
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キリスト教宣教師の活動=明治20年代→私立病院時代 |
* テスト・ウィドウ神父(フランス・カトリック) 「神山復生病院」1889(明治22) |
* K.T.M.ヤングマン女史(アメリカ・プロテスタント)「慰廃園」(好善社)1894(明治27) |
* ハンナ・リデル女史(イギリス・聖公会) 「熊本回春病院」1895(明治28)
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☆ 捨てられたひとりの患者との出会い。その人達をキリストの福音を持って癒そう。 |
その人達が誰からも気がねせずに過ごせるところをつくる。 |
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光田健輔氏、東京市養育院(市内の窮民・浮浪者の収容施設)に就職(1898/明治31年→同32年
東京市養育院内に「回春病室」を開設、らい患者の隔離を主張し、らい事業に従事→その論理
( らいは恐ろしい伝染病、民族浄化を目指す文明国の恥。隔離を絶対とする光田イズムは、
偏見・差別の根源となり、以後の日本のハンセン病対策全体を指導する結果となる)。 |
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「癩予防ニ関スル件」〈法律第11号(らい予防法)〉の成立=1907(明治40年) |
提案説の一部「我国におきましてはこの癩患者というものが、或いは神社、仏閣、或いは公園等
に徘徊いたしまして、その病毒を伝播する恐れがあるのみならず、また地方におきましては、随
分これらの患者が群衆の目に触れますところに、徘徊しまするは外観上甚嫌うべきことであろう と思いまするので、
これらの取り締まりをなすことが必要なりと信ずるのであります」 |
(光田健輔) |
らいの伝播の予防・治療と患者の福祉のためというが、実態は「公共の福祉を図る」という名目 での人権無視による強制隔離・収容、患者撲滅が目的であった。 |
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公立療養所の設立 1909 (明治42年) |
府県連合立療養所(全国5ブロック) |
第1区/関東・中部(東京・全生病院) |
第2区/東北(青森・松ケ丘保養園) |
第3区/近畿・中国(大阪・外島保養院) |
第4区/四国(香川・大島青松園) |
第5区/九州(熊本・菊池恵楓園) |
定員1200名(3万人の3.7%) |
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断種手術(ワゼクトミ−)による民族浄化 1915(大正 4年) |
公立療養所に患者は男女別に収容され、板塀で隔てられていたが子供が生まれた。 患者とその子孫の根絶のために、光田は所内結婚(通い婚)を認める代わりに男性患者に対して 「断種手術」を行った。これが今日の優生手術の発端となった。 |
(「優生保護法」(昭和23年公布)第2章第3条の3項参照)→誤った認識・非科学的根拠/ |
遺伝と伝染の問題→何という屈辱/人間否定! |
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所長に患者懲戒検束権(「癩予防ニ関スル件」の改正) 1916(大正4年) |
収容所の刑務所化→所長の絶対的権力化・患者の犯罪行為と脱走を取り締まるため→24時間
の監視体制/園内通用券(金券)/監禁室設置→刑務所化→1938(昭和13年) 草津・栗生楽生 園の患者刑務所「特別病室」(重監房)設置へと発展→恐怖と暗黒時代へ。 |
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国立療養所の設立 全国13ヵ所(私立3ヵ所)=地図参照 |
1930 (昭和 5年) 第1号「長島愛生園」(岡山県)=光田健輔初代園長就任 |
1931 (昭和 6年) 「癩予防ニ関スル件」大改正 (光田→絶対隔離の徹底化) |
名称を「癩予防法」に。公費により警察権力の手ですべての患者の強制隔離・収容の対象とする。 |
1941(昭和16年) 公立療養所が国立に移管され、国立療養所の設立(13園) |
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新薬プロミンの発明 アメリカ 1943(昭和18年)→日本での使用 1947(昭和22年)
治る時代への劇的変化!患者への福音 |
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「全国ハンセン病患者協議会」(全患協)結成 1951(昭和26年) |
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3園長の国会証言(絶対隔離、断種、逃亡罪の罰則強化を主張) |
光田健輔(長島愛生園)、宮崎松記(菊池恵楓園)、林芳信(多磨全生園・らい学会会長) |
「手錠でもはめてから捕まえて、強制的に・・・もう少し強い法律に・・逃亡罪というような罰則が一つ欲しい・・・」(光田) |
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らい予防法闘争 1953 (昭和28年) 全患協の闘争・国会デモ/座り込み |
人間の回復を!(戦後民主主義/新憲法発布/人権意識の目覚め) |
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旧「らい予防法」の改正。 1953 (昭和28年) |
しかし、懲戒検束規定は全廃されたが、全体的には「言葉づかいを改めた程度」に過ぎず、旧法律 の持つ本質は改正されておらず、患者の要求は無視された。強制収容によって患者を終生隔離す るという明治以来の政策は変わっていない。また、特効薬(プロミン)によって医学的に治癒が証明されているにもかかわらず、「退所規定」がどこにもなかった(その他「指定医の診察(強 制診察)」「入退所の知事に対する通知」「秩序維持」「無断外出の罰則」等) |
人権無視の思想はそのまま。 |
☆9項目の附帯決議 |
患者の要求には9項目の附帯事項をつけることによって答えた。 |
@ 患者家族の生活 援護 A 研究所の設置 B 福祉施設の整備 C 外出制限・秩序維持の適 正・慎重を期す D 患者人権の尊重 E 入所者の処遇改善 F 厚生福祉制度 G 病名変更の検討 H職員の充足と待遇改善(以上の事項につき近き将来本法の改正を期する) |
1954年以降は、この附帯決議の実施をめぐり、毎年「全患協」と厚生省の間で陳情・折衝が繰 り返され、患者待遇は少しずつ前進していった。
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患者の社会復帰運動 昭和30年代(しかし、ごく一部にとどまる) |
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入所者の生活の向上と変化 「全患協」の運動、法律の運用によって療養所内の設備と入所者
の表面的な生活は徐々に改善されていった。新しい患者の発生も皆無に近くなった。ハンセン病問題は終焉期に向かう。 |
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邑久長島大橋の完成 1988( 昭和63年 要求から16年の歳月。全長135メートル、6億9千万円。
「人間回復の橋」と言われる。 |
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高松宮記念ハンセン病資料館建設 1993(平成5年) 多磨全生園内に完成。 |
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(19) |
「『らい予防法』廃止に関する法律」の成立 1996(平成8年)4月1日 |