ハンセン病を正しく理解する講演会 
2012 
関東の部
7月7日(土) 日本キリスト教団 新栄教会


講演 : 「わたしの歩んできた道」
−キリスト者として本名を名乗る−


 国立療養所星塚敬愛園入所者
園内単立キリスト教会恵生教会代表


福仲 功(ふくなか・いさお)さん




 
 関東の講演会では珍しく雨模様のなか、各方面に予め早目に案内をしたせいか、78名という例年にない多数の参加者を与えられた。参加者の中には、何の集まりかも分からなかったが、好善社員に勧められて参加し、思いがけずハンセン病問題に初めて触れ考えさせられたという方もあり、また初参加の方も5、6人、メディア関係では朝日新聞社の記者が来ていた。さらに珍しく藤原理事長時代に好善社と関わりがあった牧師方(渡辺信夫先生、関田寛雄先生)、講師の福仲功・澄子夫妻の友人などの参加も加えて、講演は、期待感と共に和やかな雰囲気の中で行われた。
 今年の講師は、福仲功さん。沖縄の石垣島で生まれ育ち、中学生の時に発病、1951年に沖縄愛楽園に入園。その後1953年に鹿児島の星塚敬愛園に転じた。園内での名前は南野潔。やがて同園に入園しておられたキリスト者の澄子さんと出会い、結婚。結婚生活を始めるにあたり、福仲さんは当時の園の定めに従い悩んだ末止むなく断種手術を受けたと淡々と話される。その心中はわれわれ聴衆の思いを遥かに超える苦渋の心境であったことであろう。また、子どもが期待できないお二人の愛の絆の特別な強さをひしひしと感じた。
 1964年の好善社主催第3回全国学生キリスト者ワーク・キャンプに入所者として参加し、若いキャンパーたちとの交流が入信、受洗の契機となった。澄子さんと共に教会に通うようになったが、聖書のことをもっと学びたいという強い思いから、1968年に長島聖書学舎に第3期生として入学し、日々熱心な教授陣の厳しい指導を3年間受け、1971年に卒業。牧師の資格はとらなかったが、星塚敬愛園恵生教会の役員また代表として、説教奉仕をはじめ教会に心血を注いで仕えてきた。
 そのうちに福仲さんの心に、人の目を気にしつつ偽名を使って生活を送っている自らの生き方に、やましさと疑問が生じてきた。主イエスは「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。…体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイによる福音書第10章26、27節)と言われた。その御言葉に深く捉えられ、これからは本名を名乗って生きようと思い、1980年本名に改めた。多くの元患者が、「らい予防法」廃止の1996年以降に本名を名乗るようになったのに対し、それに遥かに先立つことと、福仲さんの本名を名乗る姿勢が、国の法律が変わったという外的条件によるのではなく、あくまでも信仰的根拠から為されたことが注目される。人間の尊厳・人権の回復の原点は、何よりも神の前での人格の確立にあること、すなわち人の目を恐れず、偽名で生きるやましさからも解放され、常に神の前に立って生きることである。その喜びを語る福仲功さんの信仰の力強い証が、参加者の心に深く刻まれた。
 療養所の将来構想については、現在各療養所で療養所関係者のみならず、地域住民・一般市民・弁護士・地方自治体などを巻き込みながら検討がなされているが、星塚敬愛園では、その面ではやや遅れていて、まだ構想がまとまっていないことを、残念に思うと話された。また、社会の強い偏見・差別を生んだ国のハンセン病政策については、それをことさらに批判することはほとんどなさらず、むしろ、予防法廃止のずっと以前に偏見・差別の壁を越えて自分たちの各家庭に招き、交流の機会を何年にもわたってつくってくれた教会の話しとか、母親の米寿のお祝いに出席を強く求められ、躊躇を覚えながら行ったところ、故郷の人々と無事楽しく共に過ごすことができた話しを感謝を込めて語られた。それが却って、社会の偏見・差別の中に長く生きることを強いた私たちに深く反省を促すもののように聞こえた。
 今回、療養所教会のキリスト者の信仰から学ぶべきことは、まだまだたくさんあると改めて深く思わされた。(報告/好善社社員・棟居洋)













ハンセン病を正しく理解する講演会 
2012 
関西の部
6月30日(土) 日本キリスト教会 西宮中央教会


講演 : 「明日に向って」
- これからの人生をありのままに -



元国立療養所愛楽園入所者
ハンセン病関西退所者「いちょうの会」代表


講師:宮良 正吉(みやら・せいきち)さん



 
 関西の講演会は毎年のように雨模様。それにもかかわらず、ハンセン病問題に関心を持つ参加者が会場に入ってこられる。
 今年の講師は、宮良正吉さん。10歳の頃に発病、沖縄愛楽園入園、その後、長島愛生園内の邑久高校「新良田教室」を1965(昭和40)年3月に卒業と同時に大阪へ退所。大阪に住んで社会復帰46年。現在は、名前を公表し「ハンセン病関西退所者いちょうの会」会長として、ハンセン病回復者の医療・介護問題、講演や市民との交流活動に取り組んでおられる方です。
 講演は、国による強制隔離政策が引き起こしたハンセン病問題は、今なお社会の偏見差別の壁に阻まれ、回復者(元患者)の福祉の増進と名誉回復は進んでいない現状報告から始まりました。そして、家族や職場でハンセン病であったことを隠し続けなければならない社会復帰者の葛藤の日々を、ご自身の発病後の具体的な体験を通して話されました。プロミン治療による回復、岡山の長島愛生園に「患者が入れる高校ができた」と聞き、希望の光を感じたこと、当時アメリカ軍の統治下の沖縄からの本土の熊本の菊池恵楓園に転園しての受験生活、熊本から岡山へ貨物列車の後ろに付けられた患者専用の「お召し列車」で搬送された屈辱感、社会復帰後は職場で発覚しないかという恐怖感など、残された写真などをプロジェクターで映写しながらのお話は、回復者がどのように生きてきたかという具体的なイメージを参加者のまぶたの中に残したように感じます。
 宮良さんが子どもたちに、そして職場の仲間に事実を告白したときに、あっさりとした受け止め方をしてくれたことで、今まで隠さなければという自分自身の恐れも、一つの壁だったことに気づいたと証言されたのは印象に残りました。そして最後に、「偏見差別の中で生きてきている私達の苦しみ、悩みをご理解いただきたい」と強く訴えて講演を締めくくられた。
 終了後のアンケートは34枚の回収。その中の感想から。
・スライドや資料が豊富であったためわかりやすかったです。
・宮良さんの個人史と共に、全体としてのハンセン病の課題がよく分かった。
・自分の過去について隠しながら生活を送るというのは本当につらいんだろうなと思います。でも、隠さずに堂々と生きると、自分の過去の病気について講演などを行えるのは、とても素晴らしいと思います。
・何回も、参加させて貰っています。学生時代(関学大ワークキャンプ)の光明園との感傷的な関わり方から卒業できていない自分を見出し、反省させられます。
・今後教科書にも人権問題の重要項目としてハンセン病問題が載ることになると決まったことが良かった。それを扱う教師が良く勉強して何も知らない子共に正しく詳しく、伝えて欲しいと思う。
 講演会の参加者は74人。内、初めての参加者28人、数回の参加者37人、大学生から高齢者までの熱心な聴衆が、講師の話に耳を傾けていました。
(報告/好善社社員・長尾文雄)