ハンセン病を正しく理解する講演会 
2014 
関東の部
6月21日(土) 日本キリスト教団 新栄教会


講演 : 「私の歩んだ道-草津よいとこ?75年 」


国立療養所栗生楽泉園入所者


石浦 教良氏




 
 当日は梅雨の晴れ間で、蒸し暑くはあったが、最後まで天候に恵まれ、54人の参加者で教会堂は一杯であった。
 石浦教良氏は現在79歳、5歳のときにハンセン病だったご両親とともに草津湯之沢部落(患者自治の療養村)に移り住み、さらに楽泉園に移住、未感染児童のための「保育所」で生活し、園内の学校で小学校から中学校まで修学された。その後、父親が病死、母とともにくにへ帰ろうとしたとき、ご自身も発病していることがわかり、楽泉園での療養生活を余儀なくされる。以来、今日に至るまで、70年以上もの歳月を療養所のなかで過ごしてこられた。
 講演では、湯之沢で町の子どもたちと分け隔てなく遊んだ時代のこと、青年期にハンセン病が悪化し、「熱こぶ」で非常に苦しまれ、20歳まで生きられないだろうと悲観されたこと、副腎皮質ホルモンの投与で劇的に回復され、その後、園内や草津町のさまざまな仕事を経験されたことをいきいきと語られた。
 園内の作業としては、テレビ係(園内に3台あったテレビとテレビ室の管理など)、新聞配達、入室患者の看護、養豚(屠殺を含む)、歯科技工士の助手、火葬などを経験された。また町でも、土木作業などに従事され、たまった賃金は、いわゆる三種の神器を購入できるほどだった。(女性は町の旅館で皿洗いなどの業務に就くこともあった。)特に町での仕事は、園外の人々のなかで働くことが嬉しくてたまらなくて、頑張りすぎてしまい、そのために体調を大きく崩してしまったという。
 特に印象的だったのは、第一に、石浦さんと孫香花さんとのことである。楽泉園で看護助手として勤務されていた孫さんに出会い、孫さんと一緒に日本全国を車で旅行できたこと、孫さんのご家族にごく自然にあたたかく迎えられたことが、石浦さんに大きな自信と勇気を与えたということだった。人との出会いが人生にもたらすものの大きさをあらためて思い、深い感銘を受けた。現在長崎の港外、かつての炭鉱の島高島に住んでおられる孫さんは、今回の講演のため、草津まで石浦さんを迎えに行かれ、そこから東京まで付き添って来てくださった。
 第二に、ハンセン病の病態や療養者の境遇は千差万別で、個人差が大きいということ、菌検査で菌がほとんど検出されないのに後遺症が大きい人もいれば、菌がいつまでも検出されるのに、病変が少ない人もいること、また食糧難の時代に、食べることに苦労した人も多いなか、石浦さんご自身にはそういう記憶がないこと、ご飯に砂糖をかけて食べさせてもらった思い出さえあるのだということだった。
 第三に、戦後の療養所入所者が園内・園外の多種多様な仕事に従事していたことである。聴講者のなかから質問が出たように、隔離の時代にそれだけ入所者の労働力が園外で必要とされていたことも意外であるが、それだけの能力・体力・意欲のある人々が依然としてハンセン病故に療養所内に留まらねばならなかったという事実を、石浦さんのお話は浮き彫りにするものであり、興味深かった。
 石浦さんのお話は、これまでの講演では聞けなかった事実を、これまでにない切り口でいきいきと語るものであり、参加者全員が非常な関心を持って聞き入っていた。講演終了後も、若い人々が石浦さんを囲んで長時間話し込む姿が印象に残った。(報告/好善社社員 藤原真実)













ハンセン病を正しく理解する講演会 
2014 
関西の部
6月28(土) 日本キリスト教会 西宮中央教会


講演 : 「ハンセン病問題が問いかけていること」
- 無らい県運動と菊池事件 -



ハンセン病国賠訴訟西日本弁護団代表


講師:徳田 靖之氏



 
 前日からは、雨の予報が出ていたが、幸いに曇り空。会場の西宮中央教会には、好善社社員と応援の関学大の宗教総部の学生によって受付が始まった。会場に入ってくる顔ぶれは、例年の参加者に加え、新しい顔ぶれも散見された。開会5分ほど前に、徳田先生が会場に入られたので、定刻に開会した。
棟居代表理事の挨拶、川ア理事の講師紹介に続き、講師の徳田先生の講演が始まる。
ご自身のハンセン病問題との出会いは20年足らずで新参者だという出だしの言葉が印象的だった。そして、国賠訴訟を引き受けたのは、入所者の方々の鋭い問いかけに突き動かされたこと。原告の方々との闘いで多くの出会いをしたことを丁寧に話された。続いて本題の「無らい県運動」の時代背景、国民(私たち)がどのようにハンセン病患者を密告し、強制隔離政策に無自覚に荷担していったのかを丁寧に説明された。この風潮が、50年前の菊池事件の背景になったのだと。今再審請求の壁になっているのは、遺族の「これ以上、騒いでほしくない」という深い苦悩に満ちた想い。しかし、国民的運動として、私たちの責任として再審請求を検察庁に求めていきたいと訴えられた。
徳田先生の菊池事件の詳細に入ると、熱がこもり、予定時間をオーバーしたため、質疑応答は割愛して講演を終了した。聴衆は75名であった。
演終了後のお茶の会は、徳田先生を交えて、川ア理事の司会で、自己紹介と一言を伝え合った。短い時間であったが、参加者の活動やハンセン病問題へのかかわりを共有することができ有意義な時間であった。お茶会の参加者は、約35名。(報告/好善社社員・長尾文雄)


 冒頭で講師の徳田先生は自らのハンセン病問題との関わりの中で、ご自身が弁護士でありながら、この問題に向き合えていなかったことに対する自己反省も込めながら、「傍観者という名の加害者」のお話をされた。今回の演題にもある「ハンセン病問題が今、問いかけていること」は今なお根深く残っている偏見や見過ごされてきた問題についての講演内容では当然あったのだが、「傍観者という名の加害者」はまず大きく私の印象に残った言葉で、様々な問題がありながら傍観者であること、傍観者を装うことは、実は重大な罪を犯してしまっていることなのだ、ということを改めて心に刻むことができた。もちろん「国」に対する責任を問うことは必須であるが、「私」という立場でその問題をとらえる視点が徳田先生の生き方の中に強く貫かれていることを感じさせられた。
 さて、私はハンセン病療養所との関わりを持って30年になるが、今回の講演会でお話しされた「菊池事件」については何も知らずにいた。私にとっての衝撃は、その事件でF氏に死刑判決が下され、死刑を執行されたその日に、奇しくも私がこの世に生を授かったということだった。法治国家で憲法が定める裁判の中で、なんら人権も守られず、ただただハンセン病に対する大きく歪められた偏見で一人の方の人生を、命を奪ってしまった。私は今年52歳になるが、半世紀以上に亘ってもこの過ちに最高裁はなんら謝罪をしていない状態が続いているという事実。国策として展開されたハンセン病隔離政策、「無らい県運動」が、この事件に象徴されるように、国を挙げて大きな過ちを繰り返し犯してしまい、また国民である「私」個人もそれを許してきてしまったことへの反省がないままにいることの責任を先生のご講演を伺いながら考えていた。
 現在、先生が突き動かされるようにこの問題に関わり、再審要請運動を国民的な運動に向けて働かれていることが熱っぽい語りから伺うことができた。今後二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、ハンセン病隔離政策で辛酸をなめた方々の犠牲を無にしないためにも、できるだけのことを伝え、風化させないことがやはり私に課せられた責務だと再認識することができる講演会であった。(感想/好善社賛助会員 枝川 豊)