ハンセン病を正しく理解する講演会 
2016 
関西の部
6月18日(土) 日本キリスト教会 西宮中央教会


講演 : 「らい予防法廃止から20年」
- 人間回復への願いと私の闘い -


NPO IDER(アイデア)ジャパン代表
元国立療養所多磨全生園自治会会長


森元 美代治氏




 
 今年は「らい予防法」廃止から20年という節目の年として、関西の講演会を開催しました。講師として、鹿児島県奄美群島喜界島出身で元多磨全生園入所者自治会会長の森元美代治さん(78歳)をお招きして講演を伺いました。森元さんは、少年時代にハンセン病を発症して国立療養所奄美和光園に隔離入園、その後大学進学のため東京の多磨全生園に転園。慶応義塾大学法学部を卒業して信用金庫に入社。しかしハンセン病再発により多磨全生園に再入園。1996年の「らい予防法」廃止を機に、実名をカミングアウトし、ハンセン病の啓発活動に国内外で積極的に取り組まれています。約70分の講演の後、同伴された美恵子夫人からも、10分間のお話を伺いました。
今年は日程を早めたことも影響してか、参加者は例年より少ない63人でした。講演は具体的で分かりやすく、森元さん特有の臨場感あふれる内容でした。参加者からは「森元さんの本音(真実の声)が聞けて最高の収穫だった」「自らを証しする力強い歩みに圧倒された」「人間性回復への願いがよく分かった」「ご夫婦のお話が聴けてよかった」「的を射たお話の内容と森元さんのお人柄に感動した」というような感想をいただきました。
(好善社理事/川ア正明)

 今回の講演会は「らい予防法廃止から20年」というテーマのもと、まさにこの法案の廃止運動に関わり、国と闘われた森元美代治さんのお話しを伺うことができました。森元さんは、当時多磨全生園の自治会長として尽力された方です。テーマの副題に「私の闘い」が掲げられていましたが、その闘いは国との間だけでなく、療養所内での闘い、家族との間での理解や和解を求める闘いでもありました。
森元さんの転機は多磨全生園の自治会長に就任された1993年に遡ります。同年、大谷藤郎さん(旧厚生省医務局長・国際医療福祉大学学長)との出会いから「らい予防法の全廃」を目指すべきと示され、勇気を得て「らい予防法の全廃」を提唱されます。しかし療養所内では「全廃」か「一部改正」かを巡って激しい意見の対立があったことを語って下さいました。「一部改正」を希望する元患者さんたちの背景には、元患者さんたちが国に依存しなければ生きてゆけない生活環境に置かれていた実態があったことを知らされました。
また「らい予防法廃止」を巡る人権を回復するための闘いの中で、森元さんは実名を公表されたのですが、兄弟や親せきの一部から「これ以上苦しめるな」と反対を受け、確執が深刻になったことも語られました。それでも「自分が変われば社会は変わると信じて、これらの声に耳をかさなかった」との森元さんの言葉から、自分の信念との闘いであったのだと感じました。
講演の後半では、引き裂かれた家族の絆が再び回復された時の感動と喜びを、森元さんは声を震わせ涙ながらに語られましたが、家族の絆の深さ、重さを教えられました。また、森元さんのように家族との繋がりを回復できた元患者さんたちが一体どれだけいるのかと、現在の入所者の方々のことも思いました。そういう意味で、日本の「ハンセン病問題」は、予防法が廃止されて20年経った今も続いていることを再確認させられました。
そして、森元さんの「私たち自身が変われば、社会は変わる」という信念に立って歩んでこられたお姿から、あなたはどうなのかと問われた気がしています。
(好善社社員/渡辺圭一郎)









 



ハンセン病を正しく理解する講演会 
2016 
関東の部
6月25日(土) 国立ハンセン病資料館・映像ホール


講演 : 「らい予防法廃止から20年」
- 人間回復への願いと私の闘い -


NPO IDER(アイデア)ジャパン代表
元国立療養所多磨全生園自治会会長


森元 美代治氏



 
 関東の部の講師は、当初現多磨全生園入所者自治会長佐川修さんの予定でしたが、佐川さんのお体の具合により急遽、1週間前関西講演会講師を務めていただいた森元美代治さんに重ねてお願いすることになりました。会場の資料館には、昨年同様に一般市民の他、キリスト教学校の中学生、複数の教会関係婦人会などがグループで参加し、124名の人々が会場を埋める盛会となりました。
森元さんは、講演の冒頭、昨今話題になっているかつてハンセン病患者に対して行われた「特別法廷」と、患者家族が起こした国賠訴訟のことにひと言触れ、講演に入っていかれました。
特別法廷については、「手続き上誤りがあった」との最高裁の謝罪ではなく、特別法廷そのものが違法(憲法違反)であったことが明らかにされねばならなかった。家族の訴訟については、600名もの家族が原告になったことは驚きであり、喜ばしいことであった、時代は変わって来た、と述べられました。
その後の講演の内容は、関西での講演と重なるので、特に印象に残った諸点を記します。
1.森元さんは、1950年代の予防法改正闘争の中から長島愛生園内に設立された岡山県立邑久高校「新良(にいら)田(だ)教室」の1期生として学び、大学入学を果たしましたが、それは中学生時代にハンセン病を発症し、友だちから差別を受けた時の悔しさを晴らすためであった。またその際療養所の主治医が退園をどうしても許可してくれなかったので、許可なしで退園し、そのため療養所からは「逃亡」患者扱いとされた。卒業後信用金庫に就職して社会生活をしたが、大学でも社会生活の中でもハンセン病であったことを口外することはなかったし、できなかった。
2.その後ハンセン病が再発し、再び多磨全生園入園を余儀なくされた。その時は「神はいない」とほんとうに思い、教会からも離れた。そうした中、英語ができるということで、インドネシアやフィリピン人の入所者に日本語を教えることなどをし、そこでまた妻となった美恵子さんと出会うことにもなった。しかし、外国人入所者は日本語もできないし、パスポートも与えられず、ほんとうに気の毒な状態におかれていた。
3.やがて、「らい予防法」改正運動が起き、自治会長としてそれに携わることになり、苦労の末「廃止」に至らせることになった(その内容は関西講演と重なるので省略します)。
「らい予防法」廃止後、森元さんは実名で著書『証言・日本人の過ち−ハンセン病を生きて』を刊行。その時家族は出版には賛成してくれたが、それを売ることは反対、またテレビ等に出ることはやめてくれと言われた。このように、家族の問題はなかなか複雑で根深い。しかし幸いにも、最も強く反対していた長兄が死んだあと、縁が切れていた家族関係が回復され、今は子や孫の家はどこでも歓迎してくれるようになった。
4.最後に、聖書の中のイエスのたとえ話「よいサマリア人」を紹介し、ハンセン病だけでなく、いろいろな差別に苦しむ不幸な人々に、イエスが教えてくださったように私たちがみな「隣人」として関わるならば、差別だけでなく、戦争もなくなり、世界は平和になるはずだと強く訴えられた。

ハンセン病回復者の証言には、初めて聞くことも多く、私たちはこの方たちからまだまだ聞いておかなければならないことを改めて思わされました。
(好善社理事/棟居 勇)