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■ 「戦後日本デザインの軌跡 1953-2005 千葉からの挑戦」展
  図録に収録のインタビュー
■ インタビュー 松戸市教育委員会学芸員 森仁史氏 千葉市美術館学芸員 西山純子氏
■ 2005/11/11


●デザイナーとしてのキャリアは何年になりますか。
宮城
かれこれ32年ほどになります。その半分の15,6年が浜野商品研究所時代ですね。

●浜野商品研究所の、普通の企業デザインとは違う仕事のやり方が、その後に大きく影響したのではないですか。
宮城
そうですね。自分たちの生き方をどうすべきかが基本であって、マーケティングではないんですよ。まずコンセプトありき。こういう考え方は当時まだ一般的ではなかった。コンセプトがないとデザインだけではダメ、という考え方はその後にずいぶん参考になりましたね。

●確かにマーケティングというのは今まであったものをどうするかであって、新しいものは対象としないわけですからそのやり方は正しいと思いますが、一般企業にまだそのような意識のなかった1970年代にあって、行き詰まることはなかったのですか?
宮城
波長の合う企業と組んだ、ということはありますね。またたとえば〈HD-1〉の時、企業としては疑心暗鬼なわけだけれども、僕たちはネットワークを使ってアメリカの通販会社に売り込んだり、製作の前にインタビューをして反応を得たりする。すると企業もああ、そういうルートがあるのかと。そういうことをひとつひとつ積み重ねて、じゃあやってみようかということになったわけです。

●それは自分たちの生き方を企業に提案するということだと思うのですが、そのアイディアはブレーンストーミングか何かで生まれてくるのですか?
宮城
それよりも外部の知恵が大きかったですね。東急ハンズの時はマガジンハウスの現社長や小林泰彦さん、倉俣史朗さんなどそうそうたるメンバーが集まりました。社内の人にしても釣人がいたりダイバーがいたり、それぞれベクトルは違うんだけど面白かったですよ。

●やはり若かった、ということはありますか?
宮城
それもあるけど今より遥かに閑でしたよ、精神的に。休みは少なかったけど昼間からルアー削ったり野球したりして(笑)。組織のあり方が違ったんですね。インターネットもないから体を動かさなきゃ何も始まらない。作業自体は今よりはるかに時間がかかったでしょうけどね。

●ネットワークとしてのデザインのあり方、ということですね。
宮城
とにかく業務が多岐に渡ってましたからね。たとえば商業施設ならお金や不動産情報、建築の構想、テナント集め、施設の名前、ロゴ、イベントやサイン、CFなど。自分たちだけではできないわけですよ。

●それが宮城さんの多岐にわたる仕事の基礎になりましたか。
宮城
僕の財産ですね。大企業のなかだって経営者や営業などと連携しなくては。デザインだけをやって、自分に小さく枠をはめるのはデザインの仕事の対極にあるスタンスだと思いますね。

●浜野さん流のやり方は、1970年代には一般的ではなかったけれども、徐々に社会が変わって受け入れられるようになったと思いますが、変わり目を感じましたか?
宮城
僕はまだ変わっていないと思っています。もっとひとりのデザイナーの役割は広くあるべきだと。いろいろと考え、手も動かさなくてはならないと。

●そうかもしれない。バブル期まで量的な拡大があっただけで、産業構造は変わっていないと思う。バブルがはじけてようやく「質」が問われるようになり、浜野流の考え方が共有されつつあるような気はします。
宮城
浜野さんには先見の明があって、人間は両生類だ、自然も都会も必要だと言ったことがある。それから大企業のすることは基本的に間違っているとも言っていた(笑)。大企業とは違うことを、自分たちでなくてはできないことをしようと。総じて言うと、一匹狼としての生き方を教わりましたね。

●その方が楽しい、ということでもあるわけですよね。
宮城
そうですね。

●ところで、基本的に日本語を用いているがゆえに本来国際的になりにくい(けれども国内での評価が不当に高い)グラフィックデザインに対して、IDのデザインは国際市場へどんどん出てゆけますよね。国際的になればなるほど依って立つところ―それはたとえば伝統であったり、色やかたち、コンセプトそのものであったりーの説明を求められると思うんですが、そのあたりはいかがですか?
宮城
難しいですね。今のようなグローバルな時代になると、世界で同時多発的に同じ製品が生まれたりするし。もちろん根拠のあるものとそうでないものはすぐわかりますが。

●浜野商品研究所のスタッフは多趣味だという話がありましたが、それは仕事とリンクしていますよね?
宮城
浜野さんは趣味を仕事にしている典型ですね。僕は仕事が趣味になっちゃったけど。最近は使う立場のプロになろうかと思うようになりましたね。

●「使う」ということと重なると思うんですが、デザインも仲間ボメするだけでなく、批評する場が必要だと思うのですが。使うプローその姿勢をぜひ批評に活かしてほしいですね。
宮城
そうですね。たとえば今の日本車のデザインについて文句を言う人がほとんどいないのは寂しいですよね。僕は家の設計に三度関わっていますが、日本の家電製品のデザインの醜悪さを痛感しました。売り場で目立つことしか考えていないんですね、半年前の製品より豪華に見える、とか。

●それはプロダクトへの評価の低さに由来するのではないですか? 良いものはもっと誉めなければ。広告の世界に比べると不当に評価が低いと思います。
宮城
それに、製品が売場にでる前に、もう次のデザインを考えるような発想がよくないですね。本来は外形を10年使い、中身のチップだけ変えるようなシステムを作れたらよいのですが。

●今後の展望は何かありますか?
宮城
身の回りのモノをすべて自分のデザインに置き換えてゆくという野望はありますよ。炊飯器や冷蔵庫、洗濯機、携帯電話、デジカメとか。自分が欲しいものは100万個は無理でも1万個は売れると思っています。それ以上を望むと、カタチや値段の問題がでてきますから。

●売る側の体系の問題は大きいですね。一律的な判断しかできないとか、少量生産に対応できないとか。例えば(イタリアのように)少量生産に対応できる国の方が良質で息の長い製品を生むということがある。こうした状況を変えるには、やはりユーザー側からのリアクションが必要なのでは?
宮城
それよりも売る側の、大量に売ることこそ良い、急成長こそ良いという発想を変えなくてはダメですよ。少しずつ、ゆっくり進む発想が欲しい。一律ではなく、業種によって考え方は違ってもいいし。たとえばfrom 1stビルの時も、容積率100%が常識だった時代に、そうでない方が楽しい生き方ができる、家賃が1,2割高くても、そういう生き方を選ぶ人がいるはずだという発想で動きました。あとやりたいことは、「こういう商品はダメだ」という意思表示ですね。

●現況は、デザインの「質」よりも、売れるという数値的な問題になり易いんですね。目標値と達成値、というような。
宮城
そういう傾向は日本だけなのでしょうか。

●どこでも数は問題になるでしょうけど、(イギリスの例などを考えると)内容を審査する質の高低はあるでしょうね。ところで経済産業省に「戦略的デザイン研究会」があって、約40の提案のなかに大学の人材をデザイン行政/デザインマネージマントに登用する、という計画がありますね。
宮城
大学について言うと、僕は大学で何も教わりませんでしたね(笑)。僕も去年まで千葉大で演習の非常勤講師をしてたんですが・・・難しいですね。デザインには絵を描いて人に伝えるスキルも必要だしバックボーンも必要、マネジメントや金儲けの仕方も必要。仮説をいかに多くだすかという、柔軟な発想の仕方も必要ですしね。

●その時に、歴史的なパースペクティヴを持てるかどうかは重要なのではないですか。日本にもすでに長いデザインの伝統がありますが、デザインミュージアムやデザインソースを蓄積する場がないのは不幸です。実は大正10年に高等工芸ができる時、イギリスの思想を下地に学校と博物館がセットで構想されていた。にもかかわらず学校しかできなかった。ですからこれは100年解決していない問題なんですね。
宮城
学校の設備も問題ですよね。いろいろな企業の最新のイスを寄付してもらって学生たちが座ってみるとか、そういう場があったらいい。デンマークの工芸博物館だったか、学習室に素材別に優れたデザインのモノが並んでいて触れるんです、いいなあと思いましたね。

●美術館ではデザインの展覧会が増えつつあります。生活に直接関わるということではファインアートより大きいし、またファインアートの枠自体を広げようという動きもあって。本来は経済産業省の施作などで展開すべきことですが。デザインの展覧会に人が集まるというのも、そういう場がないからなんですね。ところで今は何を手がけられていますか?
宮城 今はアスクルの広大な新オフィスを手がけてます。でも僕は自分から仕掛けるのではなく、来た仕事に対応してやってゆくタイプなんですね。

●剣持勇もそうでしたね。基本的に来た仕事を受けて、仕事のない時はプロダクトの研究をしようか、という。宮内嘉久という評論家が剣持を「時務に殉じた」と評しましたが。タウトとの出会いにしても偶然なんです。宮城さんの仕事も時代が呼んでいるという感じがありますね。
宮城
僕、運とか縁とかとか信じますよ。運や縁でつながった人と信頼関係を築き、その人の期待に応えようとしてここまでやって来た部分はありますね。

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