『異文化の理解』
P・ラビノー著、岩波書店、1980年。

この本は絶版です!


訳者あとがき

 本書はPaul Rabinow : Reflections on Fieldwork in Morocco, University of California Press,1977の全訳である。原著の内容と性格を考えて、編集部と相談の上、訳書名を『異文化の理解ーモロッコのフィールドワークからー』とした。
 ポール・M・ラビノーについて簡単な紹介をしておこう。彼は一九四四年六月二一日生まれのアメリカ人である。一九六五年にシカゴ大学を卒業後、パリに行き高等学術研究所第六セクションで学んでいる。一九六七年にMA、一九七○年にPh.Dを、いずれもシカゴ大学で取得している。ニューヨーク市立大学リッチモンドの助教授を経たのち、一九七八年からカリフォルニア大学バークレー校の人類学準教授の地位にある。
 翻訳に際して彼が送ってくれた履歴書によって、この間に書かれた著書、論文、短文等の題目を拾うと、彼のこれまでの関心の輪郭がほぼ描ける。フィールドとして目を向けているのはモロッコとヴェトナムであり、一見かけ離れたこの二つの地域は旧フランス植民地ということで共通項を有する。理論的な面では、クリフォード・ギーアツやロバート・ベラーの影響は当然であろうが、最近はことに解釈学に強く惹かれているようである。
 本書の前後に彼は次の二冊の本を刊行している。
 ○Symbolic Domination : Cultural Form and Historical Change in Morocco, University of Chicago Press, 1975.
 ○Interpretive Social Science : A Reader, University of California Press, 1979.(Willam M. Sullivanとの共編)
 前者は本書の題材ともなったモロッコ調査の結果を、よりオーソドックスな人類学の記述法でまとめたものである。聖者スィディ・ラハスンについての伝説も、当時の歴史的背景とからめて紹介されているので、興味のある方にはぜひ一読をお勧めしたい。後者はいわゆるリーダーであるが、ロバート・ベラー、スタンレイ・フィッシュ、H-G・ガダマー、クリフォード・ギーアツ、アルバート・ヒルシュマン、トーマス・クーン、ポール・リクール、チャールズ・タイラーの論文が収められている。ラビノーの関心をよく反映した書である。
 さて、今日社会科学の分野においては、異文化の中での現地調査が盛んに進められている。そして、かつての宣教師たちや探検家たちの報告に比べれば、遥かに系統だった、また綿密な分析の加えられた論文や著書が次々と公にされている。言うまでもなく、異質な文化現象の複雑な様相を美事に説明してくれる書に出会ったときは、知的興奮はいやが上にも沸き立つものである。だが、異質な文化に関する記述であるというただそれだけでも、読む人は心躍る気になるし、そのことがこうした書物の魅力を形作っているように思われるのである。
 しかしながら、異文化の中での調査は一体どのような意味を持っているのか、という問題、例えば本書で展開されている、フィールドワークという行為は当の相手に何をもたらし、調査者をどう変えるか、またそこで共有されている世界はどのような性質のものか、という問い、をめぐる考察はそれほど多くはなされていない。こうした思索を真剣に行なうことは、恐らく実際の調査以上に精神の酷使になるかもしれないし、また、そうやっても結局は机上で論議が空転するのがおちだとして、敬遠されるのかもしれない。それだけにラビノーの携えた問題意識は刺激的に感じられる。彼は本書の中で、アリーをはじめ、リシャール、イブラヒーム、ブン・ムハンマドを、それぞれ異なった意味ではあらうが一様に境界領域的人間として位置づけた。本書の内容自体もまた境界領域的な特徴をもつものと見做すことができる。それはフィールドでの経験を客観的というスタイルをとって記述する立場と、フィールド経験を自分の体験のストーリーとして記述する立場との境界領域にあるということである。後者の立場にかなり近いようであるが、依然境界領域的であるところに本書の面白さがある。更に言うならば、ラビノーとインフォーマントたちとの間に成り立った世界が、弁証法的プロセスによって構築され、それ故絶えず揺れ動いていたのと同じように、本書も、一人の人類学者としてのラビノーと、一つの生きざまを晒す人間としてのラビノーとの間の弁証法的プロセスの中に漂っていると言うことができる。従って本書はラビノーにとってあくまで一つの到達点である。そして同時に、われわれ自身が、それぞれの仕方で、本書で論じられた問題への解答を求めて内省的旅へと出立するよういざなってもいるのである。
 ところでラビノーは、調査という行為が暴力的意味をもつことを鋭く指摘している。この問題は比較的手短かに論述されているが、訳者としては最も考えさせられることの多いテーマの一つであった。彼が、村人たちにその村にやってきた理由をうまく説明できなかったということも、これに係わっている。最近におけるたいていの異文化研究、特に第三世界におけるものは、未開拓の研究分野を切り開くためとか、従来の研究を深めるためとかいう名目による精神的後盾と、母国からの財政援助や被調査国の政府による調査認可といった実際的後盾との双方を備えてなされるのが普通である。それぞれの調査を被調査者がどう受け止めるかは、状況により千差万別であろうが、こうした構造自体が一種の暴力的作用を生み出していることは明白である。ラビノーも言うごとく、そうしたことにまるで考え及ばない調査者、あるいは無頓着な研究者もいる。また、それほどこういったことを取り沙汰する必要もない状況もあるだろう。だが、少なくとも、それぞれの部族、集団、地域社会などの世界観や固有の価値観を探っていこうとする研究にあっては、こうしたことに繊細でなければ、調査中に生ずる相互作用の本質を深く理解できず、従って対象への接近も最初から限界性をもつものになるのではなかろうか。
 本書の翻訳をすすめるに当って、東京大学宗教学研究室の柳川啓一先生にたいへん御世話になった。先生がなされた北海道やハワイでの地域調査には、研究分担者として何回かお伴をさせて頂いたが、その度に、調査をやることはどのような意義があるのだろうかと呻吟する私を眺めていて、この本の翻訳を仲介して下さったと考えている。
 現地語の発音表記に関しては東京外国語大学AA研の中野暁雄先生に御教示いただいた。どうやらかなりの皮肉屋らしいラビノーの文章の表現上の細かなニュアンス等については、東京神学大学のデヴィッド・リード先生に多々御助言を賜った。また、編集部の大塚信一氏には、いろいろ御助言と励ましを頂いた。こうした方々に、この場を借りて深く感謝の意を述べさせて頂きたいと思う。
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