「理解」という名の「誤解」(四)

 ハワイでの二回にわたる宗教調査は意義深く感じられ、もっと継続したく思いました。でも、ハワイの日系人ばかりを見ていても、ハワイの特殊性がなかなか分かりません。米本土では、日系人はずっと少数派です。ハワイと同じ位の日系人がいるカリフォルニアでも、比率でみれば、ずっと少なくなります。ロサンゼルス、サンフランシスコ、サクラメントなどでも、大体全人口の一%前後といったところです。ハワイのように、州知事まで日系人が出現するというのとは、だいぶ事情が異なります。

 そのようなことを考えて、舞台をカリフォルニアに移すことにしました。純然たる研究上の場所選択であったのですが、そのときもまた、仲間たちから羨望のまなざしを受けました。なるほど考えてみれば、アメリカ西海岸は、日本の若者が好んで行く地であります。彼等が、大学のマ−ク入りのTシャツを買うために、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)やUCB(同バ−クレ−校)などの購買部に群がる、というのは有名な話でありました。

 しかし、ハワイといいカリフォルニアといい、かつて日本人移民が夢を背負って海を渡り選んだ地と、現在の若者が余暇を貪ろうと訪れる地が重なりあうというのも、何かの因縁があるのでしょうか。

 ところで、ハワイ調査とカリフォルニア調査の間に、私は一冊の本を翻訳する機会がありました。P・ラビノ−著『異文化の理解』(岩波現代選書)です。アメリカ人の人類学者が、モロッコのある部族の社会組織や宗教を調査し、その間の体験を顧みて綴ったものです。ふつうの人類学的書物とやや趣が異なり、調査する人とされる人との間に生ずる心理的関係に焦点の当てられた本です。

 私も当時似たような関心を抱いていたので、興味をもって訳しました。ラビノ−は、他者理解という「迂回路」を経ることによって自己理解に到達する、という道程を示したかったようです。

 彼の率直な叙述には教えられる点がいくつかありましたが、同時に、現地調査をやる意味はどこにあるのか、といった問には、自分自身で回答をいつまでも求め続けていかなければならないと感じました。

 抜けるような青い空、ジリジリと焦げるような暑さのロサンゼルスに、三週間ほど滞在してから、霧たちこめるサンフランシスコに移ったのは、昭和五十六年の七月末のことでした。

 ロサンゼルスが近代型の大都市とすれば、サンフランシスコはあちこちにスペイン風の郷愁を残す中都市ということになりましょうか。ロサンゼルスが名古屋と姉妹都市であり、サンフランシスコが大阪と姉妹都市であるというのも、何となく頷けるような気もします。

 サンフランシスコは、海流の関係で一年中比較的涼しい気候です。夏にコ−トを着た婦人を見かける日もあります。ここはまた、急坂の多いことでも有名です。駐車する車は横向きにせねば危ないほどです。無謀にも、サイドブレ−キの弱い車を借りて運転していた私は、冷や汗をかいたことが二、三度ありました。

 さて、サンフランシスコでは、新宗教の一つである金光教の教会に泊まりこむことになりました。教会の日々の活動を細かく観察できますし、そこへやってくる信者との談話も容易です。金光教がこの地の日系人社会において、どのような役割を果たしているのか、どのような布教上の問題点をかかえているかなどを明らかにするつもりでおりました。

 金光教の教会は日本人街の中にありますが、教会の二ブロックほど先には黒人街があります。大通りを隔てて、日本人街と黒人街が向かい合っています。日系人たちは、この大通りの反対側の歩道をあるこうとはしません。車も向かい側には駐車させません。君子危うきに近寄らず、ということらしいのです。

 戦前は今の黒人街の一帯も日本人街であったのですが、太平洋戦争下に、十一万人に及ぶ日系人が太平洋岸から撤退させられ、中西部に収容されました。そして空になった日本人街に黒人たちが移り住んだのです。戦後戻ってきた日系人は、半分は取り返したのですが、住みついた黒人をすべて追い払うこともできず、現在のような状態になったというわけです。

 そのようなこともあり、ことに年取った日系人は黒人を嫌います。また、このあたりでは強盗事件などがよく起こります。それも、黒人少年数人が日系人の老婦人を襲って所持金を強奪するというようなことが珍しくありません。黒人への不信感が薄まらぬわけです。

 金光教の教会には、奥の部屋にモニタ−・テレビがあって、入口に誰がきたかを監視できるようになっています。それというのも、二、三年前、ここの教師たちがホ−ルド・アップに遭い、教会の賽銭を奪われるという事件があったからなのです。幸い、私の滞在中に教会では何事もなかったのですが、現地の日系新聞は、連日のように、路上等での強盗事件を報じていました。地図で調べてみますと、現場はたいてい、教会からほんの二、三百メ−トル位の所でありました。

 金光教は教団本部が岡山県にあります。教祖は赤沢文治といいます。もっとも、信者たちは生神金光大神と呼んでおります。

 赤沢文治の活動は幕末維新期でありましたが、彼の歿後各地に教会ができ、一九二〇年代末には、北米にも教会が設立されるようになりました。むろん信者はほとんどが日系人です。

 サンフランシスコ教会長のFさんは、一九五二年以来、北米布教にたずさわってきた人です。でも、少し元気がないので、若い教師たちはその点がいささか不満であるようでした。

 Fさんも息子さんを一人亡くしていました。やはりもっとも宗教心の篤い息子さんで、Fさんのあとを継いで、金光教教師になる筈でした。布哇出雲神社の宮司さんの場合といい、何か運命の皮肉のようなものを感じさせられました。

 教会内にある茶室に寝泊まりしていた私への、一種の慰問であったのでしょうか、Fさんはときどき夜遅く罐ビ−ルを袋にぶら下げて、教会にやってきました。

 「井上先生、まあ一杯どうですか?」

 そうして、よもやま話が始まるのでした。Fさんは、どちらかというと研究者肌の人で、私の調査の趣旨をよく理解し、全面的に協力してくれましたが、そうした性格のゆえでしょうか、あるいは年のせいでしょうか、自分がなし得ることの限界を定めてしまっているような気配がありました。

 話は最後には、北米布教の難しさというところに落ちつくのが常でした。回が重なると、私が質問される側になることも多くなりました。

 「どうしたら金光教を日系人以外に弘めることができるでしょうね?」

 面談調査をしているときに、逆に相手から質問や相談を受けることは稀ではありません。そのような場合には、相手についての理解の度合、問題の性質、その場の状況などを考慮しながら、はっきり意見を述べたり、曖昧なままにしておいたりします。

 もっとも答えにくい質問が、「なぜこんなことを調べているのですか?」という種のものです。ラビノ−も、モロッコの村人からこのような疑問を発せられて返答に窮したことを書いています。

 このような問への答が難しいのは、一つには答え方がいろいろにあるからです。相手の納得のいく話の次元を探り当てねばならないから、と言ってもよいでしょう。研究上、その場所や教団が重要な意味をもつ、ということで納得する人もいれば、なぜこのようなことに関わり合うことになったか、私の履歴を細かく知ろうとする人もいます。

 でも、この問が厄介である真の理由は、それが自分自身でも常日頃ひそかに心の底で抱いている問いかけであるという点にあります。突きつめれば、自分の生きざまに係わってくるという恐さがあります。ですから、通常の場合には、ここまでは踏みこまれないように会話を進めます。

 Fさんの問は、Fさんの、そして教会の抱える問題ではありましたが、それは同時に私の研究課題でもありました。何かを答えないわけにはいきません。

 もちろん、Fさんは宗教家ですし、私は研究者です。宗教家の求める答は実践的なもので、研究者のそれは理論的なものです。両者の目指すところにはおのずと差があります。

 極端な言い方をすれば、宗教家は、理論がどうあれ、結果的に金光教が非日系人にも受けいれられるようになればいいし、研究者は、非日系人への布教が成功しようが失敗しようが、なぜ成功もしくは失敗したかの説明さえつけばよい、というところがあります。

 にも拘らず、そのように割り切ってしまうと、うしろめたさが感じられてならないのです。他人の真剣な悩みを、学問的材料としてしか扱わないことに対してです。

 だからといって、Fさんの身になって、共に考えようとしても、どこか不自然です。Fさんは恐らく、残された生涯をこの地での布教にささげるでしょうし、私は、じきにそこを離れ、ちがう生活に戻る身です。立場の違う人の身になって考えることの困難さは、もうずっと以前から感じていたことでした。相手の身になったつもりで考えることはできます。でもそれはあくまでもつもりであり、一つの勝手な想像に過ぎません。

 少し話が飛びますが、「相手の身になって考える」などといった文を目にするとき、なぜか思い出される、遠い昔の一シ−ンがあります。

 ある暑い夏の日、一人の老婆が、町の大通りをとぼとぼ歩いていました。そのみすぼらしい姿から、一見して物乞いによって日を送っているらしいことが分かりました。どうやら目も悪そうです。杖を頼りにおそるおそるといった感じで道を歩んでいます。

 と、一軒の店から若い女店員が一瓶の牛乳をもって老婆にかけより、「お婆さんどうぞ」と、差し出しました。彼女に手を添えられて、老婆は牛乳を一気に飲み乾しました。そして言いました。

 「もう一本くれんかね」。

 恐らくは「ありがとう」という言葉を期待していた女店員は、困惑したような表情をして店の方を見やりました。そこには、きっとこのことを彼女にやらせたに違いない店のおかみさんの姿がありました。

 そのあとのことは余り詳しく憶えていません。なにしろ小学生の頃のことですから。しかし、女店員の、そして私の予測をも見事に裏切った老婆の一言は、妙に印象的でした。子供心には、一つのできごとのあとに、普通に予測される言葉と全く異なる類の言葉を発する人間が存在するということが、ちょっとしたショックであったのかもしれません。

 自分と大きく異なる状況にある人の心に近づくためになされる手段に一つに、「追体験」をしてみるということがあります。実際になるべくその人と同じような状況に身を置くのです。

 先の老婆を例に取るなら、炎天下に、喉をかわかせ、みすぼらしい格好をし、目をつぶって、大通りを歩いてみるのです。それをやるまでに大変な勇気が要ります。また、やったとて、本当に老婆の心に近づけるかどうかも分かりません。所詮はまねごとですから。 Fさんの問は簡単に表現されてはいますが、その背後には重い現実が隠れています。まず、三十年間、自分の抱える目標と現実との間の乖離に悩んできた一人の布教師の姿。そしてさらに、非日系人に対し防御的にならざるを得ない日系人の過去と現在。

 「黒人もメキシコ人も白人も、皆平等に教会に迎えてやるのが、教祖の教えに則っているのではないですか?」

 理論的には確かにこう言えると思います。信者たちも、否定はできないでしょう。でも、日系人がアメリカ社会で受けてきた体験の積み重なりは、これが現実化することを拒ましてしまうのです。これは悲しい現実であります。

 Fさんの問に、ほかの教団の例を挙げて、それらしい回答を酔った勢いで述べたてました。口ではいろいろ答えながら、はっきりと体験に裏づけられていなくても、もっともらしく語ってしまう学者の性(さが)を心に感じていました。

 調査時の、いろんな人との出会いは、他の人の心を思いやることの難しさ、そして自らの体験の乏しさを痛感させます。けれども、考えてみれば、日頃つき合っている親しい相手でも、深く理解することは容易ではありません。どれ位互いに理解しているかを確かめ合うのは面倒くさいことですから、誤解には素知らぬふりで会話が続くのです。むしろそれぞれが互いを適当に誤解していた方が、日常生活はスム−ズなのかもしれません。「人は自分を美しく誤解してくれる人を求める」ような気もします。 (19838月に執筆)

 

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