「サブクラブとメインクラブが持ちつ持たれつ」
『東大襖クラブ70周年記念冊子』2024年10月
私が襖クラブに入ることになったのは、今はない駒場寮に住み、少林寺拳法部に入部したことがそもそものきっかけである。当時の駒場寮は基本的にクラブ単位での入室になっていた。2年生のときまで住むことができた。寮生活をしていた少林寺拳法部の1年先輩4人のうち3人が、襖クラブにも属していた。先輩たちに代わる代わる見習いとしてついて行った。5回経験したので一人前とみなされ、首都圏のあちこちの家に広く足を運ぶことになった。2年生になったとき、今度は同室の少林寺拳法部の後輩2人を襖クラブに誘った。今度は後輩を見習いとして、いろいろ教えることとになった。少林寺拳法部でこのパターンがいつまで続いたかは分からないが、同じクラブの人から伝授してもらうので、精神的には楽な面があった。私にとって少林寺拳法部は「メインクラブ」であったが、襖クラブはいわば「サブクラブ」となったわけである。
見習い時代のあるとき、先輩に連れられ2人で五反田近くで襖を張り替えることになったが、予想以上に時間がかかって、終電に乗れなくなってしまった。遅くまでかかって相手にも迷惑をかけたかもしれないが、とくに文句も言われず、「ご苦労様でした」とねぎらってもらった記憶がある。電車もないし、どうしたものかと思っていたら、先輩が駒場寮まで歩こうと言ったので、そうすることにした。いろいろ話をしながら思ったより早く着いた。
それほど辛い仕事と思ったことはなかったが、一番気が重かったのは、ラッシュ時の満員電車に襖紙の筒を抱えて乗り込まなくてはならなかったことである。重さもそこそこあったが、それより周囲に迷惑をかけないように注意しなければならないのが一苦労であった。帰りは疲れていてもその点は楽であった。
張り替えるためにはまず襖を外すが、時々、「えっ、外すんですか」と慌てる人がいるのがおかしかった。押し入れにいろんなものが詰め込んであるのを見られるのが恥ずかしかったようである。しかし、外さないで張り替えができると思う人もいるのだと、逆に意外であった。
著名な作詞家の家に行ったことあるが、けっこう広い屋敷であった。こういう家でも学生アルバイトに頼むのだと思ったりした。同じ団地の複数の家に行ったこともあるが、一人が他へと紹介したらしい。まあ好評だったのだろうと勝手に思っている。お昼を用意してもらっていたが、「前の家ではどんな食事だったのか」と聞かれたりした。私は別に何が出されようと気にしてなかったが、やはり団地の住民同士の付き合いだと、そういうことも気になるものだと知った。これも勉強であった。
大学紛争が続いていた頃、襖を張りに行ったのがたまたま機動隊員の家であったことがある。終わってから一家の食事に誘われ、機動隊員から、「デモで石を投げているような学生がいるのに、君は立派だ」とか言われて返事に困った。さすがにデモに行ったこともありますとは言えなかった。
襖張りで身につけた技術が妙なところで役立ったことがある。当時、少林寺拳法部では駒場祭のときにダルマの神輿を作って、部員が担いで大学近辺を練り歩くことになっていた。何人かで担ぐけっこう大きなダルマであったので、作るのにそれなりの日数がかかった。竹で骨組みを作って、そこに紙を何枚も重ね張りし、できあがると赤いダルマの顔を描く。先輩の誰かが考え付いたのだろうが、クラブにとっては一大イベントであった。寮に住んでいた部員が大半の作業をすることになるのは致し方なかった。ここでダルマを作るための紙張りをする際に襖張りの技術が活かされたのである。何枚か紙を重ね張りしていくから、歪みを少なくしていくにはそれなりの技術が必要である。形のいいダルマができたのは襖張りで鍛えた技術の賜物と思っている。
今でもそうだろうが、一年のなかで襖張り依頼の多寡は時期によって変わった。年末はやはり書き入れ時であった。どこの家も同じようなことを考える。部屋をきれいにして新年を迎えたいと思う。なので例年年末は襖張りのバイトで明け暮れた。他のバイトに比べて割がよかったので、2日ほど仕事をすると鹿児島までの往復の電車賃を稼ぐことができたと記憶する。当時は飛行機は学生には贅沢きわまりなかった。鹿児島まで直行する急行「霧島」や特急「はやぶさ」があったから、故郷の川内市(現薩摩川内市)まで、特急で22時間、急行で26時間かけて帰省していた。指定席がとれず、立ったまま車中で夜を過ごしたこともある。現在なら飛行機で地球の反対側までいくほどの時間がかかった。とりもなおさず、その旅費が2日程度で稼げたのは有難かった。
襖張りの技術は、自分の家の襖張りにも活かしたことがある。使っていた刷毛その他の道具一式は、大学を卒業してもずっと持っていた。還暦を過ぎてしばらくした頃、もう自分でやることもないかと思って、道具を捨てることにした。長く使っていなかったが、若い頃の記憶を溜めてくれていたような気がして、少しだけ寂しい気がした。
*上記に出てくる先輩というのは4期の都築不二勝氏である。
都築さんは1998年に死去された。
下記はその追悼号に寄せた記事である。
「得がたき先達を偲んで 」
鹿児島からぽっと出てきたばかりの私にとって、すでに寮生活一年を経験していた都築さんは、都会生活に馴染むための、まことに良き「先達」でした。そもそも少林寺拳法部に入部したのも、都築さんたち先輩寮生に巧みに説得されたからです。とはいえ「少林寺は楽しいぞ」という説得の内容に偽りはなく、駒場寮で有意義な二年間を過ごせました。
都築さんは東大では有名なアルバイトの一つであった、襖張りクラブの先輩でもありました。見習として、何回かいろんな家の襖張替えに連れていってもらいました。一つの仕事を為すに当たっての適切な手の抜き方と、しかし、最後はきっちり締めるやり方とを身をもって教わりました。
後輩に対するマージャンの手ほどきにも熱心でありました。しかし、貧乏学生の私を気遣って、滅多に賭けマージャンとなることはありませんでした。たとえ賭けたとしても、勝った者がラーメン一杯の代金を得られる程度のそんな賭け方でした。しかし、それでも十分、世間で恥をかかない程度の腕前にしてもらったのです。
「口内炎には蜂蜜を塗っておくといい」といった類の、暮しの智慧が豊かであったのも都築さんでした。なぜか世間のことを良く知っていました。人付き合いも上手でした。彫りの深いマスクは、女性にはきっと魅力的であったと思います。しかし、女性の口説き方は秘伝であったらしく、教わった記憶がありません。
今になって思えば、後輩にはこういう風に接するのだと言う一つのモデルを刻んでもらったのです。しつこくもなく冷たくもなく、まことに人情の機微を若い頃から知っていた人でした。あのような人を近頃は滅多に見つけることができそうにありません。