ハワイ日系宗教の模索とジレンマ
―言語問題を中心に―

 

一、はじめに

件のアルピニストとの問答をもじってみるなら、「なぜハワイで布教をするのか」という問には、「そこに日系人がいるから」という答が返ってくることになろう。確かに、現在ハワイの全人口の1/3近くといわれる日系人の存在そのものが、日本の各教団をしてハワイに目を向けさせる大前提となっていることは言うまでもない。北米やブラジルなどへの日本宗教の進出についても同じことが言える。

けれども、いかに多くの日系人がいるからとはいえ、あの狭いハワイに日本宗教が続々と渡っていっているという現象は耳目を惹くものがある。毎日新聞に掲載されていた「宗教を現代に問う」のシリーズが日本宗教の海外進出に注目し、これに「神々の輸出」と名づけながら、企業の海外進出とパラレルにみていこうとしたのも無理からぬところがある。だが、同じ海外進出でも、企業の場合と比べれば、宗教団体の場合は、必ずしも利潤を求めているのではない点(実際,日本円の持ち出しという結果になっていることも少なくない)と、非日系人を市場とすることは稀である点で大きく異なる。また細かく見ていくと、それぞれの教団がハワイで布教を始めるようになった契機は必ずしもステレオタイプ化しているわけではないし、布教開始後、今日に至る経過も多様なものがある。

ところで、歴史的に眺めても、日本は儒教、仏教、キリスト教などを外国から受容する側にあったのであり、神道思想もこれらの強い影響の下に形成されたという過去をもつ。したがって、受け入れた宗教がどのように変容したか、あるいは受け入れた宗教によって日本人の宗教生活はどのように変化したかという点には、多大の関心が払われてきた。その結果、基層進行とか、土着化とかいった概念が提出されてきている。これに対して、「日本産の宗教」が海外に進出していった歴史はまだ浅いから、これら「輸出された宗教」が、そこでどのような機能を果たしているのか、どのような変容を遂げたか、どのような問題に直面しているのか、といったことに関する研究はまだ少なく、ようやく緒についたばかりであるといっても過言ではなかろう。そこでおそらく今後もますます盛んになるであろう、日本宗教の海外進出」という現象に注目し、これを一つの研究分野として定めようとする意図を、そもそもの出発点としながら、本稿ではハワイにおける日系宗教(以下便宜上、ハワイに存在する、日本から伝えられた宗教をこう呼ぶことにする)をとりあげることにする。用いる資料は、一九七七年に行なった学術調査の結果得られたものの一部である(註1)。以下ではとりわけ、異文化の中にはいっていく日系宗教が、必然的にぶつかる言語的・文化的断裂という問題にスポットを当てることになるが、これを海外進出した日本宗教の展開過程についての一つのケーススタディとしたいという意図を合わせもつものである。

二,ハワイ日系宗教略史

ハワイに日本宗教が到来するようになったのには、それなりの経緯がある。次節以下で扱う問題が生じてくる脈略を多少なりとも明らかにしておく意味から、日本人移民歴史および日本宗教のハワイ布教開始の状況のごく概略について触れておきたい。ハワイの移民の歴史については、ハワイ官約移住七五年祭記念に出版された『ハワイ日本人移民史』(註2)という本の中に細かい記述があり、また移民史の時代区分もなされている。区分を示すと、漂流者時代、元年者時代、官約移民時代、私約移民時代、自由移民時代、呼び寄せ移民時代、移民禁止時代、割合移民時代となる。

一八六八(明治元)年に一五三名のいわゆる「元年者」が初めて集団で移住してから、一九〇七年に自由移民時代が終わるまでの約四〇年間が初期の移民期である。この間の移住者は三年契約で、かつ単身で来るものが多かった。したがって、ハワイに定住する気がなく、財を成して故郷に錦を飾ろうという出稼ぎ意識的な移住がほとんどであった。しかし、当初の目的を果たし得るものは少なく、すさんだ生活をする者が多かった。この間の、年別の移住者の男女比を調べてみると、三対一ないし一一対一、平均して男四ないし五人に対して女一人という割合であり、このアンバランスから生ずる問題には深刻なものがあった。十九世紀末の状況は移民史のなかでは「暗黒時代」と名づけられているほどである。

一九〇八年一月に、日米間で紳士協約が結ばれ、ハワイ在留日本人の家族、再渡航者、写真結婚者、ならびに各種専門家、一時旅行者などを除く、すべての日本人の渡航が日本側の自発的禁止ということになった。これ以降、呼び寄せ移民時代にはいり、移入者の男女比もほぼ一対一に保たれるようになった。出稼ぎ意識で生活していた人々の多くが、ハワイでの定住を決意するようになり、妻子を呼び寄せたり、写真結婚で日本から花嫁をつのったりするのが盛んとなった。人々の生活態度にもようやく落ち着きがみられた時期である。

ところが、一九二四年にA.ジョンソンの提出した排日移民法案が合衆国議会で承認され、日本人の移民は全面的に禁止されるという事態を迎えた。この移民全面禁止は終戦後まで続くことになる。一九五二年、ウォルター・マッカーラン混合新移民帰化法案が承認されると、一時日本へ行っていた者の帰化が可能になり、年間一八五名の歩合移民の入国も可能となった。また、いわゆる戦争花嫁と呼ばれる女性の移住もあった。俗に帰米二世、戦後一世と称されるこれらの人々が加わって、ここにハワイ日系人の移住のタイプのほとんどが出揃うことになる。

こういった日本人移民に日本の宗教界が目を向け始めたのは、十九世紀末である。既に一八八九年、浄土真宗の僧侶曜日蒼龍が個人的に布教を開始している。これがハワイにおける仏教の布教の嚆矢であるとされている。教団としてのハワイ開教は一八九六年の浄土宗のものが最初である。以降、一八九七年に浄土真宗(本派本願寺)、一九〇〇年に日蓮宗、一九〇三年に曹洞宗と、仏教集団がつぎつぎに到来した。また一八九八年にヒロ大神宮およびラワイ大神宮、一九〇四年に布哇(ハワイ)大神宮、一九〇六年に出雲大社教と、神道教団の設立も見られた。これらの教団が布教を始めた契機は、細かく言えばもちろん多種多様であろうが、『布哇本派本願寺教団沿革誌』(註3)に記された次のような文は、当時の状況を推し測るよい参考となる。

「三月、本派本願寺は信徒有志の請願に応えて布哇教情調査の為宮元恵順師を布哇に特派した。宮本師は先ずホノルルの情況を調査し、次いでハワイ、マウイ、カワイ各地を巡回布教し併せて各地の情況を調査した。

同年六月五日付、ホノルル在留の信徒管保平氏以下一六名の連署を以って本山に対し開教師派遣の嘆願書を提出した。これに対し本山は同月その願を入れ、不日一名の開教師を出張せしむべきこと、且つホノルル布教場、自今真宗本派本願寺出張所の名義を用い当本山の所属とする旨の達示があった。」(同書一二頁)

布哇浄土宗教団本部発行の『洋上の光』(註4)に記された浄土宗開教の沿革も、本派本願寺の場所によく似ている。この時期の仏教教団進出の経緯は大体このようなものだったようである。呼び寄せ移民時代になっても、いぜん日本宗教の進出は続き、ラハイナ大神宮(一九一〇年)、石鎚神社(一九一三年)、真言宗醍醐派(一九一四年)、マウイ神社(一九一五年)、カカアコ金刀比羅神社(同年)、天台宗(一九一八年)、ハワイ金刀比羅神社(一九二〇年)、と増加の一途であった。

移民禁止時代にはいると、既に主な教団がだいぶ来布していたこともあって、新たな進出は少なくなる。この時期に正式に布教を開始したのが、金光教(一九二九年)、天理教(一九三一年)、生長の家(一九三六年)である。もっとも、これ以前にハワイ在住の信者による個人的布教活動はあったとされている。

戦時中は宗教家にとっては受難の時代であった。多くの教団関係者が、開戦と同時に監禁され、やがて本土へ隔離されて抑留生活に甘んじなければならなかった。それゆえ、戦時中の日系宗教の活動は皆無に等しかった。

対日感情の悪化、戦争勃発などで久しく沈滞気味であったハワイの日系宗教界は戦後になって新たな展開を遂げた。それは天照皇大神宮教(一九五二年)、世界救世教、(一九五二年)、立正佼成会(一九五九年)、 NSA=日蓮正宗アカデミー・創価学会学会(一九六〇年)、PL教団(一九六三年)、真如苑(一九七〇年)、辯天宗(一九七四年)といわゆる新宗教がハワイにその運動を広げてきたことによる。ホノルル市の中心部から北へ向かうパリ・ハイウェイの沿線に、本派本願寺、天台宗、日蓮宗、布哇大神宮、天理教電動庁に加え、これら新宗教教団の多くが拠を構えたため、日系宗教が踵を接して並ぶ光景も出現し、日系宗教の進出を強く印象づけることになった。これら戦後期の新宗教の来布については、ハワイ在住の日系人の要請で、というよりは、それらの日本国内での運動拡大の延長線上に位置するものと考えた方が適切である(註5)。

三、布教と言語問題―聖職者たちの悩み

初期の移民期における布教・教化活動は、ハワイ在住の日本人に、日本から来た開師、宮司等が教えを説き、儀礼を執行するという形態であるから、深刻な言語上の問題は起こりようがなかった。けれども、今日ハワイにおいて布教・教化活動を行なう開教師、布教師、宮司といった聖職者たちは、程度の差こそあれ、必ず言語のギャップという問題に直面することになる。これは広くいえば、日米間の文化的差異の問題に包摂されることになるが、日系宗教のハワイでの広まりという脈絡において考えると、次の二つの問題に密接に係わっている。

一つは日系人の各世代間での意識の隔絶である。現在、一世はもうほとんど生存せず、二世、三世が教団の主たる担い手であるが、四世も布教対象とすべき年令になってきている。三、四世で日本語を駆使し得る者は極めて少ないから、英語開教使・布教師に人材の乏しい教団の場合は、彼らへの対応策が悩みの種となる。しかも、教団を実質的に担っているのは、いまだ二世であるところも少なくなく、若者向けの対策を全面に出してくることに躊躇を感じさせる雰囲気が無きにしもあらずである。とくに戦前から存する仏教教団では、一、二世の間に、教団を支えてきたのは自分たちであるという自負があり、また運営面でも一般信徒から成る理事会が強い発言力をもつ。ある本派本願寺の開教師が「自分たちは雇われマダムのようなもんです」と漏らしたくらいである。この点、戦後到来した新宗教は、信徒の代替りが教団にとって深刻な問題となってはいないようである。ただ、すべての世代を布教対象にしようとするときには、世代間の意識のギャップにどう対処するかということは、やはり大きな課題になってくることは避けられない。

第二は、教義変容の問題である。来たるべき時代を見越して、英語開教師・布教師を充分養成し得たとしても、彼らの説く教えの内容が、本来の教えと合致しているかどうかという点である。ことに仏教用語は一つ一つの語に深い含蓄があるから、単に対応する英単語を見つければ事足れりというものではない。教義体系の充分な理解を伴なっていないと、単に英語力が優秀であるというだけでは、正しく教義を伝えることができない事態をむかえることになる。

この第二の点は、教線を非日本人化へ拡大していけるかどうかということや、日系宗教が「ハワイ宗教」へ変わるべきなのかどうかということにも絡まってくる。では、このような問題に対して、各教団の第一線で布教・教化活動を行なっている聖職者や指導者たちはどのように考えているであろうか。これらの人びとに対して行なった面接調査の結果から検討してみたい。

日本語を充分理解できない人びとへの対処法についてどう考えているかというと、当然のことながら、ほとんどの人が英語による布教の必要性を認めている。唯一の例外が華厳宗東大寺ハワイ別格本山の平井辰昇尼である。彼女は、奈良の東大寺本山で修行した後、一九四一年同寺初の海外派遣開教師となってハワイで布教を始めたという経歴を持つ。同寺は東大寺別格本山という名称をもつが、実質的には布教約二ヶ月で二〇〇人の信者を集めるほどの、同尼の強いカリスマ性に支えられた「ハワイ産の新宗教」的趣を有している。彼女は日系人のアメリカ化に拒絶反応を示し、どこまでも日本語のみによる布教に固執している。非日系人への布教や、英語による仏教伝道は不可能であると断言していた。

逆に、英語を主体にした布教を推進しているのが NSAである。ここは、一九六〇年の地区結成以来のリーダーであるハリー平間氏が帰米二世であり、日本語より英語を得意とすることに象徴されるように、座談会もすべて英語と、アメリカの創価学会としての自律性が備わっている。この二つの教団はきわめて対照的であるけれども、同時にハワイの日系教団の中にあっては、共に特異な存在であるということができる。

他の教団は、先に述べた世代間のギャップの問題、英語で布教して正しく教義がつたえられるかということが絡んで、どういったやり方が最上の策であるのか模索中というのが現状である。現在なされている一般的解決策は、日本語の方がよく理解できる人びとに対しては日本語で、また英語の方を得意とする人々に対しては英語によって布教・強化を行なうという二本立ての方法である。本派本願寺を初め、浄土宗、曹洞宗等多くの教団がこの方式である。他方充分な英語力をもった開教師・布教師を得ていない教団は、さし当たってこの方式を目指すということになる。東本願寺別院の白山亮一監督は、「英語のできる開教師に来てもらって教線を拡大したい。英語が決め手であり、それも現地で学ばなければ役立たない」という旨のことを語っていた。また、日蓮宗の堀教通氏も、開教以来七五年以上もたっていながら僧侶が英語をよく話せないとう実情を嘆き、単なる日常会話以上の、他人を感激させることのできる英語力を備えた開教師を養成することの必要性を訴えていた。

秀れた英語力をもつ聖職者、指導者を求めるというのは日系教団の趨勢であると言える。けれども、他方、英語による布教・教化の必要性を認めながらも、その限界を指摘する声も少なくない。天照皇大神宮教では、大きな集会のときは、日英療護同時通訳でやっているが、同教団の基本的用語である神、神行(しんこう)、合正(がっしょう)、因縁、道場などといった語は英訳しないでそのまま用いている。支部長の小林正義氏は、教祖北村サヨの生前の言葉を引用しながら、本当の教えを受けたかったらやはり日本語を勉強する必要があると述べていた。成長の家の仙頭泰氏も、現在同教団の刊行物の英訳を急いでおり、将来の布教はすべて英語になるだろうと述べる一方で、ただしある程度以上の深い勉強は日本語でなければだめであるとして、日本語を学ぶ必要性を主張していた。

このような答が返ってくる背景を突き詰めて考えていくなら、言語の問題は、世代間のギャップとの関連で捉えるよりは、異文化の中で教義を正しく伝えうるかという問題との係わりで捉えたほうが根本的な問題に触れることになりそうである。

既に述べたように、英語でしか通じない、あるいは日本語ではあまり理解できないといった人々への対応策が、各教団もっとも腐心するところであるが、これには二通りの道があることになる。一つは布教・教化を行なう側の英語力を養成する方法であり、他は信徒の側に日本語の能力を身につけてもらうという方法である。用いるエネルギーから言えば、前者のほうがはるかに楽であり、また実際行なわれているのもこの方法が主流である。にもかかわらず、結局日本語を学ばないと真の教えは理解できないという主張は無視できぬ重みを持っている。それは、教えを正しく理解させられないというのが、開教使や布教使自らの英語能力の乏しさにのみ起因するのではなく、つまるところ相手の信者側にそれを受け入れるだけの素地ができていないからではないか、という疑念が拭い切れないからにほかならない。

仏教教団の開教使は、よく「無」とか「空」とか「解脱」とかいった基本的用語を英語で説明する難しさについて異口同音に語っていた。この場合も、いくらこれらの語について英語で念入りに説明してやってみても、双方の背後にある文化的体系が異なるからして、容易に納得させることができないのではないか、と彼らは感じているのである。実際、「懺悔の心をもって生活していかねばならない、と説いたところ、何も悪いことをしていないのに懺悔する必要などないと怒ってしまった」という類の話しには事欠かないのが現実の情況なのである。

日本宗教の一つの柱とされるのが祖先信仰であり、ハワイの仏教系教団もむろんこれを大切にする。しかし、アメリカ文化の中に育った若い世代に祖先信仰を充分理解させるのは至難のわざのようである。調査時期がちょうどお盆のときをはさんでいたため、多くの仏教系教団で盆行事を観察することができたが、お盆の説明についてはどこでも苦心のあとが見られた。日本であれば祖先供養という行為を思い出させるだけでよいのだが、ここではとくに若い世代に対して、なぜお盆に先祖を供養するのかについて分りやすく説明し、納得させねばならない。分りやすくしようとするため、つい通俗的な説明に陥り、地獄の話しだけで終わってしまったりする。(後略)

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