『新宗教の解読』
筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1996年、1,100円。
【内容】近代日本における新宗教の展開を、新宗教をめぐる主要テーマにからませながら述べたもの。とくにマスコミが新宗教をどう扱ったかに頁がさかれている。巻末に本書で触れられた教団・団体の簡単な解説が付されている。なお、本書は1992年に刊行された同名の書の文庫版だが、13章と解説が新たに加えられている。
【目次】
1.新宗教はアブナイか
2.新奇なるものの宿命
3.憤る人と魅せられる人
4.突然変異細胞の出現
5.病のメタファ
6.変貌の表と裏
7.増殖と既成化
8.大型教団への道
9.異文化への挑戦
10.宗教情報ブームの時代
11.新機種まがい
12.衝撃の正体
13.混迷の時代とオウム真理教
新宗教教団・団体一覧
解説(北畠清泰)
【まえがきから】
研究者が新宗教と総称している運動、教団がある。では、具体的にどんな運動・教団が新宗教に含まれるのか。この言葉にあまり馴染みがない人のために、比較的組織の大きなもの、また話題になったことのあるものなどを中心に、いくつか列挙してみよう。
阿含宗、円応教、オウム真理教、大本、大山ねづの命神示教会、黒住教、解脱会、幸福の科学、金光教、真如苑、崇教真光、生長の家、世界救世教、世界真光文明教団、善隣会、創価学会、大乗教、天理教、念法真教、白光真宏会、PL教団、仏所護念会、弁天宗、妙智会、妙道会、立正佼成会、霊波之光教会、霊法会、霊友会。
また、エホバの証人(ものみの塔)、世界基督教統一神霊協会(統一教会)、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)などは、外来の新宗教である。
このうちのいくつかの教団名は、耳にしたことのある人が多いだろう。ずいぶん多くの新宗教があるものだと感じる向きもあるかもしれないが、小さな組織まで含めればこんな数ではない。現在でも数百の教団が活動中である。近代を通して出現したものということになれば、何千という単位、あるいは数え方によっては、それこそ万単位になろう。
新宗教に関わっている人の割合は、ほぼ人口の一割ないし二割というのが、最近の研究者の間での、おおよその了解となっている。けっこう幅があるが、どの程度の関わりをもったら信者と考えるか、またどの教団を新宗教と考えるか、といった問いの難しさを考えるなら、この程度のおおまかさは致し方のないものである。ともかく、一千万人とか二千万人とかいう数字になるのであって、この現実の重さを無視することはできない。
近代に起こった一群の宗教である新宗教に関しては、他に民衆宗教、新興宗教、新新宗教(新・新宗教)などという言い方もある。民衆宗教というのは、それなりに意味のはっきりした表現であるが、マスコミ・ジャーナリズムでは、新宗教、新興宗教、新新宗教といった用語が、入り乱れて使われるので、一般の人は、少し混乱しているかもしれない。マスコミ等での用いられ方をみていると、新興宗教というと、やや侮蔑のニュアンスが込められることが多く、新新宗教というと、最近の新宗教というような意味あいで使っていることが多い。
実を言えば、研究者の間でも、これらの言葉の使い方は、不統一である。それは、近代に出現した新しい宗教を、どういう視点から理解したらいいのかについての視点が、必ずしも明確でないことによる。新宗教は、次々と社会的な話題を提供するので、そちらに目を奪われ、こうした一連の運動がもっている意味を、じっくり考える余裕をもちにくいというのも一因かもしれない。本書執筆の間にも、幸福の科学と講談社の騒ぎ、創価学会と日蓮正宗の紛争、愛の家族の報道、世界基督教統一神霊協会(統一教会)の合同結婚式問題と、次々に「事件」が起こった。こうした事件性のできごとの追及が、新宗教研究と理解されかねない。
しかしながら、新宗教という総体は、事件性とはかかわりのないところでも、激しく息づいている。それはもう約一世紀半にわたる宗教現象である。日本の近代化と深いかかわりをもちながら、今日なお多様な活動を展開している現象である。この現象を扱うには、それなりの準備と分析視点が必要である。
「新宗教は、近代日本に出現した一つの新しい宗教システムである」というのが、本書の一貫した立場である。宗教システムという考え方は、宗教を一つの社会的文化的「装置」として捉えるものである。だから、新宗教は、近代日本において、一つの特徴ある宗教装置を形成した、というふうにみなしているのである。そう見ることによって、新宗教と総称できる運動が、なぜ次々と近代に出現し、今もなお新たに生まれつつあるか、ということについての洞察が得られやすくなる。また、新宗教を既成宗教や民俗宗教との対比で見ていかなければならない意味もはっきりしてくる。近世の仏教は、まちがいなく一つの宗教システムを形成したし、民俗宗教も、自立性が弱いとはいえ、宗教システムとしての性格を帯びている。それらに影響を受けつつも、新しい宗教システムとして確立されたのが、新宗教である。
新宗教を新しい宗教システムと規定すると、民衆宗教、新興宗教、新新宗教などの概念を、近代の新しい運動を総称する言葉として、用いる必要はなくなる。民衆宗教というのは、とくに初期新宗教の担い手に注目しての特徴づけである。宗教的な表現形態をとった民衆運動というふうに考えることもでき、興味深い概念であるが、新宗教という概念に代用できるものではない。新興宗教というのは、要するに、そのときどきで新しく出現した新宗教という意味に使えばいいだろう。新新宗教は、もし今のような曖昧な使い方がされるのなら、あまり学術的な意義はない。新興宗教とほとんど同意義になっているからである。
本書では、新宗教が時代・社会を反映した存在であるという前提から、その反映の仕方をマクロに解読しようとするものである。もっとも、時代・社会を反映していると見た場合にも、それがどんな反映であるかについては、いろいろな解釈の立場がありうる。
新宗教が社会で果たしている機能を、より消極的に評価するとすれば、新宗教は、社会の矛盾や歪みの産物に他ならない、という視点を出せる。新宗教で病気治しが流行るのは、医療体制の不備を物語っているとか、新宗教の教えに騙される人々がいるのは、教育水準が低いからだとか論じていくわけである。新宗教運動が次々と生じるのは、日本社会に矛盾が多い証拠となる。
もう少し積極的な評価をすれば、新宗教は、民衆の欲求を反映している、という視点が成り立とう。社会の変革を求める人々には、終末思想や世直し思想を前面に出す運動がある。物質的に満たされた生活を渇望する人には、現世利益を強調する運動がある。つまり、たえず存在する人々の精神的あるいは物質的欲求が、新宗教の諸活動に対応しているとみなすのである。
さらに積極的な評価を試みれば、新宗教は時代の方向を先取りしている、という視点も出てこよう。信仰により病気が治るという考えは、最近の心身医学の発想法に通じているのではないか。明治期の天理教の単独布教、戦前の生長の家の文書布教は、今日の商品セールスの方法を考えるなら、先駆的とはいえないか。一九六〇年代半ばに導入されたPL教団のコンピュータ管理システムは、情報化時代をいち早く察知した動きではないか。創価学会の世界平和文化祭は、豊かな時代の若者への生きがい提供のモデルではないか。こう解釈すると、新宗教の運動目標には、次に社会が達成すべき課題が、先取りされているということになる。
先取りとまではいかなくても、時代のトレンドに敏感な教団は数多い。一九九一年、新日本宗教団体連合会(新宗連)が、四〇周年記念行事の一つとして、各地で平和学習会を開催したときのテーマは、環境問題であった。その教材に使われたハンドブックには、「いま、魂のふれあいをーー地球のあしたのために」というスローガンが掲げられていた。新宗連は、新宗教だけの集まりではないが、円応教、松緑神道大和山、善隣会、PL教団、妙智会、立正佼成会などの新宗教が主体になって形成された組織であるから、新宗教の一部の教団の意向の反映であることは間違いない。既成教団には、こうしたフットワークは、なかなか見いだせない。
このように、積極的・消極的、さまざまな評価の立場がありうるが、新宗教は、ほとんどあらゆる面で、社会の縮図になっている、と考えるのが、出発点としてはもっとも妥当な立場であろう。具体的な教えや活動の特徴で見ても、その奥底で進行していることに関してもである。この前提を出発点として、新宗教はどのような特徴をもつ宗教システムなのかを議論していきたい。
なお、新宗教の概観や、主だった教団あるいは教祖・リーダーについての記述は、すでに『新宗教事典』においてなされているので、ここでは、そうした概説的な作業は省いた。各章の冒頭に、本書で触れる教団の手短な紹介を行なうにとどめた。新宗教が織りなす紋様を見極めること、またそれにより、近代・現代の日本社会の抱える基本的問題を透かして見ることに、より多くの頁を費やした。宗教システムという発想は、宗教の社会的、文化的意義を、マクロな視点から議論しようというものだからである。
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