異文化内状況と神社神道

目次
1 はじめに
2 移民と神社
3 太平洋戦争と神社神道の活動停止
4 異文化内状況の切迫と神社の再建
  (1)再建の諸相
  (2)世代交代による異文化内状況の進行
5 むすび


1 はじめに
ハワイで宗教活動を行なっている日系宗教にとって、ハワイは空間的には異文化の地であった。けれども実際に教団を取り巻く環境は必ずしも異文化的というにふさわしいものではなく、日系人社会という緩衝帯によって教団は異文化の中に布教していく際のもろもろの困難さとの直接的対峙をかなり回避できた。むろんその緩衝帯がどの程度強力なものであったかは時代により変化する。
このような緩衝帯の存在にも拘らず、空間的に異文化社会の中にある教団は、日本における場合と全く同じようには活動できない。さまざまの変容を余儀なくされる。そこで、基本的に異文化社会の中に存在し、それゆえの衝撃を直接間接に受けているこの状態を「異文化内状況」というふうに表現していくことにしたい。異文化内状況が問題になるのは、なにも神社神道に限ったことではないのであるが、ハワイの神社神道を特に異文化内状況への対応において眺めていこうとするのにはそれなりの理由がある。
神社神道を含めて、神道は一般に民族宗教として規定されることが多い。この学術的定義の妥当性は別として、そのような性格づけがなされたのは、神道が日本人の生活に密着しながら展開しており、日本文化を離れて神道が成り立ちうるのか疑問視されたからであろう。また多くの氏子は神道の中心的教義が何であるかについて明確な知識をもたない。それで別に支障はないし、不思議とも感じられていない。神道の儀礼が宗教的な行為であるということを意識されずになされることも多い。つまり日本人の生活スタイルの一部として受け入れられている側面が大なのである。
このような特質を備えた神道、この場合には神社神道が、ハワイで活動を始め、やがて異文化内状況が色濃くたち現れるにつれ、どのような変容を見せるのかという問題は、仏教教団や新宗教のハワイにおける変容とはまた少し趣の異なる興味をそそる。
現実にハワイにおいて異文化内状況が強まりを見せるのは、太平洋戦争後と言えるであろう。戦前は日系人社会が異文化内状況を大いに和らげていた。しかし、今日日系人社会はそれほどに神社神道に強い関心は抱いていない。神社神道はいくつかの点で直接的に異文化社会に向かい合わねばならぬ局面を迎えている。そのような変化の過程を追っていくと、少しずつ問題とすべき点が露わになってくる。
以下の記述は大きく2つの目的をもつ。1つはハワイの神社神道史を鳥瞰することであり、もう1つは、こうした異文化内状況にある神社神道の変容ないし対応の諸相を取り出しながら、それが語っていることは何であるかを考察することである。両者は切り離しては論じられないので、この2つの目的を常に年頭に置きながら論を進めていくことにしたい。
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2 移民と神社
ハワイ日系人移民にとって、地理的移動は直ちに全面的な文化変容を意味しなかった。故郷の町や村での日々の生活様式のあるものは否応なく変容を迫られたであろう。しかし、もろもろの価値観はそう簡単には変らなかったと思われる。宗教生活も極端には変わり得なかった。移民の数が一定数になると、寺院や神社が次々と建立されたのはその一つの表われである。
神社の創建には、神官の個人的希望や、神宮奉斎会などの意図も預って力あったようだが、ハワイの移民側からの要請というものも大きな比重を占めていたと思われる。神社の創建について、その事情を直接的に知り得る資料を入手するのはほとんど不可能である。それは戦時中FBI等の操作を恐れて、多くの資料が焼却処分されたりしたからである。また津波によって建物が破壊された例もある。今回の調(1)査で入手した直接資料は後に掲げるマウイ神社のものが唯一である。この他の神社については、二次的資料や面談による情報によって事情を推し測るしかなかった。
このような資料収集上の限界があるのだが、神社創建の事情はそう複雑ではないと思われる。ほぼ状況を掴み得たものについて述べていくことにいたい。ハワイの神社の系統は次の7つにまとめることができる。(<オ>=オアフ島、<ハ>=ハワイ島、<マ>=マウイ島、
<カ>=カワイ島)
(1)伊勢大神宮系統・・・・布哇 (ハワイ) 大神宮<オ>、ラハイナ大神×宮<マ>、ラワイ大神×宮
<カ>、リフェ大神×宮<カ>、ヒロ大神宮(もと大和神社)<ハ>、馬哇 ( マウイ)神社
<マ>、布哇伊勢大神宮<オ>。
(2)出雲大社系統・・・・布哇出雲大社<オ>、出雲大社ヒロ教会×社<ハ>、同コナ布教×所<ハ>、
同ワイルク布教×所<マ>、同ワイパフ布教×所<オ>。
(3)金刀比羅神社・・・・布哇金刀比羅神社<オ>、カカアコ金刀比羅神×社<オ>、ワイルク金刀比
羅神×社<ハ>。
(4)石鎚神社・・・・布哇石鎚神社<オ>。
(5)稲荷神社・・・・ハワイ稲荷神社<オ>、モイリリ稲荷神×社<オ>、パイア稲荷神×社<マ>、ラ
ベリベリ稲荷神×社<カ>、ピオピオ稲荷神×社<ハ>。
(6)氏神的神社・・・・加藤神×社<オ>、大瀧神×社<オ>、小田神社<オ>。
(7)その他・・・・厳島神×社<カ>、マララエア恵美須神社<マ>、黒住神×社<カ>。
これらの多くは既に消滅しており(×印のついたもの)、現存するものは数少ない。また何らかの宗教活動を行なっているもの、専従の神官がいるものとなるとまた少なくなる。そうしたことから調査自体が限られた神社についてしか行なえなかった。そこで調査がかのうであった、布哇大神宮、ヒロ大神宮、馬哇神社、布哇出雲大社、布哇金刀比羅神社、布哇石鎚神社について、順に創建の事情のあらましを述べていく。

(a)布哇大神宮
布哇大神宮の創立の事情はほぼ分るのであるが、時期については不明確な点が多い。川崎嘉添現宮司が作成した「布哇大神宮教団の栞」には、設立の事情が冒頭に短かく記されているだけである。
「布哇大神宮は明治三十六年布哇ホノルル市ア・ラレーンに創立、大正七年九月ホノルルリ
リハ街一五一七番地に遷座、大正九年二月二十六日、布哇政府より、宗教法人布哇大神宮教
団として認可。」(ルビは省略。以下引用文にルビがある場合は特に音読困難なものを除き
省略する。)
これでは簡単すぎてよく分らない。より具体的な記載があるのは、森田栄編『布哇日本人発展(2)史』である。同書には、「大神宮奉斎会布哇本院」の項で次のような説明がなされている。
「ホノルゝ大神宮は元と神道崇敬者相謀り明治三十九年一月ホノルゝ市アゝラレーンに地を定め千屋松恵女史と祭員として現在の神殿を建設し之れに任せしめたる者なりしが後組織を変更し、大正元年八月一日神宮奉斎会の任命に依り同会職員礼部川崎利太郎(高知県吾川郡吾川村)氏主任となり同時に内務省交付の告示に基き奉斎会を組織し社名を変更し天照皇太神、豊受大神を奉祀せし所にして更に大正四年五月伊勢神宮神部署の特別聴許に依り天照皇大神宮別霊麻を鎮祭せらるゝに至りし者なり、且つ従来頒布の伊勢神宮大麻及暦に就ては大生元年勅令に依り神宮部署の直営に移されたると共に該署より直接海外頒布の司令により其事務を取扱ひつゝ在り現在奉斎会員二百七十余名を有す附属事業としては学業奨励部等を設け居れり」(同書322~323頁。なお旧字体は新字体に直してある。以下引用文については同様。)
これによって千屋松恵、川崎利太郎の二人が大きな役割を果したことが知れるが、「布哇大神宮教団の栞」と比べて時期に多少のずれが見受けられる。『布哇日本人移民(3)史』の記載も年号が異なる。
「明治三十七年(一九〇四)、千屋まつえ女史がホノルル史アアラレーンに神宮奉斎会賛成 員募集事務所という看板を掲げ、日頃奉祀していた天照皇大神、清正公、白髯稲荷等の神璽分霊を正式に祀ったのがはじまり。一九〇七年に川崎正郷師が着任して『布哇大神宮』に昇格。」(同書478頁)
これ以外の文献でも年号が一致しないことが多い。恐らく1904年前後にハワイでも神宮奉斎会が組織され、1907年に川崎正郷が来布してまもなく、これが布哇大神宮と呼称されるようになったと考えられる。千屋松恵も川崎利太郎(正郷)もともに高知県出身であり、そのような関係から川崎宮司が引き受けることになったようである。
また、この布哇大神宮創建の前後、カワイ島にリフェ大神宮、ラワイ大神宮、マウイ島にラハイナ大神宮、オアフ島にワヒアワ大神宮が建てられている。いずれも設立事情は確認できないが、ラワイ大神宮については『布哇群嶋誌 第壱巻加哇(4)島』及び『布哇日本人発達史』にそれぞれ次のような短い紹介がある。
「千八百九十八年一月一日、在ラワイの西村孫十郎氏は当時日本移民監督官たりし君島桂三氏をコロアに訪問し、談偶々神社鎮座の事に及びしに、同氏は大に之れを賛して曰く、本島は他日大和民族の永住発展地たるべく、吾人又神洲に生を亨けたる民なり、今国外にありて営々発展の道にあり、其労苦辛酸は素より覚悟する所なりと雖も、事実発達の進運は天神の冥護を祈らざる可らず、天神の冥護を祈らんには、先ず国祖たる天照皇大神の鎮座こそ希ふ所なれと、茲に於て西村氏は勇んでラワイに帰り、地方の有力者坂本利兵衛、林直次郎、宮田末松、吉田源之丞氏等と謀りしに、皆大に賛同し、一同含嗽して此挙を成就せんことを神明に約せり。同年三月、東キラエより西マナに至れる諸耕地に、其趣意を発表せしに各地の同胞は多大の同情と多額の金品とを寄せられたれば、四月三日の佳節をトして起工式を行ひ、日夜工事を励み、力役三百人日を費す二百四十日、同年十一月三日を以て落成式を挙げたり、爾来数回の改修増築を行ひ、石階の築造等総て二千余弗を要せり、祠掌は菅弥右衛門氏鎮座の初めより奉仕し以て今日に至る。」(『布哇群嶋誌』310頁)

「ラワイ大神宮は明治三十一年四月起工同年十一月三日落成したる加哇島ラワイの地に在り祠掌は菅弥右衛門氏にして西村、坂本、林、富田、吉田等の諸氏世話掛たり」(『布哇日本人発展史326頁)
ホノルルの大神宮が1918年にリリハ街に遷座した2年後、1920年2月26日に「布哇大神宮教団」が認可され、リフェ、ラワイ、ワヒアワは大神宮教院支部という形になる。この頃までが布哇大神宮の確立期と考えてよかろう。活動内容も多彩で、社殿での宗教儀礼の他に、日曜学校では子供を対象に日本神話が分りやすく説明されたり、柔道・剣道を通じて若者の集まりの場を提供するということが行われたりした。剣道は神宮奉斎会結成当時から熱心な指導者がいたが、柔道はリリハ街に遷座した際、「尚武館」と名付けられた畳38枚敷の練習場が設けられたことで盛んとなった。
この頃は、日本から海軍の練習艦隊がホノルルに寄港すると、艦長が布哇大神宮に参拝するのが常であったというから、ハワイの代表的神社の一つとしての地位を築きつつあったと言える。

(b)ヒロ大神宮
ハワイ島のヒロは、雨の多い所であり、かつて耕地労働者の間では「弁当を忘れても傘を忘れるな」という俚諺が生まれたほどである。気候が日本を偲ばすことの多いこのヒロの地にはホノルルの大神宮とは別個に神社が創建され維持されてきた。
ヒロ大神宮は設立当初は大和神社と呼ばれ、ハワイの中では最も早く建てられた社である。大和神社の創建に力を入れたのは熊本県出身の合志覚太・実男(雄)父子である。1908年に発行された『布哇成功者実(5)伝』には、布哇島の部に「合志実男君」の項があり、次のように書かれている。
「君は熊本県南千反畑町の人明治十四年八月の出生なり父を覚太氏と云い明治三十五年三月病没し母亦た次で三十七年に死亡せりと云う
君青年の頃普通学を卒え後小学校に教鞭を執り傍ら神職たり時に明治三十四年十二月コブチック号に便乗し無事上陸の上直に布哇ヒロ市に至り大和神社に奉職せり之より先き君の父覚太氏厚く神明を敬信し之に仕うる事太だ慎めり左れば神明の加護やありけん一夜神勅を蒙り感悟する所ありしと於是乎一層敬神の念を高むると同時に此神霊の広大なることを異域の同胞に知らしめんと欲し明治二十五年七月非情の勇気と決心を以て渡来一旦布哇島ワイケア耕地に至り同塵の方便によりて衆と共に耕耘に従い其間直接に間接に同胞に向い神威の何たる事を懇諭せしに木石ならぬ同胞大に其徳に感化せられたり氏機の熟するを察し東西に奔走し有志に義金を請い自ら石を運び木材を担い雨に沐し風に梳り苦心惨憺の末遂に三十一年十一月天長の佳節に丁りワイケア街道に於て一の神殿を創立せり名けて大和神社と云う爾来一層敬神の念深かりしが明治三十四年神勅に因り自己の死期を感得せしを以て遽に本国に遺しある本篇の主人公実男君を呼寄する事に決し其手続を了し前記の如く同年十二月着布し親子十年目に対面し邂逅僅に三ヶ月即ち翌三十五年三月眠るが如く易簀せりと実に奇と謂うべきなり
君既に父と世を異にしければ自ら起ちて活動せざるべからず君父の志を継がんと欲して其旨を当局に届出でしに三十五年神宮奉斎会より宮司に任命せられしかば爾来活動的の人となり三十七年小学校を設置し自ら教師と為り別に一名の助教員を雇聘し同胞子弟の薫陶に従事し目下五十余名の生徒あり為に人望日に加わり随て三十八年諸人の賛同を得て拝殿を新築し今や総ての祭曲は君が主宰の下に執行すると云う夫れ斯の如く社運降昌となるに従いワイケア街道は諸人の参拝不便なるに依り遂に明治四十年十一月地をヒロ市フロント東通りに卜し神殿及び学校共に多転し大に発展の道を講じたり而して君本年二十八才の壮齢なれば前途甚だ有望なりと謂うべし」(同書、布哇島の部、42~44頁)
大和神社が1898年に創建されたことは他の書でも一致するが、合志実男宮司については、実雄、実行と名前が統一されていない。また覚太・実男父子それぞれの功績が混同され、必ずしも統一された記述ではない。しかし、この両者の努力の結果であるということは現在に至るまで言い伝えられている。
大和神社の創建で注目されるのは、非常に熱心な神官側からの働きかけがあることである。合志父子は熊本県出身であるが、熊本県は、広島、山口、沖縄に次いで多くのハワイ移民を送り出した県である。そうした多数派の県出身であったことが彼らの行動をより効果あるものにしたと考えられる。
大和神社がヒロ大神宮と名称を変えるのは、『布哇日本(6)史』によれば、「本宮は造営当時は大和神社と称へられてゐたが、明治三十六年拝殿の改築と同時にヒロ大神宮と改称され今日に及んだもので」(同書222頁)とあり、1903年のこととされている。

(C)馬哇(マウイ)神社
馬哇神社の創建は他島の神社に比べるとやや遅れて1916年のことである。マウイ神社の現在の宮司は有根刀良子であるが、1978年に、マウイ神社社殿が国家指定史跡になった折に、ホノルルのビショップ博物館の館員によるインタビューがあり、彼女はこの中でマウイ神社の設立経緯について次のように答えている。
「マウイ神社は1914年マウイ島の日本人移民のため島の中心地に神社をもちたいという目的で建てられたもので、マウイの津々浦々に至るまで神社建設資金として、当時としては大金の五千ドルを目標とする募金が行われたが、その記録にはすでに長い間忘れ去られたような地名もみられる。毛筆の蹟も美しい寄付金の記録には最高五ドルから最低五セントにわたる個人からの浄財の寄付が示されている。これによるとこの寄付が当時の日本人社会の有力者による多額の寄付によったものではなく、何千人という耕地労働者達の血と汗と涙の報酬の中から出された五セント、十セント、二十五セントの結晶であったということが痛切によみとれるのである。
現在カフルイのアロハレストランの建っている土地を1914年にハワイ商業砂糖会社から借りて翌年神社建築に着工した。神殿が完成した後拝殿を建てるのに千ドル不足がであったため1000人の人々から一口一ドルの寄付金がつのられた。現在拝殿入口の上にかゝっている"千馬"の額は一世の沢田雪峯氏の筆になるもので絵の馬の背には浄財をよせた千名の一人一人の名前が記されている。
神殿及び拝殿の建築を指揮した大工の棟梁、友清盛一、高田市三郎両氏は日本で経験をもつ宮大工であった。日本の神社建築の伝統にしたがって白木の柱、梁による木造建築は釘を用いない木組によるものである。この神社はその点からも日本の神社建築のすぐれた一例ということができる。
マウイ神社建立の先導となったのは初代宮司となった松村正穂氏で、氏はハワイ島コナに神社を建てた後にマウイへ来たのであっ(7)た。」
ここでも神官の側からの働きかけが直接の設立要因となっているが、日系人社会の側にもそれに直ちに呼応する素地ができ上っていたと考えられる。馬哇神社の建設、講社の設立に関しては、初代神官の松村正穂が毛筆で書き残した貴重な資料がある。同種のものは、他にはまず見つからないと思われるので、多少引用が長くなるが、同宮司の記録の一部を紹介しておく。(なお、引用文中、□となっているのは、紙が破損したり変色して判読不可能な文字である。)
馬哇島ノ神社馬哇在留民間ニハ数年前ヨリ神社建設の計画ヲ希望セシモ事実ヲ発現スルニ至ラサリシガ大正四年御即位□□ヲ挙行セラルゝ曠古ノ式典ニ遭遇□ノルヲ以テ茲ニ御大典奉祝記念□トシテ馬哇島中央部ニ馬哇神社建設スル事トナリ有志者ノ尽力ニ依ニテ輪奐荘厳ノ社殿ヲ完成スルニ至リタルハ在馬哇同胞ヲシテ敬神思想ヲ発揮セシメ永住的観念ヲ養成セシムベキ国家的事業トシテ慶賀スベキモノトス本誌ハ茲ニ本事業成立経過ヲ誌シ以テ之を祝福セントス
神社創立ノ動機
馬哇神社建設ニ付キ左ノ趣意書ヲ以テ各地有志ノ賛助ヲ求ム
馬哇神社建設趣意書
□□神武天皇紀元以来年ヲ経ルコト二千五百七十五年ノ世ヲ数フル正ニ一百二十二代、一系系皇統連綿トシテ天地ト共ニ窮リナク日月ト倶ニ輝クト雖モ、久シク東洋独存ノ朦霧ニ包マレ万邦未ダ其光ヲ仰グノ機ナカリキ、然ルニ空前ノ聖主 明治天皇御登極アラセラルゝヤ、維新革運ノ宏謨ヲ定メラレ爾来四十有余年、時勢ノ進展ト共ニ地球ノ全面ニ亘レル大飛躍ヲ逞フシ金甌ノ皇統ト忠勇ノ臣民トハ列国ノ齊シク羨望スル所トナリ国威ノ発展ハ稀有ノ異例ヲ示スニ至レリ、此ノ時ニ当リテ我ガ允文允武ナル聖上陛下ハ御即位ノ大礼ヲ挙ゲラレ列国ノ国宝式ニ列リ内外均シク其ノ盛儀ヲ謳フ此レ実ニ建国以来未ダ曾テ観ザル曠古大典ニシテ実ニ大正四年ハ大日本帝国ノ世界的紀元タルナリ茲ニ吾人ハ大方ノ賛助ヲ乞ヒ其ノ如キ□□□□大典ニ祭シ本島中央ニ神社一□建設シ別記ノ祭神ヲ奉斎シ、以テ永久ニ好機ヲ記念シ且ツ将来在留民ノ崇敬誠意ノ中心タラシメ併セテ我国固有ノ精神ヲ発揮セシムルニ勉メン事ヲ期ス希クバ吾人ノ微衰ヲ賛シ幸ニ所期ヲ確達セシメラン事ヲ
祭神天照大神、大国主神、明治神宮
大正四年七月七日
馬哇神社建設主唱者 松村正穂

馬哇神社建設賛助員
右ノ趣意ヲ賛シ賛助員名簿ニ署名シタル者四百六拾七名ヲ得タルヲ以テ大正四年八月八日カフルイ香川旅館ニ於テ賛助員惣会ヲ開催シ左ノ事項ヲ決議シタリ
一 神社建設霊地ノ選定ノ件
二 建設費惣予算額ノ件
三 建設費募集方法ノ件
四 建設委員撰定ノ件
一 建設地ハ馬惣島中央部タルカフルイ港トナス事満場一致可決
二 建設費予算額ハ五千弗トナス事ニ決ス
三 建設費募集方法ハ馬哇一般在留氏ヨリ寄付募集ヲナス事トシ主唱者ヲ以テ之レニ当ラシムル事ト決ス
四 建設委員撰定ハ四百六十七名ノ賛助員中ヨリ九名ノ委員ヲ撰挙法ニ依リ撰定スルコトゝナリ左ノ役名ノ下ニ撰挙シ其ノ決果
(以下役員名)
右決定ノ後各地ヨリ地方委員ヲ撰定スル件ヲ提出シ役員会ニ於テ巣線スルコトゝナリ惣会解散後引続委員会ヲ開キ左ノ諸氏ヲ推挙シ通知状ヲ発送ス
(以下地方委員名)
霊地ノ選定
神社建設地ハカフルイト協定シタルヲ以テ役員地主ニ交渉シカフルイ日本人小学校隣地東西二百五十呎南北一百七十五呎ヲ建設敷地ト確定セリ
地鎮祭建設敷地確定シタルヲ大正四年十月□地鎮祭□行ス役員参列ス
建設工事建設工事ハ神殿、拝殿、社務所ノ三工事トシ請負入札ニ附工事費六百八十弗ニテワイルク請負師友清盛一氏ニ落札ス建築材料ハ特別ニ吟味サレタルモノニシテ□工事ノ程度ハ最モ善良ナル方法ニ依リテ完成スベク請負師友清氏ハ最初ヨリ利害問題ニ離レ欠損ヲ予期シテコレカ工事ニ従事セル事トテ何レノ部分モ予定以上ノ結果ヲ得タリ神殿、社務所ハ落成□次デ拝殿工事ニ着手スル予定ナリシモ□々ナル障害ノ生ジタルヨリ拝殿工事ハ大正五年度ニ入リテ起工スル事トナシヌ然ル□建設委員一同ハ神殿、社務所ノミ□□シ拝殿工事ニ着手スルヲ得サルヲ遺憾トナシ外人間ニ議リハレボールトウイン氏ノ五百弗フランキボールドウイン氏ノ五百弗ヲ筆頭ニ一千四百弗余ノ寄付ヲ得タリ茲ニ於テ一時中止セシ拝殿工事モ二千弗ノ予算ヲ以テ着手スル事トナリ大正五年十月更ニ該工事ヲ入札ニ附シワイルク高田請負師三百八十五弗ニテ落札仝年十二月二十六日ヨリ着手シ大正六年三月四日落成ス拝殿工事ニ就テハ請負師高田市三郎氏ガ損失ヲ予期シ殆ンド神職ヲ忘ルゝ程ノ努力ヲ為シ彫刻等ノ技術ヲ綿密ニ施サレ外観ノ美ヲ添ヘタリ
神社建設上ニ関シ特筆スベキハ神殿拝殿及社務所ノ配置及高低ノ宣敷ヲ得タレバ本殿ノ開扉ト共ニ各所何レノ部分ヨリ拝観スルモ悉ク御簾ヲ見徹シ得ルハ祭典ノ折群衆ノ場合等ニハ拝観者一同ヲ満足セシメ得ルモノニシテ設計者ガ特ニ意ヲ用ヒタル等ハ共ニ多トスル所ナリ
落成記念撮影
大正六年三月四日役員立会落成記念撮影ヲナス
上棟式
大正六年八月十八日午后三時執行
鎮座式
大正六年八月十九日午前三時執行
祭典式仝日午前十一時執行

馬哇神社諸規程(考案)
第一条 馬哇神社ハ馬哇島在留日本帝国臣民ヲ以テ氏子トス
第二条 馬哇神社役員ノ名称員数及任期ハ左ノ如シ
名称 員数 任期
一 氏子総代 十名以上 二ヶ年
一 世話人 八名以上 一ヶ年
第三条 氏子惣代ハ氏子全体ヲ代表シ神社一切ノ経理及監督ノ任ニ当ル者トス
第四条 世話人ハ受持区内諸般ノ世話ヲナシ氏子惣代ヲ補佐スルモノトス
第五条 氏子惣代ノ選挙ハ投票又ハ指名推薦ノ方法ニ拠ルモノトス
(以下第六条〜第二十条は省略)

馬哇神社維持講規定
一 維持講ハ馬哇神社維持ノ為メニ設ケ氏子ヲ以テ之レヲ組織ス
二 維持講ハ氏子総代中一名ヲ互選シテ講長トナシ役員ハ氏子惣代及世話人之レニ当ル
三 維持講□氏子(以下数行破損)
維持講ノ集金ハ馬哇神社経営費及び維持講
雑費ヲ差引左記ノ率ニ拠リ出納ス
十分ノ七 神社基本金
十分ノ三 神社準備金
維持講ノ「会計報告」ハ新聞紙上又ハ□宜ノ方法ニ拠リ講員一般ニ報告ス
以上
大正七年三月十日集会
(十八名の名前あり)

馬哇神社敬神講社
一 本講ハ馬哇神社敬神講社ト称ス
二 本講ハ馬哇神社維持及諸祭典ノ執行並ニ神典講話ヲナスモノトス
三 本講員ニハ毎月朔日幸福安全ヲ祈ルタメ講社祭ヲ行ヒ直会ノ神饌□授ヶ年一回宅神祭ヲ
執行ス
四 本講員ニシテ伊勢神宮其他参拝希望ノ節ハ諸般ノ手続ヲナシ便宜ヲ計ルベシ
五 本講員ハ諸費トシテ一ヶ年金壱弗以上醵出スルモノトス
六 本講ノ収支決算ハ翌年度ノ始メニ於テ講員ニ報告ス
七 本講々務ハ馬哇神社役員ヲ以テ整理ス
これによると、1915年に神社の設立の発起がなされ、同年建設地の決定と地鎮祭がなされている。拝殿造営工事で多少のトラブルがあったようだが、1917年には神殿、拝殿、社務所のすべてが完成している。また翌年には講社もできている。発起以来3年にして、このように建物が造営され活動体制が整ってしまったことは、やはり神社創建に対して当時の日系人がかなり積極的な反応を示したと言えよう。
ところで以上の記録で特に目を惹く点が2つある。1つは、拝殿工事が滞ったときに外国人の多額の寄付がいられたという記述である。これがどのような背景をもっていたのか全く知るよしもないが、有根刀良子の叙述では、不足分が一人1ドルずつで千ドル集まったという点が強調されるのに対し、松村宮司は五百ドルの大金を寄付した外国人2人の名を記しているのが注目される。いずれにしても当時の日系人に財力は乏しかったことだけは浮き彫りにされている。
またもう1つは、馬哇神社諸規定の第一条に、氏子を「馬哇島在留日本帝国臣民」と明確に定義してあることである。あくまで帝国臣民のための神社とうたっている。これは当時の神官の意義はそうしたものであったということでも説明できようが、日系人社会の一般の雰囲気として、日本文化を閉塞的に維持していこうとする志向性があり、これがこのような表現として反映されているとみなし得る。

(d)布哇出雲大社
現在の布哇出雲大社教団発行のパンフレットによると、1906年8月25日に、初代分院長の宮王勝良が、大社教管長千家尊愛の命を受けて来布し、アララ・レーンの一角に仮布教所を開設したのが布教の始まりとされる。1908年に教会所仮建築竣成し、11月3日には初めて大祭を執行した。
この時期はまだ、出雲大社教布哇教会所なのであるが、『布哇日本人発展史』にもこの間の設立事情が記されている。
「出雲大社教布哇教会所は明治三十九年九月五日広島県比婆郡峯田村字峯八幡神社々司宮王勝良氏の創設せられたる所なりとす
宮王勝良氏は出雲大社教本院の内命を受け明治三十九年布哇に来りホノルゝ市ベレタニア街に居を卜し大社教崇敬会なるものを設け日夜布教に従事し其勢力の扶殖に努め教運の隆盛なるに伴ひ信徒の増加を見るに至りしより社殿建設の必要に迫りキング街パラマの地に敷地を求め在留同胞の援助喜捨に依り教会神殿の建築工事を興し同四十年八月二十日之が竣工を了り、以来倍教勢の拡張発展と共に基礎の強固なるもの在るに至り同四十二年三月二十九日大社教本院管長より大社教布哇教会所の名称を授与せらるに至ると同時に宮王勝良氏を以て同所々長の任命に接したるものなり、茲に於て地歩確実に秩序整然たる公認布教所たるに至り
信徒倍増加し在留布哇の地に於ける神教界に於て唯一の大勢力を扶殖するに至れり
附属事業としては大社講を設け幾多の信徒を以て其講社員となしホノルゝ市及各島に跨り在住す別に役員を置き経営事務を鞭掌せしめ発展しつゝ在り殊に毎年春秋二期に於ける大祭執行に当りては其都度数千の参詣者在り一期の賽銭百数十金に上ると謂ふ亦以て其盛観なるものあるを窺知するを得べし教会所布教区域はホノルゝ市及び附近耕地、馬哇島ワイルク町同島パイア町一円なりとす、而して同教会は曩に公認許可と共に御分霊を奉斎し居れる所なりしが大正四年五月三十一日教会詰教師として丸尾永助氏を派遣せるに際し正式御霊代を送附し来り鎮祭す」(同書323〜324頁)
宮王勝良宮司は、広島県比婆郡出身で、日本在住中は4社の社掌を兼務するかたわら、出雲大社教の教師免状も有していた。親類縁者の反対を押し切ってのハワイ布教であったというが、来布当初はアーラ公園でランタンを携えながらの説教を続けた。当時同じような該当説教を、既に浄土宗の僧侶やキリスト教の牧師が行なっていたという。
ハワイにお宮を建てたい、という願いを実現すべく彼の活動は精力的に続けられ、ホノルルに教会所を建築した後も、各島を巡り、やがてヒロに教会所、同じくハワイ島のコナ、マウイ島のワイルク、オアフ島のワイパフに布教所を設け、その他講社を各島に作っていった。このうちコナの布教所の設立については、やはり『布哇日本人発展史』に短い記載がある。
「コナ出雲大社教会布教所はホノルゝ出雲大社教布哇教会所の所轄に属する支部にして明治四十三年二月開教御分霊遷座式執行したるものにして広島県比婆郡山内西村字上八幡神社々司松村正穂氏駐在布教伝道に従事しつゝ在り該布教場はコナ郡一円に在留する在住同胞の氏神として崇敬する所なり基礎強固にして区域広く全郡唯一の神教機関の教会なりとす」(同書324頁)
ここに出てくる松村正穂は、のちマウイ島で馬哇神社創建を志した人である。このように、ハワイでは神官は教団にとらわれず、移籍することが多く、このような例は他にもいくつかある。
さて、1919年にホノルルの教会所は出雲大社布哇分院に昇格し、布哇出雲大社教団を組織するに至る。1923年に日本の出雲大社社殿をモデルとした社殿が造営されたときには、当時の管長千家尊有が御分霊をもって来布し、落成式を行なっている。この頃には布哇出雲大社の活動はすっかり軌道に乗ったと言える。

(e)布哇金刀比羅神社
金刀比羅神社と名の付くものは、現在は布哇金刀比羅神社があるだけだが、戦前は、ホノルルにカカアコ金刀比羅神社があり、マウイ島にもあった。カカアコ金刀比羅神社は布哇金刀比羅神社よりも1年早く1919年に社が建てられ、漁師たちの信仰が篤かったという。
布哇金刀比羅神社がキングストリートに建てられたのは1920年と神社創建としては遅い方であるにも拘らず、設立の事情は余りよく分っていない。関係書類が戦時中にすべて焼却処分されたということもあるが、それは他の神社もたいてい同じである。1つには、神官がそれぞれ全く係わりのない人によって受け継がれてきたということもある。初代は岡崎呑海、2代目は磯部節、戦後の3代目は酒井国助で現在4代目の高井誠司であるが、むろん互いに血縁関係にはないし、師弟関係にもない。布哇大神宮、布哇出雲大社が父から子へと受け継がれているのに比べれば、情報の断絶があるのも致し方ない。
だが、この神社の氏子には山口県岩国市及び近隣の出身の人が多いと言われ、故郷での進行をハワイでも続けようとしたらしいという説もある。また、1920年に正式の社が建てられる以前に、主に漁師たちによって伝えられた小さな祠が祀られていたともいう。
それはともかく、神社の祭は順調に行なわれていたようで、1932年には「布哇金刀比羅神社建設委員会」なるものができている。その造営費寄附募集趣意書の冒頭には次のように書かれている。
「布哇金刀比羅神社は、千九百二十年の創立にして、由来、神威赫々として衆庶の景仰厚く歳次盛運に赴き、特に近時は著しく発展し従来の設備に改善の要を認めつゝあるの際 白崎八幡宮 大瀧神社合祀され、神事は愈々繁多となり信者亦頓に加はり、遂に時勢に順応すべき施設経営の必要に迫らる、然るに従来の社他は甚だ狭隘にて、最少限度の計画すら不可能なる上、其筋より、大衆の集合は特に注意すべしとの厳達もあり、斯る状態にては到底、惟神の大道の宣揚 神祗奉斎の実蹟の挙らざるを痛感し、種々教義の結果、昨秋の御創立満十年奉祝祭の紀念事業として、爰に、敷地購入、社殿造営を発企するに至る。」
このときの造営計画によると、神社敷地は50,075平方呎(フィート)、神殿は旧神殿を移転拡張するが、その他20呎×30呎の拝殿、25呎×39呎の社務所、約900平呎の神職住宅を建てるなど実に大規模な計画である。建立後12年にして、このような移転計画が出ることに、発展の順調さがうかがえる。

(f)布哇石鎚神社
布哇石鎚神社の成立は他の神社とは少し異なる。広島県出身の三宅志奈が1913年に神の声を聞いて宗教的回心体験を経たのを一つの契機とする。彼女は翌年日本へ修行に帰り、四国の石鎚神社から分霊を受け、その結果1918年に布哇石鎚神社が建てられた。彼女は病気直しや祈祷力に秀れているとの評判によって多くの信者を獲得した。とくに漁師たちの間での信仰が篤かったという。
こうした点から三宅志奈を神官というよりむしろ霊能者として扱う方が適切とも考えられ(8)る。当時から今日に至るまで熱心な氏子となっている人々は、三宅志奈の霊能力を体験的に感じた人、及びその子孫であることが圧倒的に多い。
(g)その他
以上の他にも、それぞれの出身地で祀られていたと思われる神社があちこちに建てられた。とくに目につくのは稲荷神社であり、オアフ島、カワイ島、マウイ島にいくつか建てられたようである。カワイ島には厳島神社や黒住神(9)社も建てられた。しかし、その創建の事情は定かでないものが多い。加藤神社については簡単な事情が分っている。
熊本県出身者により創設された加藤神社は、戦前はかなり盛んな祭を行なったようである。布哇出雲大社と場所も近く、祭礼は互いに張り合うような雰囲気があったという。この加藤神社については『布哇日本人発展史』に記載がある。
「加藤神社は布哇に於ける在留同胞中清正公帰依者の懇請を依り明治四十四年九月肥後国熊 本県熊本市城北に鎮座奉祀せらるゝ県社加藤神社を分祠奉斎したるものにして大正元年八月二十三日ホノルゝ市ベレタニア街に地を卜し神殿及び社務所を新築し此に鎮祭す目下奉信会員二千余名にして別に役員を置き経営の任に当たらしむ栄木鎮三郎社司たり附属事業として別に神教主義を奉持せる青年団体を有す」(同書325頁)
以上、現存する各神社を中心に、創立事情および初期の展開について簡単に紹介した。古い資料はとりわけ年号に関しては互いに食い違っていることが多いし、面談調査から得られた内容には記憶違いも少なからずあると思われる。従って必ずしもすべてが正確な記述とは断じ得ないが、これによってハワイでの神社創建がどのようになされたかについて、大よその見当をつけることはできよう。
ごく概括的に表現するならば、ハワイの日系人の間にも受け継がれた神社を祀るという習俗を基礎として、それぞれ特定の目的ないし能力を持った布教者たちの努力が、個々の神社の創建へとつながった、ということで(10)ある。神社を祀る習俗に関して言えば、移民の大多数を占める広島県、山口県、熊本県の出身者の中に、もともと神社信仰に熱心な地域から移民してきた人が少なからず存したことが重要である。例えば広島は安芸門徒で有名であるが、他方神石郡などは神社信仰の盛んなところとされる。また広島、山口は出雲大社教の盛んな地域であり、四国の石鎚神社の信仰圏内でもある。
他方、布教活動を行なった側には方法や能力の差異がある。大神宮系統の場合は、神宮奉斎会からのテコ入れがあったようである。他方、出雲大社の場合は、宮王宮司の個人的意図が大きかった。金刀比羅神社の場合は判然としないが、石鎚神社の三宅志奈は明らかに行者的性格をもつ女性であった。多分日本国内であったなら、神道系の新宗教といった範疇に入れられるような教団に発展した可能性がある。
こうした各神社の発展期は太平洋戦争が始まるまで続くようである。1924年に新排日移民法が施行された頃から、日米関係は次第に悪化の方向をたどり、それが日系人社会にも暗い影を投げかけ始める。しかし、1世が健在であったこの時期には、神社神道の活動は盛んであった。「結婚式なら出雲大社」といわれて賑わった出雲大社布哇分院の氏子は1931年当時、約1万数千人と報じられているが、その他の神社の初詣や大祭も盛大であったようである。1930年代はハワイの神社神道にとっては絶頂期とい(11)えた。
太平洋戦争が始まる5年前の1936年の新聞記事を拾うと、初詣、例祭、大祭が賑やかにとり行なわれたさまがあちこちに存する。例えば同年1月3日の「日布時事(The Nippu Jiji)」には「当市リリハ街の布哇大神宮の新年祭行事は元旦午前零時より終日厳粛に行われ参詣者は一万余人に及び盛大であった」と記され、また、特務艦「佐多」の乗組員水兵が各分隊長に引率され参拝したことも書いてある。
また、10月5日の同紙には、出雲大社の分院創立十年祭の祭典が盛大に挙行されたことが報じられている。このときの参詣者は約1万人の大盛況で、また祭員も、宮王分院長を祭主として、副祭主に、川崎宮司(布哇大神宮)、磯部宮司(布哇金刀比羅神社)、木村宮司(布哇石鎚神社)、生熊祭員など、計15名の多きを数えている。
この状態は1930年代ずっと続いたと思われる。河田登著『移民の(12)経験』(中巻)は、広島から移民した著者が、日記をもとに作った本であり、当時のハワイ日系人の生活ぶりを知るには貴重な資料である。この中にも初詣風景を描いた箇所か度々出てくるが、1939年の元旦の日記には次のように書かれている。
「元旦の御祝が済んだ頃H君が迎えに来てくれて、共に神詣に出掛けた。先づリリハ街中程におわす大神宮様へお参りし、過る年一家恙がなく暮さして頂いたお礼を申上げ又今年も何卒よろしく特に子供等が元気よく育って行きます様にお願いした。其所からベレタニアキング街合流点山手におわす、出雲大社へお参りし、此所でも同じ思いをお祈りし、お神酒も頂いて、Hの宅まで帰り、此所で皆さんとハッピーニューイヤーと堅く握手を交した。」(606頁)
多くの神社はまた、宗教活動の他にも、日本語学校を開いたり、武道の練習場を提供するなどして、日本との文化的また生活感覚上の絆を保っておくための活動も怠らなかった。この時期は神社神道全体、つまり神官も氏子も異文化内状況をそれほど意識することはなかったと思われる。神社そのものの存続が日系人社会によって保障されていた。神社神道がハワイのような異文化社会の中でどうやって存続していけるのであろうか、といった問を脳裡に浮かべた神官がその頃果たして存在したであろうか。
こうした神社神道の発展期ないし安定期は、太平洋戦争の勃発によって根底から揺り動かされ、九天直下崩壊の憂き目に遭遇することになる。この戦争は日系宗教一般に手ひどい打撃であったが、戦後の復興状況を見ても、それはとりわけ神社神道には厳しいものであったと言わざるを得ない。
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3 太平洋戦争と神社神道の活動停止

1941年12月7日の真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争は、ハワイの日系人にとってはこの上なく衝撃的なできごとであった。日系人社会全体に不安、混乱、対立が生じたし、また個々人の内面においても心理的葛藤が昂じていった。
戦争の勃発は、直ちに宗教家たちの一斉逮捕という形で宗教界にも波及をもたらした。神官の多くも即日逮捕され、インターニ(internee)となることを余儀なくされる。神道はもっとも危険な宗教と見なされて監視の目も厳しかった。その結果、コナの出雲大社布教所のように、氏子たちがFBIの捜索を恐れて、自分らで社を破壊するという事態すら生じた。戦々兢々たる時代であった。
宗教家の逮捕は、有力団体の幹部、日本語学校の校長などと共に、日系人の間で指導的人物と見られていた人々についての「ブラックリスト」によってなされたものであった。彼らは直ちにサンド・アイランドに移され、約2ヶ月半極めて苛酷な扱いを受けた後、ほとんどが米本土へと移された。1942年2月の第1回船組の中には、布哇金刀比羅神社宮司の磯部節、布哇大神宮の川崎嘉添、布哇石鎚神社の木村富次、布哇出雲大社の宮王重丸などの氏名が見える。
抑留経験は彼らにとっては完全な地位逆転の経験である。尊崇される地位から、いわば犯罪者的地位への急落である。米軍側で彼らの処遇法が定まっていなかった抑留初期にはとくにその扱いはひどかったようである。宮王宮司に1935年に父勝良のあとを継いで宮司となり、更に手広く活動しようとしていた矢先の抑留であった。戦争直前の11月に沖縄、朝鮮、満州を訪問し、また出雲大社本部にも立ち寄っている。それは同年7月、沖縄波ノ上宮および沖縄神社の分霊を奉遷したことなどに絡まる宗教的意味あいのものであったが、時期が時期であっただけにFBIからさまざまな嫌疑をかけられた。
インターニ生活は彼にとってやはり屈辱の体験である。インターニの誰かが食事用のナイフを隠匿したとして米兵から全員が素裸にされて取調べられたといった類の体験、これは結局米兵の数えまちがいということが判明して一件落着するのであるが、このような体験は、まさにそれまでの人生では予期し得なかったものとして彼の脳裡に深く刻まれた。
川崎嘉添宮司もやはり父正郷のあとを継いでまもなくのインターニ体験である。布哇大神宮は「ハワイにおける日本精神の根源地は布哇大神宮なり」ということですぐさま接収となった。FBIは最初門に刻んである布哇大神宮という文字を布で隠せと命令してきたが、しかし雨が降ると文字が見えるので、次いで木で隠せと命令してきたという。また神社に寄付した人などは直ちに逮捕されたりしたので、彼の母は寄進者の依頼で彼らの名が分らぬように寄進物をことごとく焼却した。
川崎宮司も手荒な処遇を受ける。「少し話があるから来い」ということで車に乗ると、いきなりピストルをつきつけられそのまま移民局へ連行される。そして、当初は食堂と便所の施設しかなかったという、悪名高きサンド・アイランドに送られるわけである。
川崎宮司は、しかし、抑留されたときも、御神体だけは保持し、また白布で包んだその御神体が見咎められることはなかったという。1943年、第2回の交換船で日本へ渡ることが可能になったとき、御神体が初めて見咎められ、開けて見せろと命令される。だが同宮司は承服せずこれが宗教的崇拝対象であることを説明し、「あなたも自分の十字架のロケットを開けろと言われたら、ノーと言うであろう」と反駁する。この主張が通り、違法であるけれども道理に合っているということで御神体をそのまま日本に持ち帰ることができたという。彼が再びハワイの土を踏むのは1954年のことになる。
酒井国助は開戦当時、ラハイナ大神宮の神官であった。山口県熊毛郡の出身であるが、光市にいるとき、早長八幡宮で神官をしていた経験があったので、1917年単身来布した。しかし、あいにく神社に空いたポストがなかったので、3ヶ月位で帰国する予定であったが、既にハワイに住んでいた両親が怪我をするというアクシデントがあり、帰国できなくなる。そこである店に勤めていたが、あるときその仕事の関係でマウイ島に行ったとき、偶然早長八幡宮時代の氏子に会い、ラハイナ大神宮の神官が高齢(80歳位)で、目も悪いから是非来てくれと招請される。結局1937年1月にラハイナ大神宮の神官となった。苦労の末、1941年6月に遷座式を行なったのであるが、それから半年足らずで開戦になってしまう。
酒井宮司も12月7日、開戦の日に即日逮捕された一人であり、収監されると家族との面会も一切許されなかったという。収容所でもいろんな質問がなされ、中には「日本が勝った方がよいか、アメリカが勝った方がよいか」などという露骨なものもあった。彼は、両国は自分にとっては父母の如きものである、と答えたという。また天皇の写真を踏ませるというアメリカ版「踏絵」も一部の人々に対してなされたらしい。
衝撃的経験を経て、終戦後1945年12月の交換船で日本に帰った酒井宮司であるが、夫人がハワイ生まれの2世でハワイに帰りたがったため、1958年10月に再び来布し、その後一時布哇金刀比羅神社の宮司に着任することになる。
神官が次々と逮捕され、中には神官夫人も逮捕されたりし、また神社の宗教活動が一切禁止されたとあっては、神社神道は急速に衰退の道をころげ落ちざるを得ない。教義というより儀礼中心の宗教であるから、その儀礼を行なう人と儀礼の場が失なわれたことは、ハワイの神社神道は手足をもぎ取られたにも等しかった。
こうした状況の下で神社神道に見切りをつけた氏子もいた。コナのように氏子が社を破壊したような場合は極端としても、たいていの社殿は放置された。ラハイナ大神宮は酒井宮司が逮捕された後、役員たちが行政当局と相談の上、社を放棄することを決め建物を競売に付した。出雲大社のヒロ布教所とワイルク布教所は、戦時中放置された社が、終戦後まもなく、それぞれ津波と川の氾濫によって破壊されてしまった。他方、カカアコ金刀比羅神社のように、終戦後神官の精神状態がおかしくなったような例もある。
ハワイの神社神道が異文化内状況にあったのだという事実は、こうして、突然にそして暴力的作用を伴なって立ち現れた。教勢の広まりや、日系人社会自体の変質を通して異文化内状況が認識されたのではなかった。まさに外在的要因によって生じた認識であるがゆえに、かえってその真に意味するところは見失なわれたきらいもある。異文化内状況というものが宗教活動には具体的にどういう問題点をつきつけてくるのかは、終戦後かなり経って、つまり日系人社会の世代交代が決定的となるまで把握されなかった。
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4 異文化内状況の切迫と神社の再建
  (1) 再建の諸相
終戦直後のハワイ日系人社会は異様な雰囲気の中にあったようだ。一部に「勝った組」「必勝組」「布哇大勝利同志会」などと称する人々が各島に存し、情報が比較的豊かと思われるホノルルのような都市部にも、日本は戦争に勝ったのだということを真剣に唱える人が少なからず(13)いた。『移民の経験』(下巻)の中にもこうした人々のことが記されている。例えば1946年1月28日の日記にはこう書かれている。
「(前略)・・・・・・大多数が隣家の顔名染で話題は終戦と勝敗、話は仲々どうして日本勝利党
がママ有勢だ。現今ホノルル日本人社会では勝敗論で不仲に成ったと云ふ人も多い。此のお目出度い席へ異論故出席しないとまでがん張ってる者さえ居る仕末だ。うかつに口も開けられないので僕は笑って聞いていた。疑問として居る方は、二三年も経てば判るだろうしと云ふ。日露戦後ロシヤ国民の多数は三年後頃やっと敗戦を知ったと聞くと。米国の敗戦も其の位い経たねば判るまいと云ふ方も居る。だが、三十五年前のロシヤの田舎人民と、太平洋の真唯中に戦争を毎日感じて住んで居た。現代日本人と同程度視して良いかしらと僕は一口云って置いた。此んな事を此処へ書くと笑ふて読むだろうが、現今は此れが偽らざる日本人社会相だから仕方はない。・・・・・・(後略)」(同書112頁)
宗教家の中にも、むしろこのような動きを煽動するような人もあったようである。しかし、他方FBIなどアメリカ司法当局に対する恐怖はまだ根強いものがあったから、仲々足は日系宗教へは向わなかった。また1世と2世との間の微妙な立場の違いも戦時中に顕在化してきた。1世の中には日本の勝利を願ったものが少なくなかったとされるが、2世の多くはアメリカ軍人として兵務についたからで(14)ある。
この異様な雰囲気は、神社の再建にもさまざまな形で絡まりを見せる。良い意味でも悪い意味でも、神社神道は日本やかっての日本の国体思想と重ね合わせて眺められたからである。戦後の神社神道の再建は太平洋戦争のいわば後遺症と取り組むことから始まったとも言える。
総じて戦後の神社神道においては異文化内状況は急速に強まるが、それはアメリカ社会の中での日系人社会による緩衝作用の弱まりが主たる要因となる。緩衝作用の弱まりは、このような戦争の余波と、今一つ世代の更新による影響を考えねばならない。日系人社会を担う世代が時と共に変っていくことは必然的なりゆきであるが、戦争はこの移り変りによってもたらされる宗教生活の変容速度を一挙に早めてしまった。これらのことは次のような具体的影響として神社神道を見舞う。
@戦時中神社参詣ができなくなった人の中には、戦後参詣できるようになっても来なくなった人もいること。
A日本語学校の廃止で2世、3世の日本語離れが加速されたこと。
B神道祭礼が開戦から戦後しばらくの間途絶えたことから、若い世代がそれに親しむ機会が失なわれ、ひいては神社そのものが彼らに疎遠なものと感じられるようになったこと。
これらはかなり危機的状況を生むが、いくつかの神社は活動を始め、戦後10年近く経つ頃に、ようやく再建は本格化する。再建そのものは、いかにして旧に復するか、という課題が当面のものであり、異文化内状況への意識的対応は次の段階を待たねばならなかった。
ところで、戦後の神社の再建の時期は、個々の神社により異なるが、終戦後ちょうど10年経って1955年12月に米国司法当局により「ハワイ神社神道は反米的ではない」という見解が出されたことは、神社再建にとっては象徴的なできごとと言える。同年12月9日付けの布哇報知新聞は次のように報じている。
「一九五四年四ママ年一日発米国司法省が発表した『反米的団体リスト』中に"神道の神社"が含まれていたのでホノルル市の布哇大神宮、布哇出雲大社、布哇金刀比羅神社、布哇加藤神社の四神社により組織されている布哇神道連盟は新谷政雄氏を通じ、司法省当局に前記の"神道の神社"とは如何なるものを指さすか問ひ訊した所、司法省は反米団体取締部主任ジョセフ・アルドマン氏の署名入りで大要次の通りの返書をよこしたのである。
反米団体リスト中にある"神道の神社"とは一九四五年日本に於て廃止された"国家神道の神社"を意味するもので、"宗教神道の神社"のことではない。ハワイの神道の神社は "宗教神道の神社"としてハワイ懸法律に従ひハワイ懸会計局に登録されているものであるから反米団体リスト中に記名されたる"神道の神社"ではなく、従って反米的な宗教団体ではない
なお布哇神道連盟の要請に応じ司法省当局は、反米団体リスト中の"神道の神社"なる用語を"一九四五年廃止されたる神道の神社"と修正することになったという。」
司法当局の覚(15)え書は実際は9項目から成っていたが、重要なのは国家神道(State Shinto)と宗教的神道(Religious Shinto)という2つの概念の区分が明確に示されたことであり、ハワイの神社神道は後者に属することが確認されたことであった。
この覚え書きが出された前後に神社神道をめぐる一般的状況は好転のきざしを見せ、暗黒時代は終焉を迎えるが、こうした中での各神社の再建には、大きく分ければ神官の側の努力と氏子の側の努力の両要因が必要であった。明らかに氏子の貢献が大きかった布哇金刀比羅神社やヒロ大神宮のような場合と、逆に神官の努力を高く評価しなければならないマウイ神社の例とがあるが、もとより片方の要因のみで再建は不可能である。
では戦後の再建の実状はどうであったかを、創建の事情について記した6社(布哇大神宮、ヒロ大神宮、馬哇神社、布哇出雲大社、布哇金刀比羅神社、石鎚神社)について見ていくことにする。

(a)布哇大神宮
布哇大神宮は戦時中(16)もYという人により神事がとり行なわれていたが、むろん公開のものではなかった。彼女は1960年代になって広島へ帰ったという。また終戦直後、川崎嘉添宮司が日本に帰っている間は、生熊記内が宮司役を務めた。
生熊宮司は広島県神石郡の出身で、神職の家の出であったらしい。戦前は布哇出雲大社コナ布教所にいたが、氏子とトラブルがあってホノルルに来た。しかしホノルルの出雲大社では雇えなかったので、布哇大神宮で助手役をやるようになっていた。彼もまたインターニとなったのであるが、子供たちが皆ハワイにいたため、日本へは帰らずハワイにとどまったわけである。
川崎宮司は1954年に再びホノルルにやってくるが、それまでは生熊宮司と連絡をとりあっての遠隔再建努力であった。生熊宮司時代に、ヤング街に仮社殿が設けられ、また1949年7月4日には、布哇大神宮教団が法律的には1920年以来継続していることの証明を得ている。
しかし、本格的再建は川崎宮司の帰布によって開始される。1957年には現在社殿があるプイワロードの土地を購入し、白人の住んでいた邸宅を買いとり改築した。この改築は基本的に氏子の奉仕によってなされ、当時約7〜800人の人々が協力したという。翌年11月1日仮社殿が完成し、遷座式が行なわれた。
これ以降、大神宮は比較的軌道に乗った再建をなすことができたようである。ただ、これには1959年の布哇伊勢大神宮の合祀が行なわれたことも大きかった。この布哇伊勢大神宮は現在はないのであるが、戦後一時期加藤神社・布哇伊勢大神宮として再建され、かなり賑ったようである。この神社の再建は布哇大神宮の再建にも係わりがあり、また当時の宮司の記録という貴重な使用も入手できたので、神社再建のいきさつの一事例として、ここにつけ加えておくことにする。
加藤神社・布哇伊勢大神宮にもっとも深い係わりを持つ宮司は田原亀雄である。田原宮司は広島県神石郡の出身で、代々神職の家の生まれであった。戦前ラワイ大神宮が欠員であったので、布哇大神宮教団の招聘でハワイに渡った。その後、加藤神社に招かれ、ここに伊勢神宮から分霊をもらってきて、加藤神社・布哇伊勢大神宮とした。これは戦時中に取り壊しとなるが、1954年に再建される。これ以降、1959年の加藤神社と布哇伊勢大神宮の分裂、そして後者の布哇大神宮への合祀までの記録が田原宮司によって綴られている。
1954年3月、正式に認可された財団法人加藤神社・伊勢大神宮教団は、1954年12月1日より1959年11月30日までの5年間のリース契約が成立して、社殿をベニヤード街の布哇金刀比羅神社敷地内に移転させた。1955年4月には教団創立を伝える文書が出されたが、その中には「敬神崇祖の念は吾々大和民族の一大美風であり民族発展の原動力であり祖国を離れ異域にある私共は後継者たる子孫に比の美点を伝へ敬神の念を篤うし益々健実なる発展を遂げ日米友好増進世界平和のため貢献せんとするのが唯一の目的であります。今や世ママ想は幾度変遷洵に激しいものがありますが悠久三千年連綿として輝々御神徳に更に光彩を添へて永久に伝へたい外ありません」とある。
日米友好をうたってはあるが、日本における神社神道と異なるところを志向したところは何もないと言ってよいであろう。
神社再建は順調にいったようで、1955年6月18日、19日には、伊勢大神宮・加藤神社の大祭および移転遷座奉祝祭を行なっている。このときは、田原宮司を斎主とし、布哇金刀比羅の磯部節宮司、布哇出雲大社の宮王重丸宮司、布哇大神宮の川崎嘉添宮司、石鎚神社の木村富次宮司その他が助祭の役を務めている。
この頃になると、神道復活への意欲はかなり高まっていたようで、役員会には20名程度が出席し、月次祭の計画や募金集めの相談をいろいろ行なっている。また加藤神社が主として熊本県人によって支えられてきたことに関係あろうが、一時熊本県から新たに神官を招聘しようという意見も出た。この計画は資金問題、つまり神官の生活の保証ができかねるということで立ち消えとなったが、それでもこの計画に固執する人もいた。恐らく熊本県人会に属する人とそうでない人との微妙な感情の差が関与していたと思われる。
1956年の大麻頒布数を見ると、伊勢神宮より7,000体を受けとり、うち4,040体を一般頒布して(17)いる。また1957年の会議議事録には、「講社員勧誘の件」とか「当社移転の件」といった協議事項が記されてあり、活動自体にそれなりの活気があったことを窺わせる。1958年の大祭の案内状は2,000通発送され、更に800枚が理事を通じて依頼されているから、当時の伊勢大神宮・加藤神社は、現在の布哇大神宮や出雲大社よりも活況であったと推測される。
このように活気を呈していた同神社であるが、1959年になって内紛が表面化し、一種の教団分裂に至る。その原因は、1つは会計状態が余りおもわしくなくなったことと、1つは熊本県人会側と伊勢大神宮側との意見の齟齬ということがあったようである。この分裂を促す結果になったのは、布哇大神宮からの伊勢大神宮への合祀の提案である。
1959年5月6日の記録として次のような記載が見られる。
「M氏、H氏来訪あり、神社移転につき如何なる考へであるかと、同問題につき質問あり、自分は一九五七年四月頃布哇大神宮の川崎宮司、K氏、M氏の三氏来訪され布哇平和の為尚又神道界発展の為、二大神宮の合祀をしてはとの相談を持掛けられて居るので自分としては此際全く以って神道発展の為にも二社合祀してはと思って居ると、意見を述べるもH氏は不賛成であった。今後二人で役員其他各方面へ、集合其の他で善後策を練ると云う事で辞去された。」
この問題は、加藤神社と伊勢大神宮のそれぞれの分霊の遷座をどういう手順で行なうか、また田原宮司の処遇をどうするか、で約3ヶ月もめる。結局、加藤神社は元の社へ遷し、伊勢大神宮は布哇大神宮に合祀する、また田原宮司は布哇大神宮の権宮司に迎えられるということで決着がつく。加藤神社は現在は石鎚神社に合祀してある。
経営面ではともかくとして、宗教活動そのものはかなり盛んであった布哇伊勢大神宮が布哇大神宮に合祀されたことは、後者のハワイにおける意義を高める結果になったと思われる。

(b)ヒロ大神宮
ヒロはホノルルと少し雰囲気の異なるところである。都市部でないということもあるが、日本的な伝統が根強く残っていることが大きい。ここは「勝った組」のもっとも勢いの盛んな地域の一つであった。
ヒロ大神宮は戦時中は接収され、また終戦後ほどない1946年4月1日の津波によって海岸近いワイルクリバーにあった社は床上まで浸水した。既に戦前から常住の神官はいなくなっていたので、戦後も神官不在、社半壊という状態から出発せねばならなかった。このような劣悪な条件の中で神社再建の運動が成り立ち得たのは、熱心な氏子集団があったからである。終戦後「勝った組」が中心となって神社奉賛会が結成された。その中心人物は広島県出身のFという人物であり、彼は日本の「みいづ会」のメンバーになっていた。
Fの自宅で定期的に集会がもたれ、神社再建の希望は強かったようである。1956年頃に、接収されていた社が返還されると、神官を招こうという動きも本格的となる。そうした意向をうけて、1959年2月に宮崎昭和宮司が神社本庁から派遣され着任する。実質的な再建は宮崎宮司の来布以降となるが、しかしそこに至る氏子の願望が、再建への道を拓いたと考えなければならない。カワイ島に神社がついに再建されなかったことを考え合わせるなら、このような熱心な氏子集団が少数ながらも存していたかどうかは、戦後のハワイの神社神道の復興に重要な鍵となったといえる。
宮崎宮氏の来布の翌年1960年5月23日に、ヒロは再び津波に襲われる。このときの被害は前回よりずっと大きく、社は全壊する。しかし、日本との連絡が密にとれる同宮司の存在と、少数ながら熱心な氏子の存在とが神社新築への途を開いた。そして6年後の1966年に、海岸からはだいぶ離れた現在の地に社を作り、6月に遷座式を行なっている。また1970年にはホールも完成しているが、このホール建設に当っては、宮崎宮司が日本の政治家からも寄付を仰いでおり、ホール内にはその寄付者名一覧が掲げてある。
新しい神社が完成するまでの間も、ヒロに近いオノメアキャンプにあった社を借りて祭は行なわれた。「祭はオノメアで、ミーティングはヒロで」と合い言葉にされたような形で、儀礼と組織の維持が図られていたわけである。
ホノルルにある神社は、布哇大神宮、布哇出雲大社、布哇金刀比羅神社、石鎚神社が神道連盟を結成しているので、それぞれの大祭の時には、互いが協力しあう。しかしハワイ島には現在1つしか神社がないので、通常そのような協力は期待できない。そうした役は古くからの1世、2世の氏子が担っている。
神社のあり方について、日本的な存在様式を追求する宮崎宮司と、自分たちで守ってきた神社なのだという意識を抱く古くからの氏子との間で、幾つかの点で食い違いが生じているのは致し方のないことであろう。しかし、ヒロ大神宮の再建という点に限ってみるなら、この両者のそれぞれの特徴が結果的にはプラスの作用をなしたといえる。

(c)馬哇神社
終戦後のマウイ島の状況はハワイ島のヒロに比べると神社への風当りは強かったようである。戦後5年を経た頃、祭礼を行なってもよいという許可がおりたようであるが、お参りに来る人は皆無に近く、有根宮司は他に職を捜さねばならなかった。
有根政雄は広島県の出身であるが、松村正穂、こあくつ小堆(18)初彦に続いて、開戦直前に宮司となっていた、小堆宮司が1941年11月に日本へ帰ったからである。現宮司の有根(旧山田)刀良子と結婚して6ヶ月後に開戦を迎えたのであった。
戦時中の有根政雄宮司の抑留は約10ヶ月で済んだが、神官としての活動ができるまではだいぶ苦闘しなければならなかったようである。1942年にカフルイ鉄道会社の借地に建ててあった二軒の家をあけ渡すように通告され、以来一家は神社の拝殿で生活を続けていた。終戦になっても事情は好転せず、神社からの立ち退きさえ命ぜられる。神社も借地に建てられていたからである。これを無視していたところ、立ち退かなければ神社に火を放つとまで言われ、止むなく移転計画を進め、1953年現在の社殿があるパウクカロに土地を購入することになった。一部の氏子の協力で神社移転が実行に移され、翌1954年に作業は完了する。
この頃になって、ようやく以前からの氏子が次第に神社を訪れるようになったという。それまでは、今さら日本人が神社など建ててどうするのか、という声が日系人の間からも少なからず発せられるというありさまであった。戦後は神社本庁からの援助は一切なかったようであるが、有根夫妻とくに刀良子夫人の方が精力的に氏子の家を訪れ、再建に奔走した。なお1972年に有根政雄宮司が死去して以来、夫人が宮司となっている。

(d)布哇出雲大社
宮王重丸宮司は終戦の年の12月10日にハワイへ戻ることができた。1947年の夏に市郡政府の衛生局から聖職者(Priest)の免許をもらったが、そのときの次長から個人的に、「神道が有害であるという書類はない。免許を取りあげることはしないから、どんどん布教しなさい」と言われ、同年秋には大祭をやったという。しかし、まだその頃は依然、お宮に参ると道の向かい側からFBIがチエックするという話が流布していた。『移民の経験』(下巻)の中でも戦後出雲大社に初詣したという話がでてくるのは、ようやく1953年になってのことである。この年の元旦の様子は次のように述べられている。
 「何卒今年も一家揃って安泰の様にと午前0時に成るのを待って実生と私は出雲大社分院 へ初詣に、現在分院はヤング街とアテージョン街角山手二三軒カイムキ側一カテージを改造した社殿で戦時中大陸監禁より帰ってやっと落付いたと云ひたい。宮王重丸神主に依って捧持されていた。参拝者は列をなし其の間に白人等も混っていた。世話役も相当出仕し盛大で社殿がカテージと云ふだけで其の他に何も変りはない。やがては戦時没収の憂目に会ったあの立派な社殿に優る社殿が建立される時期も来るだろうと有志世話役の意気を感じた。頂いて帰った洗米を神棚に供へ一家平安を我家で祈った。此の時刻にはもう爆竹の音もまばらであった。」(同書234頁)
1923年にリリオ街に建てられていたものとの社は、1944年教団の解散命令と同時にホノルル市郡政府(City and County of Honolulu)に寄付されたことになっていたので、宗教活動を戦前並みに復興させるには、まずこの解散命令を無効にする闘いから始めなければならなかった。ヤングストリートに仮社殿を設けて祭礼を行なうのと並行して、本格的訴訟が1953年になされる。訴訟内容は、土地建物は市郡政府に戦時中寄付したのであるけれども、これを返却して欲しいというものであった。この訴訟は、公聴会で、布哇出雲大社教団は解散しているのだから訴訟そのものが不合理である、という意見が出されるなど紛糾した。裁判も勝訴、敗訴と逆転し、結局大審院にまで行く。ところがこの最後の裁判の進行中、資料を整理しているうちに未支払いの請求書が見つかった。そこでこのような支払義務を残したままの教団解散は無効であるという申し立てを行ない、劇的な勝訴となる。
1962年、提訴以来10年にして、布哇出雲大社教団はようやく法的にも継続していることを認められ、また社殿土地の返還も実現した。翌年には次のような移転造営募金趣意書を配り、15万ドルを集めて、移転と社殿の修復がなった。
「(前略) たまたま今次大戦中パラマの旧社殿敷地財産は一時市郡政府の所管となって居ましたが、昨年5月には右財産は政府の好意により教団に返還せられ更に其の開発計画にもとづき買い上げられました。市郡開発局は旧神殿は広大荘厳の威容を保ち、日本古来の神社建築の結果を備えたハワイに於いて得難き構造と幾多の歴史を重ねた建造物にて、是れは是非、文化財としてホノルル市内の中央部に移転保存いたし、以て布哇発展のため永年貢献した多数の日系人パイオニアの記念物として将来永く尊重し後世に遺すべきものと決定せられ、吾が教団に対しその移転保存を勧められ、且つまた、ククイ街カレヂウォーク街角のヌアヌ・リバーに添った市中目抜きの敷地を極めて理解ある条件にて買下げ方を御交渉になりました。因って教団は幾度の総会並びに重役会或は委員会を開催し、此の好意ある申込に賛同、パラマの社殿を写し、荘厳なるお宮の再現復興を決定いたしまして目下その準備を着々すすめて居ります。(後略)」
社殿が現在の北ククイ街に移されたのは、1968年12月のことであり、翌年10月5日には日本から千家達彦管長を招き、新社殿において竣功祭が行なわれた。出雲大社の場合、社殿土地の返還運動が成功したことが、再建を確実なものとしたといえるが、祭礼自体はより早くから活気を取り戻していた。とくに初詣の場としてはもっとも人気のある社であり、そうした点が比較的容易に再建の道を開いたと考えられる。

(e)布哇金刀比羅神社
布哇金刀比羅神社教団の戦時中の継続、戦後の復興には、やはり熱心な氏子・信徒の存在が大きかった。金刀比羅神社が接収を免れたのも役員の努力があったからという。のち、1965年には彼らの功績を称えて顕彰記念碑が立てられた。
1949年6月には教団顧問、相談役、団長等各役員20名の連名で趣意書を起草し、教団所属財産返還起訴のための寄付を仰いでいる。
「既に大方の諸氏御承知の如く吾が布哇金刀比羅神社教団の宗教は社会福祉人類の幸福と
世界平和を希望する宗教団体として布哇県会計局の認可を得て法人財団を組織し宗教団体と
しての特典を享有し来れるなり偶々不幸にして日米の国交破るゝや布哇金刀比羅神社教団は
即時敵国人財産管理局の支配下に凍結されたるまゝ終戦後三ヶ年に及ぶも依然として吾等の
出願は許容されず剰つさへ一九四八年六月には歪曲されたる報道不当なる理由の元に遂に教
団財産を没収されるに至れり、爰に於て吾等役員も熟議の結果一切を挙げて瑞典領事オルソ
ン氏に委ね専ら外交手段に依り穏便なる返還運動を起こしたれども是れ又その効を奏せざる
のみか管理当局は本年四月四日を以って布哇金刀比羅神社教団所属財産の競売執行を公告せ
り事爰に及んで吾等役員も遂に意を決し権威ある法律家に依嘱し即時競売執行差止め令の発
動と共に一方合衆国検事総長に対し教団所属財産返還訴訟を提起して公正なる裁断を仰ぐこ
とにせり。(後略)」
このような訴訟を提起する一方で祭礼を復活しようとする準備も着々と進められ、1950年秋には早くも10年振りの大祭が挙行された。10月30日付のハワイタイムスには「布哇金刀比羅神社十年振りの大祭盛況」という見出しで次のような記事が見える。
「十年振りに大祭を開催したパラマ金刀比羅神社は昨日午後二時より氏子、信徒総出の盛況
を呈したが先般来氏子各位の奉仕によって清浄に修理された境内は神前の締縄も新しく、役
員努力の程も伺はれて一段と敬虔な気が立ちこめて居た、午後二時より奉仕神官として出雲
大社布哇分院の宮王神官を斉主に布哇大神宮生熊神官、伊勢大神宮分院の田原神官、石鎚神
社の木村神官、カカアコ金刀比羅神社より石丸神官を始め森宗、藤岡、安田、佐藤、松村の
諸氏が列席していと厳かに祭典は挙行され三輪氏の司会の下に左の諸氏が玉串を献上した」
この記事でも分るように、他神社からの神官の奉仕はあったが、当時布哇金刀比羅神社(所在地をとってパラマ金刀比羅神社とも呼ばれていた)に宮司はいない。一定数の熱心な氏子・信徒がいても、やはり神官がいないと儀礼は滞る。境内は一時かなりさびれたようである。そこで世話人たちは何かと専任の神官を迎えようと努力し、以前ラハイナ大神宮の宮司であった酒井国助に白羽の矢を立てた。1959年9月のことである。既に述べたように、酒井宮司は終戦後交換船で日本に帰ったが、夫人が帰布を望んだため1958年に再び来布していたのであった。
着任した酒井宮司は理事、アロハ婦人会、世話人などのところを回り、以後の方針を検討した。1ヶ月ほどは、ほとんど1人の参拝者もなかったが、やがて講社祭にぼつぼつ人が集まるようになった。
1962年にはホノルルの市街地を東西に走る高速道路(フリーウェイ)建設のため、境内の約2/3削りとられ、弓道場、相撲場もなくなってしまうが、祭礼の方は次第に盛んとなった。酒井宮司は老齢を理由に1971年に現在の高井誠司宮司に職を譲る。高井宮司はさらに精力的に活動を行なうが、金刀比羅神社の再建という点では、役員たちの努力が基盤で、そこへ経験ある宮司を迎え得たということが第2の要因であろう。
(f)石鎚神社
三宅志奈が帰国したあと神官をやっていた木村富次は大戦中に拘留されたが、社は接収されなかった。石鎚神社は戦時中接収を免れた唯一の神社である。ところが終戦後1949年6月になって、理由は不明のまま、突然接収されてしまった。この接収は5年後の1954年5月に解除となり、ようやく宗教活動が可能となった。その年の祭には約50〜60人が参加したという。
石鎚神社の氏子集団は他の神社のそれとは少し性格が異なり、三宅志奈に子供の病気を直してもらったというような体験の後、お参りを続けるようになった人々が何家族があり、そうした人々が常に活動の中心にあった。日本の四国にある石鎚神社からは分霊をもらってあり、その一支部という形ではあるが、しかし経済的係わりはなかったからして、再建も木村富次・イト夫妻と、これらの熱心な氏子との協力によってなすしかなかった。
1963年に新たに完成した社殿は日本から3人の大工を呼んで作ったものである。この頃社殿の修復、新築はあちこちで行なわれているが、神社の建物はきちんとしておきたいといったような感情は日系人の間ではまだ根強いものがあったのかもしれない。
1965年には加藤神社を合祀することになり、この頃大祭はかなり盛大であったようである。三宅志奈への個人的崇拝感情が存していた点では特異であるが、活動の形態としてみるなら、他の神社と同じように祭礼中心になっている。

 以上各神社の再建・復興の状況をそれぞれ簡単に示してきたが、これを比較してみると再建が可能となるにはどういう条件が必要であったかがいくらか明確になる。
第1には、戦前からの神官の活動再開である。布哇大神宮(生熊宮司)、布哇出雲大社(宮王宮司)、石鎚神社(木村宮司)、馬哇神社(有根宮司)の場合がそうである。戦前からの宮司は期間に長短があるものの、全員がインターニの経験を有する。そうした人が戦後神官として再び活動を続ける意志をもったかどうかは重要なことである。上記の4人はいずれも終戦直後から再建への道を探っている。
一方、氏子・信徒の側にもある程度これに呼応するような土壌が必要である。具体的にはこれは、神官が再建努力をするのなら援助を惜しまないという形と、神官がいなくとも何とか神社そのものを再建し、祭礼だけでも行なおうとする形をとってあらわれた。外見的には後者の方が強い熱意をもっていたようにも印象づけられるが、そうは簡単に言い切ることもできないであろう。
このような熱心な氏子・信徒層にも実はどうやら二種類の集団がいたようである。1つの集団は神社そのものへの信仰が篤かったという人々、もう1つは「勝った組」「同志会」と称された人々である。両集団の性格を兼ね備えていた人々もあったであろう。前者についてあらためて説明する必要はないと思うが、後者については少々説明しなけらばなるまい。
「勝った組」「同志会」などと称された人々、つまり日本は戦争に勝ったのだと信ずるグループは一時期かなり多かった。そしてそれらの人々の一部が、戦勝国日本のシンボルの一つとして神社に目を向けたのは当然であろう。しかし、具体的に彼らがどのような役割を果したか特定はできない。それは1つには、「勝った組」についての話を現在の日系人はほとんどしたがらない、即ち情報自体が集めにくいということがある。それからもう1つは、「勝った組」の性格自体の変質もあって、これに係わりをもった多くの人も、果してどの程度自分もしくは友人、知人が「勝った組」と言えるのか混乱気味ということがある。変質というのは、当初は文字通り戦争に勝ったという信念であったのが、戦後の日本の経済繁栄をもって勝利の証しとしたり、精神的勝利を説くようなものもあらわれるようになったことを指す。もちろん、ずっと文字通り戦争に勝ったと信じこんでいた人もごく僅かながらいたらしい。ヒロの場合、必勝会の最終的解散は1978年であったというから、その余波がいかに大きかったかが知れる。
この勝った組にまつわる話は、当時を経験した多くの日系人にとって一種のトラウマ的なものである。これに関する問にはたいていの人が複雑な反応を示す。これについて言を及ぼすとき、一笑に付すということはほとんどなく、一応これらが一部の人による一時的な現象であるとしながらも、複雑な状況が介在したことをほのめかし、簡単に割り切る見方を拒否するかのように見える。そうした事情ゆえ、彼らのどのような具体的行動が神社再建に係わったか詳細は知り得なかったが、係わりがあったこと自体については何人かのインフォーマントがこれを認めた。
神官の意志と氏子・信徒の熱意という条件の他に、当時のハワイ社会、また日系人社会全体が神社神道に対してなした態度の時間的変化も重要である。終戦直後は、神社は人々がもっとも近づくことを恐れた宗教施設であったと言ってよい。1949年に布哇大神宮、布哇出雲大社、布哇金刀比羅神社、石鎚神社の4教団でハワイ神道連盟が結成された頃から、再建へ向けての実質的活動が許されるような雰囲気が生じてきたようである。そして既に示したように1955年にハワイの神社神道は反米的ではないという司法省当局からの覚え書が出されたことは、神社への評価がハワイ社会一般においても好転しつつあったことを象徴している。この頃から人々は気がねなしに参るようになったと思われる。またそれ以降、神社の新築や移転があちこちで行なわれているというのも、そうしたことに協力する層が増加したことを物語っている。
こうした中に再建に成功した神社は、一時期むしろ現在よりも盛況を呈したようである。まだ1世2世の氏子が活動できる年齢であったからである。戦争という突発事態によって自らが異国の中にあるということの意味を否応なく感じさせられたハワイの神社神道は、その全体的勢力は大幅に縮小しながらも、重要な拠点はほぼ再建した。しかしそれは決して異文化内状況を克服したのではなかった。異文化内状況は特殊な形で痛切に認識されたけれども実際の再建は、依然日系人社会の大枠で、その庇護の下になされた。真の意味での異文化内状況との対峙は、そうした再建が一応軌道に乗ってからあらわれ始めた。
それは外からというよりむしろ内から、つまり日系人社会の中での世代交代によって表面化してくることになる。そしてこれはアメリカ司法当局の実力行使がそうであったような、唐突のそして急激な変化としてあらわれるのではなく、ゆっくりと進行するのだが、しかしよりドラスチックな問題であることは疑い得なかった。
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(2) 世代交代による異文化内状況の進行
1970年代になって、日系人社会内での世代交代は次第に深刻な意味をもつものとして、神官や熱心な氏子の間で感じられるようになる。存命する1世が急速に少なくなり、さらに近い将来世帯主の世代が2世から3世へと変ったときの状況がにわかに現実味を帯びて眼前に迫ってきたからである。
ハワイの非日系人社会あるいは非日本文化が直接的に神道教団のあり方に変容を迫ったのではなく、日系人社会が変質していくことによって教団にも影響が及んだという過程を経る。氏子という概念が通用するのはせいぜい2世までであり、3世は一般的に言って、神社の存在すらあまり眼中にない世代で(19)ある。こうした世代交代に対する対応策を練ることが実は異文化内状況での神社神道のあり方を模索することに等しいのであった。
一人一人の神官が神社神道を今後どう展開させようとしているかという点については、いくつかの方向性を見てとることができる。いずれも儀礼の執行が中心となっているのは神社神道という枠内にある限り当然とも言えることであるが、その中に教義的側面をどれほど折り込んでいるかによって、大きく教義配慮型と儀礼専業型に分けられる。前者は更にその教義の志向の違いによっていくつかのサブタイプを想定することができる。どの型に属そうと、実際の氏子・信徒に非日系人は皆無に近いし、日系人3世4世のメンバーもごく少数である。しかしどの程度成功していると言えるかは別として、神官が異文化内状況対策を考えていることは確かである。現実には、例えば神社を今後どうやって維持していこうか、という点への腐心であっても、問題の本質は異文化内状況への対応であることは明らかである。

(a)儀礼専業型
布哇出雲大社教、馬哇神社、それに現在の石鎚神社はこれに属する。このうち布哇出雲大社教の宮王重丸宮司と馬哇神社の有根刀良子宮司の活動内容によって少し説明を加えよう。
布哇出雲大社は戦前から結婚式の司式の場として名を知られていた。宮王勝良宮司は7,900組のハワイ日系人の司式を行なったし、重丸宮司も戦前に1,200組、戦後も400組以上の司式を行なった。最近においても、結婚式、地鎮祭、車のお払いなど、儀礼執行の充実が当面の目標のようである。
1976年はアメリカ建国二百年祭がハワイでも賑やかに行なわれたそうであるが、布哇出雲大社教団では、これをハワイ鎮座70年の式年とからめて、6月にこの二つの意義をこめた祭を大々的に行なった。そして日本の大相撲協会がハワイ場所を開催したのを機に、社前で神前奉納相撲を行なっている。この企画は、第442連隊除隊兵クラブ(442nd Veterans Club)、布哇日系人連合協会、日本相撲協会、ハワイ相撲協会の協賛を得て盛大に行なわれた。5月29日付のハワイタイムスは、これを「前代未聞有史以来の大行事」と形容して前宣伝し、6月9日付の同紙は、当日の相撲の見物人は数千人に上った、と報じている。
同教団がアメリカ建国二百年の祭と布哇鎮座70年の祭を結び付けたのは、たまたまの思いつき的行為ではない。出雲大社はハワイの総氏神であるという意識が背後にあり、少なくとも宮王宮司の意識では、ハワイの氏子、つまりは全住民の発展を祈り、日米の親善が深まるように祈るのは義務なわけである。その土地その土地には産土神が存在するのだから、それを祀る必要があるという日本的な考え方をそのまゝ一方的に適用している。これは第3者的に眺めれば、異文化内状況にありながら、その異文化が含み宗教的世界観との相互影響を回避したことによって成り立ち得るいきかただといえるかもしれない。
だがそのこと自体は神道のみの特徴ではなく、二つの宗教的世界観が向かいあう社会においては起こり得る一つの対応パターンである。宮王宮司の場合は、異文化社会を観念的レベルで自らの世界観の内に包摂してしまうことで、ハワイでの自らの存在意義を確立しているといえる。
馬哇神社の有根宮司も儀礼の遂行に熱心である。それも日本の伝統的なスタイルでやるという。例えば元旦には「一月一日」の歌を唱和し、講話を行ない、万才三唱する。そして正月第2土曜日には「どんどまつり」をやり、竹の先に餅を刺し焼いて食べる。注連縄をはり祭礼をしてやるそうである。また二月の節分には裃姿の年男が豆まきをする。この裃は、戦前からのものが10人分揃っており、ちゃんと手入れがいきとどいている。
三月の雛祭、五月の端午の節句、六月の大祓、七月の御霊祭、九月の秋季大祭といずれも丁寧に祭礼を行なうとのことであるが、なかでも、他のハワイ神官に追随を許さぬ熱心さは、1月から5月までの各家庭での「おつとめ」にあらわれている。馬哇神社では現在約1000体の大麻を伊勢神宮より送ってもらっているが、これを11月末から各家庭に配る。そして翌年1月から5月にかけて、大麻を配った家の約7割を訪れ、家庭での祭式をつとめるのである。この期間は1日に数軒を回ることもあるという。
彼女は神官とさらに巫女の役をも兼ねているようにも見える。それは現在の儀礼補佐役としての巫女ではなく、より本来的「神意を告げる人」としての巫女である。神道祭式は彼女にとって、確かに払浄という現実的効果をもたらすものとして捉えられている。
実際の教団維持は「馬哇神社長寿会」のメンバーによってなされている。月次祭への参加人数もこの神社がもっとも多いが、その秘密の一つは月次祭後のこの会にあるようである。直会は神道祭式にはつきものだが、ここでは花札までも飛び出す。一種の老人クラブの雰囲気がある。しかし、そうした「やりくり」の巧みさと共に彼女の神道儀礼への信仰の強さが活動力の源泉になっているとみなければならない。神社神道のあり方に関しては、もっともファンダメンタルな姿勢を保っている故、異文化内状況に直面しても常に伝統的路線が踏襲される。

(b)教義配慮型
教義の面において、変わりゆく日系人社会への対応を図っている神官も、細かく見るとそれぞれ特徴がある。布哇大神宮とヒロ大神宮はいずれも伊勢神宮系であるが、実際の教義の解き方をみると、むしろヒロ大神宮の宮崎宮司と布哇金刀比羅神社の高井宮司に共通点が多く、布哇大神宮の川崎宮司はやや異色である。それは布哇大神宮が、川崎宮司の父川崎正郷が高知で始めた神(20)明教の分院でもあるということに大いに関係がある。高知県は伝統的に神道人口の多いところで(21)あり、神明教も神道派宗教運(22)動的な要素をいく分含んでいたと考えられる。この三人三様の違いに注意を払いながら以下順に取り上げていくことにする。
宮崎昭和宮司は戦後ハワイに神官として来た。代々北海道室蘭の社家の出である。国学院大学に学生の厚生補導係として勤務時に、ヒロ大神宮から神官の適任者はいないかという問い合わせが神社本庁にあり、同大学のI教授に勧められて渡布を決意する。これが直接的きっかけであるが、宮崎宮司が彼の母から、実は彼の祖父は北海道ではなくハワイへ行きたかったのだという話をきいたことがあり、そうしたことでハワイの土地に親近感を覚えていたということもハワイ行きを決意した遠因となろう。
このような経緯で来布したゆえに、宮崎宮司の布教内容は民族色の濃いものである。言語こそ、英語による説教への移行を考えているものの、異文化内状況に対する基本的立場は、アメリカ人に日本の神道思想を分らせるにはどのように語ったらよいかを探ることである。同宮司の言葉を借りるならば、「民族のカルチュアを互いに知ることが大事である」ということになる。
独自のシンボル解釈もなされる。社(やしろ)は身体を象徴する。三種の神器のうち、鏡は太陽と月をあらわしており、玉は水星、金星、火星、木星、土星、そして劔は天王星、海王星、冥王星、をあらわしている。肉は奇霊(+)で野菜は幸(−)である、等々である。
こうした教説はどのような機会に語られるかというと、大祭時の講演とか、個人的カウンセリングを行なうときなどが主である。神道を現代的に解釈していこうという姿勢は強く見られ、自分なりの記紀神話解釈、祝詞解釈に取り組んでいる。しかしながら、そこに神社神道が異文化の中で布教しているということを意識した具体的な反応は観察できない。
これには再三述べるようにヒロという土地柄が関係することも確かである。ヒロは現在ハワイの中で日系人社会が初期の移民生活の雰囲気の名残りをもっとも多くとどめている地域の一つである。だが、それ以上に宮崎宮司の経歴とパーソナリティ、とくに戦後日本から来布したということが重要である。太平洋戦争中に突然露呈した異文化内状況によりもたらされる特種な局面を経験しなかったわけである。
布哇金刀比羅神社の高井誠司宮司も似たような条件である。ただ高井宮司の場合、最初から神官として来布したわけではなく、しばらくは店員をやっていた。1971年に酒井国助宮司が引退したので、これを引き継いだのである。
高井宮司の活動は多彩であり、ハワイ大学の神道セミナーの講師をかってでたり、日本から講師を招いて神道思想の普及に力を入れている。しかしながら教義の体系化などは意図していない。「神道は空気のようなものである」というのが同宮司の口癖である。空気が3分間なくなれば人は死んでしまう。それほど大事なものなのにいつもは空気の有難さを人はほとんど考えようとしない。神の道もちょうどそれと同じである。自然の道は本当はもっとも大事なのに、人々はそれを分ろうとしない。枝葉末節に走るから対立が生じる、というわけである。
神道は教義がないから宗教ではない、とする意見に対抗すべく、自然の道だからこそ特別な教義をたてる必要がないのだとするのが高井宮司の論法である。従って神道の説くところは一民族の枠内にとどまるものでなく、むしろもっとも調和を目指す宗教ということになる。
神道を統一と調和をめざす時代にふさわしい宗教、あるいは自然の道とする主張はさまざまの機会を通じて高井宮司の口から繰り返されるのであるが、それが布教活動の場で何らかの訴える力を持っているかというと、これはかなり疑問となる。神道を文化的に理解しようとする人々にとっては、この説明は困難なものではない。だが、たとえば3世や4世を氏子あるいは信徒として惹きつけようとする場合、必ずしも効果的なものではないようである。それは同宮司の講話がたいてい日本語でなされるとか、月次祭への参加者は2世中心というレベルでの話ではない。主張内容はやはり日本の伝統を理解していることを前提としたものであり、ハワイで育った3世、4世の精神土壌を踏まえて出てきたものではないからである。
ハワイの地に進出した神社神道のあり方を教義的な面にもっとも反映させているのは布哇大神宮の川崎嘉添宮司である。これは端的に祭神にあらわれている。主神はあまてらすくにてらすすめおゝかみ天祖天照国照皇大神であるが、相殿には、八百万神、合衆国国父ヂョージ・ワシントン、米国中興の祖アブラハム
・リンコン其の他功労者、カメハメハ大王、カラカウア王を始め其の他の功労者が祀られている。
これは「天祖天照国照皇大神様は、やゝもすれば日本人だけの独専神で日本民族だけの御祖神の如く誤解されて居る向きもありますが、皇大神様は、各家々や、皇室や、日本民族だけの神であってはならないのでありまして、古典を謙虚な、素直な心で見ると全宇宙本源神であらせられるのであります」(布哇大神宮教団の栞)という基本的考え方のうえに成りたったものである。と同時に、ワシントン、リンカーンが出てくるところはアメリカ合衆国を意識しており、カメハメハ大王やカラカウア王といった人物名が出てくるのはハワイという土地を意識しているのは明らかである。
従って、これは祭神あるいは合祀についてはかなりの柔軟性をもつ神社神道の特質をうまく用いたに過ぎないという見方も出てくるが、多少そのような面はあるにしても、基本的に、神道を民族宗教の枠から外そうとする志向性があるのは明きらかである。教義の説き方にしてもそうした努力のあとを感じさせるものがある。
拝殿はまたカウンセリングの場所であり、ときどき3世などが1人であるいはカップルで、または親に連れられてやってくる。そうした若者に調和の精神の重要さを教えるときには一セットの道具が用意されている。四角い立方体の納まった四角な箱と、それに球が4つ納まった箱である。これらは、それぞれエゴイストの集団と調和の精神をもった人々の集団を比喩している。立方体は角があるので、狭い箱の中では互いに身動きならない。それに対し、球は互いにぴったりくっついても、それぞれ回転が可能である。世の中が円滑にいくためには、各自がこの球のような心をもっていなければならない、というわけである。
また、固定した物の見方を排させるために次のような問答もよく用いるという。まず、相手に「あなたの身体の部分のうち、一番上にあるのは何だと思うか」と尋ねる。たいてい、「髪の毛です」という答が返ってくる。そこで、「それはどこにあるか手が指してごらん」と言う。相手が指さすと、「今、私の目にはあなたの手が一番上にあるように見えるのだが」と反問する。こうして相手の一瞬のとまどいを機に説教にはいっていくのである。
こうした布教法は、川崎現宮司の父川崎正郷が布哇大神宮を神明教の分院ともして活動を行なったということに深い係わりを持つことは疑い得ない。それと同時に、宮崎宮司や高井宮司と比べて川崎宮司が、戦前からのハワイを経験している人物であるということも重要である。彼は1913年10才のとき来布して、マッキンレー高校を卒業後、日本に戻り国学院大学に入学する。その後、神道への回心を体験する。それは助産婦の人がいった「子供は何も見えないし、知らない」といった言葉を契機にしたもので、やがて人間は皆楽しい心で生まれてくるのだと分り、古事記も理解できるようになったという。そして世界の人類を救うのは神道しかない、と思い至り、再び1935年頃ハワイにやってくる。その後インターニ経験、再々来布と、だいぶ日布間を往き来するのである。
この間に日本の変化とハワイの変化を共に経験しており、とくに、太平洋戦争前後のハワイ神社神道のおかれた状況の急変は身をもって体験しているので、戦後の布教活動には、異文化状況への対応が自然と出てきたとも考えられる。
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5 むすび
ハワイの神社神道が異文化内状況と実質的に対峙する局面には大きく2つの段階があったことを示してきた。それはまたハワイの神社神道史の現代史に重なってきてもいる。太平洋戦争によって生じた諸々の衝撃、それに世代交代に起因する日系人社会の変質によってもたらされた状況というのは、しかし神社神道に限られていたわけではなく、戦前から布教活動を続けていた仏教教団や一部の新宗教には共通したものであった。
また、よりドラスチックな異文化内状況の切迫が第2の段階、つまり日系人社会の変質によって生じたというのも、日系人社会を基盤として布教活動、宗教活動を行なっていた教団にとっては当然のことであった。
しかし、神社神道はその対応にさほどの効果をあげていないのであり、この点を考えるには神社神道そのものの特質が関係しているとみなければならない。異文化内状況への対応とは、具体的には、言語的対応、3世4世への対応、教義的対応の少なくとも3つがある。言語的対応とは、日系人の使用言語が確実に日本語から英語へと移っていくことに対する布教者側の対処法である。3世4世への対応とは、1世のほとんど、そして2世の少なからぬ部分がまだ日本宗教を維持していこうとする意志が自然に備わっていたのに対し、3世4世ははっきりとキリスト教世代であることへの配慮である。なりゆきに任せれば彼らがますます日本宗教から遠ざかっていくのは必然的なことのように思われる。そのような傾向にどう対処するかということである。教義的対応とは以上の2つのことから帰結する問題でもあるが、日本人とは異なった意識や常識の世界にある人々に異なった言語で布教しようとするなら、日本文化の土壌に育ち、日本語で語られている教義をそのまま用いるわけにはいかなくなってきているということである。教義の説明には異文化内状況ということの意味をいささかでも分っている人の存在が必要となってくる。
以上のことがらへの対応の度合は、仏教々団間でもさまざまであり、もっとも適応していると言われる本派本願寺教団から、余り変容していないとみなされている真言宗まで、かなりの差がある。従っていちがいに、神道教団が仏教教団に比して対応度が遅れていると言い切ることはできない。しかし、一般的に見てだいぶ対応に苦慮していることは確かである。これは教団組織としてみたときの神社神道の弱点があらわれているのも言える。とりわけ聖職者の教団における機能の問題が大きい。
上記の問題に対応していくには、例えば本派本願寺がそうであるように、ある程度相互の意志疎通が行なわれている聖職者集団があり、これが時代を経ても重要な情報は伝達していくという形態が確立されている方が有利である。この点で、神社神道は著しく利を欠く。聖職者たる神官は、現在各教団に1人ずつである。 世話人、 顧問などの役員は、祭祀をとり行なったり、教団を経済的に維持するに当っては大きな力となるが、教義的レベルでは、神官と同列に論ずることはできない。従って神官は教義的なことがらにはほとんど独力で対処するしかない。
他方、情報が聖職者から聖職者へと伝達していく点でも、うまい機構が存していない。川崎正郷・嘉添宮司や宮王勝良・重丸宮司のように親子2代にわたって活動を行なっている場合には、かなりの重要な情報が適切に伝達されていく可能性は強い。これに対し、ヒロ大神宮の宮崎宮司や布哇金刀比羅神社の高井宮司などの場合は、それまでのその神社の被った経験が適切に伝達されていないようである。太平洋戦争のもたらしたものが何であったか、世代交代の波及がどんな形であらわれてきているのか、系統立てて論じられる可能性は極めて少ない。
以上のことのほかに、とくに教義的対応の遅れについては、神社神道のもつもう1つの特性、即ち祭祀中心の宗教であるということも大きく絡まっている。仏教々団もやはり日本的な仏教として育っていたものがハワイに布教を始めたわけであるから、日本と同じようないき方を踏襲するわけにはいかなかった。それでもよるべとできる教義は豊富であったし、祖先信仰に対するそれなりの説明も備えていた。これに対し神社神道は日本内におけるものが、ほとんど体系化された教義を有していなかった。異文化内状況が強まるなかで、教義の体系化が進んでいない宗教がどこまで耐えうるのかは、今後の展開を見なければ何とも言えぬが、極めて厳しい状況であることは容易に推察される。
同じように体系的教義を備えない信仰形態でも、呪術性の強いもの、たとえば病気治しを中心的儀礼とするものなどはむしろ文化の差を越えて広がり得るようである。病気の悩みは普遍的と言えるし、それが治せるという呪術的方法に誰も耳を傾けないような社会は普通考えられないからである。
しかし、神社神道の場合、たとえ神官の意識としては、神道の説く教えは普遍の真理のつもりであっても、現実にそう受けとられるとは限らない。自然な姿、ありのままがもっとも理想的である、と主張しても、これがどの文化でも受け入れられるとは予測し難い。それは、やはり1つの文化の中で生まれた1つの信仰なのである。
以上見てきた如く、ハワイの神社神道は異文化内状況の強まりに有効な対処法を見出せずにいるのが現状である。これは1つの文化内で育ってきた信仰形態が異なる文化内で変容しつつ展開していくことの困難さを物語っているとも言える。しかし、より根本的なことは、神社神道の構造的問題であろう。それは戦後ハワイに布教を開始した新宗教教団のいくつかが、異文化の中において、比較的少数ながらも非日系人へも勢線を拡大しつつあることを見ても言えることである。
日本において長い間、中国をはじめ外国文化の影響をさまざまに受けながら、独自の信仰形態をめざして形成されてきた神社神道が初めて異文化社会で自らを主張する状況に陥ったときの、とまどいの縮図がハワイの神社神道史に観察される。
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(1) この調査は1977年夏と1979年夏に行なわれたが、1977年には主としてホノルル市内の神社を集中的に調査し、1979年にはマウイ島、及びハワイ島でも調査を行なった。
(2) 真栄館発行、1915年。
(3) ハワイ日本人移民史刊行委員会、1964年。
(4) 福永楓舟・三輪治家著、加哇新報社、1916年。-
(5) 布哇日々新聞社編、同発行、1908年。-
(6) 木原隆吉編著、文成社、1935年。
(7) ビショップ博物館員ゲイロード窪田記、篠遠和子訳「"要注意リスト"から国家指定史跡登録まで:マウイ神社と有根宮司の今昔譚」
(8) 中牧弘允「ハワイにおける日系霊能者と民間信仰---オアフ島の女性霊能者の事例 ---」(国立民族学博物館研究報告5−2、1980年)を参照のこと。
(9) 黒住神社は1936年に神官が老令をもってラワイ大神宮に合流祀された。1936年11月25日付の日布時事には次のような記事がみえる。「ラワイ大神宮と黒住神社の合祀祭は去る二十二日いとも厳粛裡におこなはれた、遷宮式は大神宮より行列を組んで黒住神社にいたり、奉祝祭には氏子総代として同地浜野秋松氏の挨拶があり、田原神官より参拝者一同へ謝辞が述べられた、右儀式にはリフェ大神宮の藤野神官とカパア厳島神社の上田神官が参列、午後は余興にカワイ大寄相撲の取組みがあり、夕刻にいたるまで盛会を極めたと」
(10) 『布哇日本人発展史』には、1914年の布哇新報社の調査をもとに、当時の日系人の職業別人口が掲載されている。それによると、神官を職とするものは、ホノルルに5戸、オアフ島に3戸(男3人、女5人)、ハワイ島に4戸(男5人、女5人)、マウイ島に3戸(男3人、女3人)、カワイ島に3戸(男3人、女4人)あったことになっている。どのような類の神宮かは不明だが、すでにかなりの人数に上っていることが分る。
(11) 『ハワイ島日本人移民史』(ヒロタイムス、1971)の中の1941年ハワイ島日系人名録によると、ハワイ島だけで、7名の神職がいたことが分る。金森新六(広島)稲荷社司、合志実行(熊本)大神宮社司、工藤勇(熊本)神官、三上永人(島根)出雲大社神官、原友吉(福岡)神職、伊賀松次郎、(山口)稲荷神社主、北住勝造(熊本)神官。(( )中は出身地)
(12) 河田登発行、1974年。なお、この書は4冊に分かれており、上巻(1974年)、中巻(1974年)、下巻(1977年)、下巻続編(1977年)の発行である。
(13) このような人々についての記載、またどのような噂が流れたかについての紹介はいくつかあるが Yukiko Kimuraは'Rumor Among the Japanese' Social Process in Hawaii 11 1947. の中で、日本が勝った証拠とされる噂のいくつかを紹介している。それらは次のようなもので、他も似たりよったりのものであったようである。(以下拙訳による)
 「日本の艦隊が真珠湾にいてハワイに乗りこんでくる」
 「日本の艦隊がダイアモンドヘッドから見えた」
 「隣の人が私に新しい日本の総領事は吉田氏であると話してくれた。その人たちは、吉田氏がオートバイに乗ったMPによって警護されながら領事館にはいるのを見た。領事館は氏が到着した夜、あかあかと灯がともされた」
 「数名の日本人将校がMPに守られてレストランにいるのを見たというのを聞いた」
 「ある人が、1人の日本陸軍将校がビショップ・バンクで1円札を出して116ドル受け取るのを見た人がいる、と話してくれた」
 「数名の日本人将校がショフィールドと真珠湾にいると聞いた。彼らはそこに6ヶ月間とどまる義務があり、その後日本に帰るようだ。日本からの新たな将校が、その代りとしてここに派遣されるだろう」
 「何人かの人々は、日本領事館はもはや必要ではない、なぜならハワイは今や日本の一部だからだ、と言っている」
 「近所の人たちは、新しい日本総領事とその一行がキングストリートを行進しているのを見たという噂を流している。彼らはMPに警護されていて、その夜領事館では盛大な歓迎パーティがあったという」
 「トルーマン大統領が、アメリカの無差別爆撃によって生じた損害について天皇に謝罪するため日本に向かうのを見た人がいる」
 「高松宮殿下がハワイ訪問をするという噂が広まって、誰もがそれを信じた。近所のほとんどの家 は、殿下の歓迎パーティのために最低10ドルを献金した。同志会会員がそのキャンペーンの主催者だった」
 「最近聞いた噂では山下元帥はフィリピンに存命であった。日本に行こうとするアメリカ軍は、まず彼の許可を得なければならない。だから米軍はフィリピン経由で行かなければならなかったのだ。同志会会員は、<山下>のサインがあり大きなスタンプが押された紙を確かに配布しており、それが自分たちの言っていることの証拠だと話している」
 「噂が広められる方法は、ふつう一枚の紙にペンか鉛筆で書かれたものが、隣人や友人間に手渡されるというものである。誰がそれを書いたかはしゃべらず、『このように書いてある。だからそれが事実であることに間違いはない。東京から直接報告されたものである』と述べる。『帝国大本営』とか『東京放送』といった語句は、ここでは日本人にはたいそう大きな力を持っている。こうした語句がつかわれていると、彼らはそのニュースが絶対的に真実であると考える」
 「私の所属している寺のメンバーの一人が、生長の家のM夫人はこれからの出来事を予見する霊眼を備えているそうだと、私に語った。彼の言うところによれば、彼女は信奉者たちに、約300機の日本軍機が1945年の7月27日にハワイを攻撃することになっている、だから爆撃から皆さんを守るためのお守りをあげます、と語ったそうである。当日になっても何事も起らなかった。そこである人が彼女にそのわけを尋ねると、それは天候が悪かったせいであると彼女は答えた。信奉者たちは彼女が指定した日を待ったが何事も起らなかった。そこで再び彼女に尋ねると、飛行機の代わりに日本の艦隊が来るであろうと告げられた。
 しかし日本艦隊はやって来なかった。そこで今度は彼女は、3月27日まで待つようにと言った。また、トルーマン大統領が日本の天皇に東京へ来るよう言われているとも述べた。天皇はマッカーサと交渉したくなかったのだ。だから彼女は東京へ行く途中のトルーマン一行をダウンタウンで見かけたわけである」(84〜85頁)
(14) 今回の調査の一環として行なったクエスチョネアの結果によっても、1世と2世では日本及び日本文化に対する意識、態度にかなりの差異がみてとれた。これについては本報告書中の拙論「ハワイ日系人社会における世代交代と宗教的関心」と参照のこと。
(15) 司法当局から出された覚え書は英文で次のような内容であった。興味ある資料なので9項目すべてを記載しておくことにする。
MEMORANDUM
1-That, Shinto is divided into State Shinto and Religious Shinto : hence, State Shinto Temples and Religious Shinto Temples. The former is intended for national (state) structure while the latter is intended for religion only.
2-That, State Shinto Temples existed in Japan up to the time of the occupation thereof by allied forces, but was abolished in 1945, leaving only Religious Shinto Temples.
3-That, Shinto Temples are mentioned in the subversive list dated April1, 1954 which was compiled from the memoranda of the Attorney General dated April 29, July 15, September 28, 1953 and January 22, 1954.
4-That, with a view to clarifying and determing the nature of the Shinto Temples mentioned in the aforesaid subversive list, the local Shinto Temples Federation had made inquiries at the United States Department of Justice through Masao Shintani.
5-That, in response to the inquiries so made, the United States Department of Justice
had, under the signature of Joseph Alderman, chief of the Subversive Organizations Section,
informed the local Shinto Temples Federation that the Shinto Temples mentioned in the
aforesaid subversive list are limited to State Shinto abolished in 1945.
6-That, the United States Department of Justice is now preparing a new consolidated
list in which the designation of Shinto Temples is characterized as "limited to State Shin-
to abolished in 1954, and that, acting upon the advice of the local Shinto Temples Fed-
eration, it had issued under the date of September 21, 1955 memorandum to all Federal
departments and agencies informing them of the clarifying language with regard to the
designation.
7-That, the leading Shinto Temples in Honolulu-Daijingu Temple of Hawaii, Izumo
Taishakyo Mission of Hawaii, Hawaii Kotohira jinsha and Hawaii Kato Jinsha Kyodan-
are all incorporated under the Territorial law and registered with the Territorial Trea-
surer's Office as Religious Shinto Temples.
8-That, since the above mentioned Shinto Temples are incorporated under the Territorial
law and registered with the Territorial Treasurer's Office as aforesaid, they neither fall
under the head of Shinto Temples mentioned in the subversive list dated April 1, 1954,
nor under the head of Shinto Temples mentioned in the memorandum issued to all Federal
departments and agencies under the date of September 21, 1955, nor under the head of
Shinto Temples which are to be mentioned in the new consolidated list now being prepared
by the United States Department of Justice.
9-That, being the case, it may be concluded once and for all that the 4 leading Shinto
Temples aforementioned are neither in the subversive list dated April 1, 1954, nor in the
memorandum issued under the date of September 21, 1955 to all Federal departments and
agencies, nor in the new consolidated list now being prepared by the United States Dep-
artment of Justice.
(16) 以下、日記や面談調査等で知り得た個人名については、神官等を除いてイニシャルのみ記すことにする。
(17) 1957年11月の記録をみると、大麻を、裏オアフ、アイエア、パールシチー、ワイパフ、エワなどオアフ島の各地に配っているほか、カワイ島、マウイ島、ハワイ島、ラナイ島へも送っている。
(18) 小堆初彦は1935年9月30日に着任した。同年10月13日には馬哇神社教団による同宮司歓迎会が会費25仙(セント)で開かれている。なお、1936年1月1日の新年の挨拶状中の同宮司の肩書は、「神宮神部署米墨領布員兼神道馬哇分局長、神道宣教使権大教正」とある。
(19) 拙論、前掲論文参照のこと。
(20) 神明教については1961年に文部省から発行された『宗教年鑑(昭和35年度版)』に次のような記載があ。「川崎正郷の始めたところ。昭和18年神明教院と称する宗教結社を設けたが、次いで太平洋戦争で閉鎖されたハワイ島ホノルル市の大神宮教団の霊代を抑えて合祭し、終戦後、21・3・11宗教法人神明教団を設立登記。」
(21) 杉山明子「現代人の宗教意識」(ジュリスト増刊総合特集21『現代人と宗教』、有斐閣、1980、所収)によれば、県別にみた神道信仰のパーセンテージでは、高知は和歌山県の5.1%に次いで4.4%と2番目に高い。ちなみに全国平均は1.9%である。これは1978年にNHK放送世論調査所が実施した「全国県民意識」調査の結果であり、回答者の合計は32,421人である。
(22) 神道派宗教運動については、拙論「神道派宗教運動の思想的系譜」(脇本平也編『近代日本の宗教思想運動』東京大学宗教学研究室、1980、所収)を参照のこと。
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