グローバル化から見た近代日本宗教
1.はじめに
グローバル化(globalization )という言葉は、最近いろいろな分野において用いられるようになってきている。しかし、その用法はそれぞれの分野によって、多少ニュアンスの違いがあるように思われる。グローバル化という概念が、市民権を得つつある分野の代表は経済学である。経済学においては、当然のことながら、経済現象における変化に焦点が当てられており、かつ最近に生じた傾向と捉えられている。主には、金融市場において、均質化、地球規模化が進む過程を指す概念として用いられているようである。すなわち、24時間取り引きに典型的に示されるように、カネの動きが無国籍化していくプロセスをさしている。現在では、証券・金融・為替の取り引きが、東京、ロンドン、ニューヨークの3大金融センターを中心に24時間継続して行われているが、このように、金融市場が、世界的規模できわめて有機的な関係をもち、したがって同質化のプロセスを歩むことがグローバル化と規定されている。
しかし、一般にはグローバル化の意味はもっと曖昧に用いられるようである。国際関係が緊密になることを漠然と指しているかのような使い方もあり、また国際化とほとんど同意語に用いられている場合もある。ただあとで述べるように、国際化とははっきり区別される概念として用いるべきであり、またそうでなければ、このような新しい概念を提起する意味もないだろう。
文化現象を対象とする研究領域にあっては、まだグローバル化という概念は、本格的に検討がなされていないが、宗教研究においては、近代の宗教史をマクロな視点から論じようとするときに、きわめて有効な分析視点を提供するものであると考える。とくに近代日本におけるグローバル化は幕末維新期にその端緒を見出すことができ、またそれ以後の異文化宗教への対応のなされ方、近代の宗教運動の教義のシンクレチックな形成法式、そして日本宗教の海外布教といった現象などは、この概念の導入によって新たな角度からの評価を与えることが可能であると思われる。そうした前提に立って、以下では、まず宗教現象にグローバル化の概念を導入する場合の準備作業に当たることについて概括的に触れ、次いで、日本におけるグローバル化現象の適用を、なぜ幕末維新期以後に設定するのかについて私見を述べることにしたい。
2.グローバル化の諸過程
グローバル化の本質については、ひとまず、さまざまな現象が国家、民族という枠を越えて、「地球化」していく過程であるという程度の概括的定義は可能であるにしても、現実にそれがどのような形態をとって進行しているかについては、一義的には定められないであろう。現段階では、例えば、政治、軍事、経済、教育、スポーツ、科学技術、芸術、宗教といったさまざまな領域ごとに、異なった観点からグローバル化を論じえるという可能性も留保しておいた方がよいであろう。また、同じ領域のものを対象とした場合でも、事態をどのような角度から捉えるかによって、グローバル化の形態もいろいろなものが抽出されるとうことが起こり得るであろう。
そうした流動性をもつ概念であるが、現時点で観察される主なグローバル化の過程としては、多国籍型、無国籍型、ネットワーク型などの形態が代表的なものとして挙げられる。多国籍型は最近の企業のボーダレス的活動形態に例をとるのがもっとも適切であろう。多国籍企業という表現に端的に示されるように、1つの企業活動が国家を横断してしまうといったことは、今日ではあらためて言うほどのこともない、きわめて日常的なことがらになってしまっている。1つの企業の資本、人材、設備等々が複数の国家にまたがって供給されていることにもはや誰も驚かなくなっている。このように、ある組織体の国籍が多元化していくという過程は、グローバル化の一形態として捉えることができる。
無国籍型の現象は、ある技術や道具が世界中に受け入れられ、広汎に用いられる過程にしばしば観察されるものである。技術や道具の使用の場合、たとえそれが外国で発明ないし発案されたものであっても、どこの国の人が考案したものか、本来どのような環境の中で必要とされたものであるか、などといったことには、ほとんど注意が払われないことが多い。例えば、コンピュータの使用がたどっている過程を考えれば、このことはすぐ了解できよう。もちろん個々のマシンには、IBM製とかNEC製とかの区別があるから、販売に当たっては、戦略上コンピュータの「国籍」が問題とされたりするが、それもむしろ企業間のシェア争いと見るべきことの方が多い。しかし、コンピュータの存在を可能にしている発想そのものや、16ビットとか32ビットという個々の技術の国籍が問われることは滅多にない。もはやその発想と技術は、人類共有の財産として扱われている。スポー
ツなども、似たような流れの中にある。ゴルフやテニスをその由来にこだわりをもちながらプレーしている人がどれほどいるであろうか。[1]
またネットワ−ク型は、国家や民族を越えた運動の連帯において観察できる。人権擁護運動、女性の地位向上を目指す運動、反核運動、環境保全運動などは、この形態と捉えていいだろう。ある問題が、民族や国家を越えて同時進行していると考えられたり、ことの本質が地球全体にかかわると判断された場合、最近はしばしば国際的ネットワーク化が進むようになってきた。とくに、国ごと、民族ごとの問題の特殊性を強調するのでなく、国家や民族を越えたテーマの共通性に、力点が置かれている場合、運動の国際化と捉えるよりは、グローバル化と捉えた方が運動の本質を理解しやすい場合があると思われる。
この3つの形態のどれをとるかは、グローバル化として捉えられる事象の性質に関わりをもつと考えられる。1つの試みとして、ある事象とそれが関わる組織形態という観点から整理してみれば、以下のようになるであろう。まず多国籍型の形態をとるのは、その事象が、ある明確な組織形態をとるものを母体にしている(企業、教団など)場合が多いと考えられる。無国籍型の形態ば、その事象がそれを維持するための特定の組織がなくても伝えられ用いられる場合(技術、思想、道具など)に多いと考えられる。またネットワ−ク型の形態は、その事象が、ゆるやかな組織に支持される場合(運動、ボランティア的組織など)と考えられる。
また、グローバル化の流れにあるとされる事象をどの程度の広がりにおいて捉えるかによっても、グローバル化の程度を論じる内容も異なってくる。例えば、宗教であれば、これを教団宗教の次元で捉える場合、祭、治病儀礼など、あるひとまとまりの行動様式で捉える場合、神概念、死後の観念など、思想的産物の次元で捉える場合、などでは、議論の仕方がだいぶ異なってくる。それはその事象についての情報の流れる経路が異なるからである。
しかしながら、ここに示した分類はあくまで試論的なものであり、グローバル化の形態はこの3つに限られるわけではないのはもちろんのこと、別の視点からの分類も可能であると考えている。ただ、グローバル化という大きな流れには、いくつかの過程があり、どのような過程をとるかは、政治、経済、文化、芸術、科学といったそれぞれの領域の特性と大きく関わっているであろうということは指摘しておきたい。
もっとも、1つの領域においては常に同じような形態でグローバル化が進行するとは限らない。例えば、最近の日本宗教の海外進出をグローバル化の観点から眺めた場合、その形態は基本的には多国籍型であるが、無国籍型、ネットワーク型の要素を含むものを見出すこともできる。多国籍型の典型としては、日本宗教の中で現在もっとも活発な海外布教を行っている創価学会が挙げられよう。創価学会は1975年にSGI(創価学会インタナショナル)という国際的組織を発足させたが、現在この傘下にある組織同士、例えば日本の創価学会とアメリカのNSA(アメリカ日蓮正宗)とは、姉妹教団であるといった関係づけがなされている。しかし現在世界各地に存在するSGI傘下の組織が、1960年以降盛んとなった、創価学会による組織的な海外布教の結果結成されたものであることは
明白な事実である。同時にそれぞれの組織は、地域の文化的背景に合わせて、ある程度の独立性を有してもいる。これは企業の多国籍化現象と似た面が多く観察できるのであり、多国籍宗教という表現が生まれたのも当然であろう。[2]
無国籍型の要素を含んでいるのは、禅の広がりの形態であろう。禅はすでに前世紀より一部の欧米知識人などに受け入れられていたが、戦後は新たな布教の展開がみられる。アメリカ西海岸やヨーロッパ各地に立てられたゼン・センタ−や禅道場は、むろん布教の母体があるが、同時に、チベット仏教などと併存しながら、東洋的瞑想の手段を西洋世界にも広めつつあると理解できる。宗派性が薄まっている点、個人的帰依の形態を多く生んでいる点で、多国籍型と同時に無国籍型の要素も見られるのである。
ネットワーク型の要素を含むのは、ごく最近盛んとなった白光真宏会の世界平和の祈りの運動(ワールド・ピ−ス・セレモニー)、及びピースポール設立の運動であろう。ピースセレモニーは、1980年代半ばから世界的規模のものにり、世界各国の国旗が掲げられ、「世界人類が平和でありますように(May Peace Prevail on Earth)」のメッセージが唱和されるものである。[3] また、ピースポールの建立は、同じメッセージを書いたポールを世界各地に建てようというものである。いずれも独特なスタイルの運動であるが、必ずしも組織の拡大と呼応してなされるものではなく、国内外の信者にボランティア的人々が加わるという形で続けられている。宗教運動であるとは位置付けず、また白光真宏会が母体になって推進する運動であるということもあまり表面に出さないようにしつつ、平和に関心をもつ人を広汎に行事に取り込んでいこうとするものであるから、ネットワーク型の要素をいくぶん含んだものと理解していいだろう。
ところで、こうしたグローバル化はいつ頃から始まった現象と捉えるのが適切かという問題がある。これについては、さし当たっては、領域ごとに異なった始点が置かれることになるであろうということと、同じ領域の事象であっても、視点の据え方によってだいぶ異なる見解が提出される可能性があるということを指摘しておきたい。視点の置き方によっては、戦後それもごく最近の現象とみることもできるし、国際化が本格的に進行する過程で次第に顕在化してきた現象と捉えることもできる。視点の据え方次第であるとなると、理論的には古代にまでさか上ってもいいではないかという意見も出てくるかもしれないが、そこまで拡大させると、グローバル化という概念を提起する本来の意義を失うことになってしまう。なぜなら、この概念は、近代国家が確立されたのちの現象に適用させることで意味をもつものであるからである。もちろん、それ以前にも表面上グローバル化として理解できる現象が局地的にあったかもしれないが、そうしたものは除外して考えるべきである。また後に述べるようにグローバル化は情報化と密接に関係しているから、情報化の進行という現象が観察されて以降の事象に適用するのが妥当であろう。
また、つけ加えるまでのこともないかもしれないが、グローバル化という概念は、進化論的な発想に基づいて論じられるものでもないし、また、あるべき姿として要請されるものとして提起されているものでもないということである。価値判断を交えた言い方をするなら、それはいい面も悪い面ももっている。[4] グローバル化は、最近もしくは、ここ1世紀余りの世界において生じつつある変化の中に、ある1つの方向性が見いだすことによって成り立つ概念である。グローバル化という視点を設定したことで、何が明らかにされるかは、今後の研究次第である。
3.宗教にとってのグローバル化
近代の宗教現象におけるグローバル化は、どのような観点から論じられるだろうか。また、それはどのような条件によって促進されていると理解できるであろうか。このことは本来世界宗教全体にわたって問題を設定しなければならないが、それを論じることは筆者の能力を越えることであるので、その予備的段階に到達するために、近代以降の日本における宗教現象を焦点に当てながら、1つの分析枠組を提起するということにしたい。
ところで宗教現象を対象にしたグローバル化を考える場合、きわめて示唆に富む先行研究がある。それは、ロバートソン(Roland Robertson)によって示された考えである。[5] 彼がグローバル化という場合には、世界全体が単一の場に変わっていく過程を想定している。ただし、グローバル化と国際化とは、はっきり区別されなければならないことを強調している。[6] 国際化はあくまで、各単位システムの国家が存在し、その関係として規定されるのに対し、グローバル化はそうした国家間での関係として捉えられない問題を扱おうとしているからである。そしてグローバルな人間の条件として、諸社会のシステム、諸社会、諸個人、人類の四つを挙げている。また、宗教運動は、個人化、社会化、国際化、人類化という四つの主要なグローバル化の過程に応答する必要があるとしている。またグローバル文化というものをも想定している。
ロバ−トソンの考えは、きわめて有益な示唆を与えてくれるものであるが、部分的にそれに依拠しつつも、筆者なりの概念規定を明確にして、以下の議論を行うことにしたい。グローバル化を実際にそこで進行する現象に分解して規定すると、2点が挙げられる。まず第1は、ある事象を考える母集団がしだいに地球規模化していく過程として捉えられ、第2は、そうした過程でその事象に関して一種の自由市場的原理が働き始めるということである。
最初の点を、宗教の例に即して説明しよう。そうすると、1つの国なり民族なりにおける宗教(この場合には、教義、活動形態、組織形態等もろもろの次元のことを含めている)の変化に影響を与える範囲が、しだいに地球規模へと広がる過程というふうに表現できる。例えば、韓国やアメリカでのキリスト教会の活動のあり方が、日本の教会でも議論されたり、タイや中国の僧侶の生活が、日本のそれと比べられたりするようになっていくということである。こうしたことは以前からなされていたではないかという反論もあろうが、こうした発想をもつ可能性があったのは、外国の状況についての情報を握っていた布教者や研究者などごく一部の人間に過ぎない。そのような発想をする人が、一般信者やあるいは広く社会一般の人の間にも、数多く出現し得るような条件が整いつつあるということが肝要なのである。
また一種の自由市場的原理が働き始めるというのは、宗教間の競争、競合、交差等が、宗教自身の動きとして(植民地化に伴うという形や、政治的・軍事的支援などが存する形ではないという意味で)あらわれるということであるが、大きくは2つの現象にまとめることができる。1つは宗教間の布教の自由競争であり、1つは宗教におけるシンクレチズム的現象の増加である。布教の自由競争という側面は、宗教を教団次元でとらえたときに捉えられることがらであり、シンクレチズム的現象という側面は、宗教を教義や儀礼などの構成要因にまで分解してみたときに捉えられることである。
まず、宗教間の布教の自由競争であるが、これはいわゆる世界宗教の広まりの過程とは一線を画すべきであろう。世界宗教の広まりは、教団宗教の存在しない地域への教団宗教の組織的布教であったり[7] 、政治権力との結び付きによって布教が進行したりした場合が多い。また第三世界への布教の場合は、あまり適切な表現ではないが、文化の高低差(例えば教育制度の有無、医療制度の有無など)を利用したような場合が少なくない。これに対し、布教の自由競争という場合は、宗教以外の要素に依存する度合いは低く、いわば宗教としての「商品価値」(宗教としての魅力と言ってもいい)によって、信者を獲得していくという性格が前面に出ている。宗教社会学ではセクト的宗教運動と区分されることの多い、エホバの証人(ものみの塔)、末日聖徒イエス・キリスト教会(通称モルモン教)、セブンスデー・アドベンチスト教会、天理教、創価学会、ハレクリシュナなどの組織が国際化していったのは、まさに教団の布教活動の結果である。その教団がそもそも属したいた社会が、その教団の布教活動を支援したことによる成果ではない。これが宗教間の布教の自由競争と言いうる形態である。
一方、シンクレチズム的現象とは、教義、儀礼、組織形態、活動形態など、宗教の諸要素において、異質な(主に文化的背景が異なるという意味において)宗教間の影響関係が急速に進行するようになることを言う。したがって、これは通常言われているシンクレチズムとは、若干意味のずれる点もあるので、以後はとくに「ネオ・シンクレチズム」と名付けて区別したい。すなわち、ネオ・シンクレチズムとは、宗教間に一種の競合状態が存在することを前提とした上での、他宗教の要素の主体的な採用の結果としてのシンクレチズムというものである。こうしたネオ・シンクレチズムは、近代日本の新宗教運動にはしばしば観察される現象である。
ネオ・シンクレチズムは教義のしっかりした宗教伝統や、ドグマ化の顕著な宗派では生じにくいと考えられる。また他の宗教に関する十分な情報がないところでも生じにくいであろう。つまり、ネオ・シンクレチズムが進行するには、異質な宗教的伝統についての情報が、一部の特殊な情報ルートをもった人のみならず、その社会全体に広く伝わり得る条件が備わっていなければならないし、さらに、他の宗教の中で好ましいと思われる要素を抜きだし、それらを採り入れることによって、新たな宗教理念、儀礼、思想、教義等が形成されていくことを認めるような宗教的寛容の土壌も必要である。
さて、以上のような規定の仕方をすると、日本の宗教現象において、グローバル化は、近代化の進行とあい伴う形で次第に進行し、一時的に後退するかのような時期はあったにしても、基本的に進行が続き、とくに戦後、今日に至るまでの時期は、その加速の度合いが急速に強まっていると捉えられる。日本宗教の本格的な海外布教は戦後開始されたことなどから、グローバル化は、戦後それもごく最近本格的に進行したという見方もできるが、近代化の開始時期からを視野に収めるのには、それなりの理由がある。それについて次に述べたい。
4.近代化過程におけるできごと
グローバル化が進行する上で、決定的な要因となるのは、広い意味での情報化の進行である。これはどの領域においても当てはまることである。情報化は何よりもまず情報メディアの発達がその指標となるが、メディアのレベルアップというハ−ド的問題よりも、それをどう用いるかというソフト的な問題の方が、実際的には重要な指標になることが多い。テレビというマスメディア1つをとっても、利用次第で、グローバル化に与える影響は相当に異なる。放送内容を政府がチェックすれば、国民の得る情報内容をコントロールすることができるし、他方、多くの番組が商業ベ−スで作成されれば、価値の多元化を促進することもある。ただし、長期的に見れば、どのような用い方をされるにしろ、情報メディアの発達は、グローバル化を促進する方向に働くのは疑い得ない。
情報化の他にも、グローバル化を促進すると思われる要因がいくつかあるが、とくに重要なものとして次の2つを挙げたい。
@国際的規模での人と人の接触の場の拡大。(これには、移民、留学、海外出張、海外布教、人材派遣など、さまざまな形態がある)
A人々の知的基盤のレベルアップ。(とくに義務教育の普及、大衆文化の発展などが重要である)
この2つは、情報化を促す要因たり得るとともに、情報化により促進されるものでもある。より正確には、情報化、及びこの2つの現象は、相互に強い相関性をもっているということである。国際的規模での人と人の接触の拡大は、普通国際化と呼ばれている現象とかなりの部分が重なる。国際化とグローバル化は区別されるべきであると述べたが[8] 、グローバル化は国際化と平行して、あるいはそれを前提として進行すると考えられるから、国際化の進行がグローバル化のと重なるのは当然である。宗教現象であれば、人と人との接触の拡大の効果の最大のものは、異質な宗教文化、宗教生活を体験的に理解する人々が量的に増加していくということである。つまり、職業的宗教家、宗教研究者なら、ある程度体験できたことが、一般の人々が広く体験できるような条件が整ってきたということである。この場合もそうであるように、グローバル化においてはむしろ量的な変化が重要な意味をもつ。
次に、人々の知的基盤のレベルアップであるが、グローバル化の展開においては、文化の担い手の知的基盤が全体としてレベルアップすることがとくに重要になる。知的基盤とは何を指すかは、難しい問題も孕むが、この場合は、情報を咀嚼する能力の拡大という側面に強調が置かれる。通常、ある文化の歴史が記述される場合には、時代時代の最高水準が問題にされることが多いが、グローバル化にとっては、むしろ大多数を占める人々の水準がどの程度かということの方がはるかに重要である。情報メディアのソフト面の開発がどのように展開するかは、この水準に大きく依存すると考えられるからである。義務教育が普及し、大衆文化がかなりのレベルに達していたことは、日本においてグローバル化が早くから進行したことに大きな影響を与えたと言える。
さて、情報化を中心としたこの3つの条件は、グローバル化の進行を支える基本的条件であると考えるが、近代化以降の日本宗教が、どのような形態のグローバル化をとってきたかというより特殊な事例を考えるに当たっては、こうした基本的条件に加えて、いくつかの歴史的できごとが大きな関わりをもったと想定できる。その主なものを時代順に列挙してみると、次のようになる。
@開国の結果としての西洋文明の流入
A明治政府の宗教行政の及ぼした影響
B移民を媒介とする文化接触
C戦後の政教分離、信教自由の原則のもとでの宗教活動の自由さ
D戦後の経済発展、とくに高度成長期以後、その余波としてさまざまな分野での海外進出が広まったこと
最初の点から簡単な説明を加えていきたい。幕末の開国は西洋文明の急速な流入を招来したが、宗教界にとってはキリスト教の進出が大いなる脅威であった。それまで長期的な安定構造の中で自らの存在基盤を得ていた神道家、仏教者の危機感は相当に高まった。そうした過程でキリスト教は一体いかなる教義を備えたものであり、いかなる組織形態をもつものであり、いかなる活動を展開するのかといった点についての関心がたかまり、そうしたことについての知識も増えていった。キリスト教の実際の信者獲得数はそれほど多くはなかったが、こうして既存の日本宗教に与えた衝撃はかなりのものであった。とくに教義的面でのグローバル化は、キリスト教との出会いが1つの刺戟剤になっている。
2番目の点は最初の点と深い関わりをもつ。明治政府の初期の宗教政策の大きな目的の1つが、国民教化を早急に実現して、キリスト教の進出を阻止することにあったことは広く知られている通りである。これを遂行するために、明治初期に宣教使、大教院、また教導職といった制度が次々に打ち出された。そのピ−クは教部省の設置にあったと言える。これらはしかしあまり成果を得られなかったと理解されている。明治4年の岩倉具視らの渡欧を契機に、明治6年段階では政府中枢部では、キリスト教への対処策に変化が生じたとされている。初期明治政府が国学者・神道家などとの連携の上に打ち出した宗教政策は、日本全体の動向に逆行するような面があったことは確かである。しかし、宣教使、大教院、そして教導職と制度を目まぐるしく変え、ついに教団宗教への直接的関与を放棄していく過程は、ある意味では、時代の流れへの敏速な対応であったとも理解されるのである。[9] こうした制度的改編がもたらした影響で重要なことは、宗教間の布教競争が盛んになったという点である。これは、単に勢力の拡大という側面だけではなく、教義上の展開という点もあった。こうした過程で日本宗教の制度的再編成が進行し、伝統的に教義ということに余り頓着してこなかった神道界においてもも、教義的な追究が始動し、教派神道という産物は神道史に新たな段階をもたらすこととなった。
3番目の点は、これまであまり重視されてこなかったことであるが、日本宗教のグローバル化にとっては、すくなからぬ影響を与えた事柄である。海外への移民は、明治元年から始まっているが、本格化するのは、1880年代になってからである。これ以後、ハワイ、北米への移民、さらに当時の朝鮮、満州、中国、台湾といったアジア各地への開拓民が数多く見られるようになった。移民が増えるに従って、宗教も海外へ進出していくことになった。主には、葬式、結婚式という通過儀礼の司式、そしてお盆や彼岸など、年中行事や祭を移民した先でも行いたいという要求に応える形て布教が開始されることが多かったが、やがて加持祈祷の類、倫理道徳運動も増加していった。初期の信者はほとんど日本人ばかりであったから、国内の布教・教化と大差ないことが多かったが、それでもこれは日本宗教の異文化体験の始まりであった。その影響は海外布教を行った各教団を通じて徐徐にあらわれることとなった。
4番目の戦後の政教分離、信教の自由の原則は、とくに宗教運動の活性化という直接的影響をもたらした。国家による宗教活動への介入がなくなった結果、とくに新宗教の活動は、よりバラエティに富むものとなった。天皇制による教義的束縛がなくなった、つまり不敬罪や治安維持法によって教義内容に干渉が加わることがなくなったことは、教義面での自由な展開を促進することになった。このことはグローバル化の進行に大きな関わりをもつ。宗教活動の自由化は、海外布教をも促進した。戦前までは既成宗教が海外布教の主たる担い手であったが、戦後のものは、新宗教が中心となった。そして日系人だけを対象とするのではなく、外国人を布教対象として定め始めた。ここではグローバル化の進行は必至となる。
戦後の海外布教の広まりは、5番目の、日本経済の急速な発展ということとも、密接に関係している。海外布教が軌道に乗った場合は別として、少なくとも海外布教の初期の段階では、これを支えるだけの人的、経済的基盤が必要になる。この2つを比べれば、人的基盤が、より重要な要素であることは、小規模の教団でも海外布教を手掛ける場合もある一方、かなりの財政的基盤をもつ教団であっても、海外布教に関心をしめさないものがあることによって説明できる。しかし、経済的な発展は、日本人の活動の国際化を促しており、そうしたことが宗教の海外進出といろいろな形で関係をもつことから、この要因を見過ごすことはできない。
5.グローバル化の開始
さて、このように、いくつかの条件の作用によって、日本宗教のグローバル化の具体的進行形態が規定されてきたわけだが、日本における宗教のグローバル化の問題を、日本が開国した幕末維新期以後の状況との関連で見るのはなぜか、という点について触れなければならない。グローバル化は最近の現象と看做す立場もあり、また日本宗教の本格的グローバル化は、やはり最近になって急速に進行しつつあると捉えられる面があるからして、
なぜ幕末維新期にさかのぼってこの概念を適用しようとするのか、という点についての説明が必要であろう。グローバル化を促進する基本的条件と、幕末維新期以降、これに深いかかわりをもった歴史的できごとについては、前節で述べたので、幕末維新期におけるグローバル化の兆しとして捉えられる現象として、具体的に何を想定しているかについて示すことにする。
その前に、グローバル化の過程は、宗教情報を発信する側(通常は教団がその典型となるが、教祖、布教者、教学部などを発信の主体と捉えるべきときもある)に焦点を当てて論じる場合と、受信する側(通常は布教対象者や信者ということになるが、教祖や布教者がそのように捉えられる場合もある[10])に焦点を当てる場合とでは、少し異なる様相として捉えられる、ということに言及しておかなければならない。幕末維新期においては、受信レベルの問題と発信レベルの問題とが、萌芽的な状態において、交錯してあらわれてくるからである。発信レベル(布教・教化を進める主体)で考えると、宗教間の布教が自由競争化していくことと、教義の形成のされ方、組織の形成のされ方に流動性が増してくることなどが、グローバル化の端緒として理解できる。一方、受信レベル(布教・教化の対象となる側)で考えると、受け入れる宗教、及び受け入れの候補となる宗教についての情報が多彩となり、かつそこでの選択のなされ方が自由になっていく(消費者的選択の様相)という傾向に、グローバル化の兆候を見出すことができる。受信レベルのグローバル化と発信レベルのグローバル化は、本来的に相補的関係に立つが、近代日本の場合、その出発点においては、運動のリーダー層における受信レベルでのグローバル化が先行している点に特徴がうかがえる。
そこで何をグローバル化の兆候とみるかであるが、幕末維新期に始動する宗教界の再編成の諸プロセスの中でも、次の2点にとくに注目したい。第1は、思想的リーダー層における異文化宗教の情報摂取の広まりとその影響が広範なものとなっていったという点であり、第2は新たに創始されたり再編成たりした宗教運動の教義形成過程におけるネオ・シンクレチズムの傾向という点である。
まず、リーダー層における情報摂取の影響であるが、明治以降、キリスト教を中心とする外来の宗教への関心は急激に高まった。しかし、外国で現実に布教を行っている宗教への関心は、すでに近世後期から芽生え始めていた。なかでも、通常思想的にはナショナリズムの培養土となったと評価される復古神道の果たした役割に注目しなければならない。復古神道家の代表的人物である平田篤胤の場合、外国の宗教に対する態度としては、その激しい排撃性が指摘されることが多いが、その排撃思想の基底にあった、諸宗教のあり方への強い関心がこの場合には重要である。動機と目的においては、篤胤の営為は、自文化の防衛という本質をもっていたことは疑いようがないが、その営為は図らずもグローバル化の過程に連なる性質をもっていたのである。諸宗教を比較するという行為は、方法論的には比較宗教の先駆的なものであったが、情報の網を広げるという点、及び諸宗教を競争相手として捉えるという点には、グローバル化の端緒とも言うべき性格がある。
また、国学の流れの中で、平田篤胤の継承者たることを主張していた大国隆正の場合は、活動していた時期が幕末維新期にもわたっていただけに、世界の状況への関心は一層強いものとなっており、かつ進行中の事象への関心が顕著となっている。篤胤の宗教比較が神話や思想が中心であったのに対し、隆正の場合は、現実の布教形態にも注意が及んでいる。実際、隆正の著書『球上一覧』に示されるように、[11]外国の事情に対する関心と知識は相当のものであった。[12]ここで日本の宗教を相対化していく作業が、すでに準備されていたのである。
幕末維新期の国学者・神道家の一部は、さらに、キリスト教をば人々を教化する上での競合する相手と見做し、対抗策をさまざまに検討することとなった。大教院・中教院・小教院の制度、教導職の制度もまた、この観点から眺めると大変興味深い事例となる。例えば教部省時代(明治5〜10年)の宗教行政の内実を知る上で貴重な資料の1つになっている「社寺取調類纂」の中にも、キリスト教を布教上の競争相手と認識しているような建言の類がいくつか見いだされる。そもそも、中教院や小教院の設立がキリスト教対策の一環であったことは周知の通りであるが、このことも、やはり布教の自由競争化の兆候を物語るものとして理解できる。その2、3の例を挙げてみる。
明治6年4月に、権中講義遠藤信道及び大講義落合直亮から大教院宛に提出された伺い書には、宮城県に士族のために「粮貧局」を設けたいという願いがなされているが、これは実はキリスト教の蔓延への恐れに基づいている。すなわち、県下の士族は家禄を減ぜられて生活は苦しく、子弟は学問が十分できない。ところがニコライ(ロシア正教)の門にはいると、月謝が必要でないばかりか、成業のあかつきには海外に行ける可能性すらある。このまま放置すれば、士族はみなキリスト教にはいってしまって国家にとっても損失である。だから、士族の子弟を救うための粮貧局を設置して欲しいというのである。[13]同じく明治6年10月には、兵庫県の湊川神社宮司折田年秀より、中教院建設の儀についての申立が出されているが、ここに中教院建設はキリスト教防止のためであることが述べられている。兵庫港と神戸港を控え、多くの外国人の到来が予想された地であるので、国教を盛んにして「キリスト教予防」に努めなければならないという主張が生まれたのも当然であろう。
また長崎においては、僧侶からの建言が多くなされている。明治6年2月には、光永寺住職らが、「従前當地僧侶怠惰教義講究ノ場モ無之故自然教導相弛ミ遂ニ今日ニ至リ異宗モ追々蔓延候儀ハ畢竟當地諸僧之罪ナリ」ということで、キリスト教が蔓延しないように、小教院を設けたい旨の伺いが教部省宛に出されている。同年11月には、高林住職温嶽耕堂が「当春以来長崎近傍異教日々蔓延既ニ御国体ニ於テ捨置カタキ勢ニ至リ候」と指摘する文書を大教院に出し、名前ばかりの仮中教院では駄目であるから、仮中教院を諸宗取締所と改称して名実揃ったものにしてはどうかと提言している。この建言は聞き届けられたようであるが、仏教各宗派が連合してキリスト教の防御に当たろうという意見がいくつかあったようである。さらに明治7年11月には、長崎県管内の25の大区より同時に小教院設置の願いが出されている。
ところで、このように、開国後、キリスト教の進出を阻止しようという運動が一部に起こり、また復古主義的な宗教運動がいくつか組織されたことは、基本的には、グローバル化というよりは、国際化の過程に生じるリアクションと捉えるのが適切である。なぜなら、国際化の過程では、しばしば強い民族主義や復古主義が生じ得るからである。国際化は国家と国家の関係の深まりではあるが、それは同時に1つの国のアイデンティティを再確認させるという力を発揮する。異質な宗教文化との接触によって、自らの宗教文化を見直す動きがでてくるのは、国際化の1つの側面である。[14]
しかし、こうした動きも、同時にグローバル化の兆しでもあったと捉えることができるのである。キリスト教との対峙が、民族主義を刺戟する面があったにしても、キリスト教の教義、布教方法、組織形態などを、取り入れるべき面がある「競争相手」として認識することも確かになされたのである。このような潮流は維新期以後広く見られるようになったが、国学者とその影響にあった人たちに話を限っても、受信レベルでのグローバル化は、外国の宗教文化に対する強い関心の広まりによって特徴づけられる。それは、国際化過程におけるリアクションと分け難い面もあるが、異文化宗教に対する情報が急速に増加していくという状況は、グローバル化の観点からはきわめて重要な変化である。
発信レベルに話を移すと、幕末維新期以降に組織化された神道教団の多くが、シンクレチックな教義形成を行い、これを人々に広めたことに着眼しなければならない。すなわち先に述べたネオ・シンクレチズムの出現である。日本の宗教においては、シンクレチズムはありふれた現象であるが、シンクレチックなと表現される場合には、通常宗教としての統一性や一貫性などが欠如している、という評価が背後に潜んでいることが多い。ある文化圏において、複数の宗教が併存したり、何らかの形で接触するとき、その相互影響、あるいは一方から他方への影響の結果として、シンクレチックな教義や儀礼などが形成されることは、避け難いことと思われる。しかし、この言葉にやや否定的なニュアンスが込められていることも少なくない。それは自己完結的な形態こそ、宗教の本来の姿であるという前提が暗黙のうちに存在するからと考えられる。宗教も文化的産物の1つとして捉えるなら、それが異なる宗教との接触により、新たな形態を生んでいくのはむしろ自然なことであろう。
そして、このシンクレチズムが、主体的になされるようになる(ネオ・シンクレチズムの形態をとるようになる)ところに、グローバル化の傾向をみてとりたいのである。日本宗教の場合、明治以降、表面的にはキリスト教との対抗に力を注いできたが、教義面ではしばしば、キリスト教の一神教的考えからの影響をうかがうことができる。これもまた、明治期に突然始まったことではなく、やはり江戸後期の復古神道家の思想のあり方にすでに萌芽的にあらわれていた。[15]ただし、幕末維新期においては、キリスト教に教義的に対抗するために、既存の宗教伝統の利用を図ったという側面が強かった。だが、そうして他の教義を意識しながら自らの教義形成を行うということが、正にグローバル化の過程で生じることなのである。神理教の佐野経彦が、ニコライとの会談を経験し、キリスト教が人造教であるのに対し、神道は天造教であると規定したなどは、その例である。[16]さらに、後の神道系教団になると、キリスト教の教義(とくに神観念など)を自分の教義の中に取り込んだり、それを肯定的に扱うということが見られるのである。[17] 教義面におけるネオ・シンクレチズムは、維新期においては創唱宗教的色彩の弱い教派神道の場合にとりわけ注目される。いわゆる教派神道13派の中でも、黒住教、天理教、金光教などは創唱宗教的とされるが、神道修成派、神道大成教、神習教、神理教などは創唱宗教性が乏しいとされる。後者は独創的な新宗教運動という性格は弱く、むしろ神道の再生運動と捉えられる。創唱宗教的な新宗教教団においても、シンクレチックな教義形成と捉えられる面はあるが、それは決して、主体的な選択の結果としてのシンクレチズムではない。客観的にみて、既存の伝統ないし他の宗教からの影響が認められるにしても、それはいわば意図せざる結果ということになる。一方、創唱宗教性の弱い教団においては、自分たちの教義が、儒教、易学、山岳信仰等の折衷であることが明確に意識されている。こうした教団の宗教的創造性は乏しいというのが従来の評価であったが、グローバル化の観点からすれば、むしろ変化の先取りをした形ということになる。
6.むすび
前節において、日本宗教を中心として見たグローバル化の始まりは、幕末維新期のあたりに想定できることを述べてきたが、このような概念を導入することによって、近代の宗教現象(さしあたっては日本に焦点を当てて)のどのような側面に新しい光を当てることが可能になるのかについて、現段階で指摘できることを3点ほどまとめておきたい。第1に、近代以降の新たな宗教運動の絶えざる発生(この現象は日本やアメリカで顕著である)が、情報化の進行、従ってグローバル化の進行と深い関わりをもっているという視点を提起できる。第2に、複数の宗教的ソースから儀礼、教義、実践形態などを取り込み、新たな構築を達成するというネオ・シンクレチズム的現象を、個々の教団や日本宗教一般の性格というより、時代的な流れの結果として理解できる。第3に、近代における布教活動の国際化(多国籍宗教化等)を、従来の世界宗教の広まり方とは異なったタイプのものと位置付けることが可能になってくる。[18]
日本近代において、新たな宗教運動が次々と生起した理由については、これまでの研究ではまだ十分な説明がつけられているようには思われない。日本で新宗教運動が顕著になるのは、19世紀半ば頃からであるが、ほぼ同じ頃アメリカにおいても、再臨運動など宗教運動が盛んになっている。また、日本において新宗教運動は戦後その活動の多様化が急速に増しているが、アメリカにおいても、戦後はキリスト教系の宗教運動ばかりでなく、東洋系の宗教運動も西海岸を中心に急速な広がりを見せている。それに関わった要因については、いろいろなものが想定されるにしても、これらの現象、そして太平洋をはさんでの平行的現象が、グローバル化という概念の導入によって、新たな光のもとに扱うことが可能と思われるのである。
またシンクレチズムについては、日本の新宗教のシンクレチックな教義については、日本の宗教的寛容、習合宗教の伝統などから説明されることが多いが、グローバル化の観点に立てば、近代以降のシンクレチズムには異なった要因が新たに混入したという理解の仕方になる。すなわち、個々の宗教教団のもつ特性や日本文化のある共通性とは別に、情報化の進行は、他の宗教に関する知識を急速に増加させる効果をもち、そのことが及ぼす広範な影響として捉えられるということである。この立場にたつと、ファンダメンタリスティックな教団やセクト的な性格が強い教団において、シンクレチックな教義編成が行われたとしても、少しも不思議ではないことになる。
もちろん、グローバル化と日本の宗教的伝統は、親和性が高いのではないかという議論も必要である。島国という地理的条件や、民族的均質性が高いなどという、グローバル化の進行には促進的とは思われない条件が重なるにもかかわらず、幕末維新期以降、グローバル化が進行したのには、伝統的にみられる異文化に対する関心の高さといったものが、強調されねばならない。教義形成の際にみられるような柔軟さは、教義が一定しないとか、歴史の浅さを示すものとして、否定的に評価されることもあるが、グローバル化の観点からは、時代が共有していた1つの要請の反映に他ならないということになる。
近代における布教活動の国際化は、世界宗教の広まりと異なった流れの中にあるという主張は、まだ検討を要するものではある。しかしながら、多国籍宗教という概念が、世界宗教と民族宗教という区分法では、現実の宗教の国際的広まりの様相をうまく分析できないとして提起された面があるとすれば、グローバル化の観点から、最近の宗教の国外布教を捉えようとすることにも十分根拠がある。例えば、宗教が異文化の地に広まっていく過程を文化接触や土着化の視点から捉える代わりに、宗教間の自由競争がもたらす諸現象として捉えるといったことも可能となる。[19]
グローバル化のより包括的な議論は、ここ1、2世紀の世界における変動を全体的に考察することによって、はじめて可能となる。しかし、グローバル化が情報化と深く関係しているとするなら、情報化が高度に進みつつある日本の事例から、1つの視野を開こうとするのは、無謀な試みではあるまい。そういう意味で近代日本におけるグローバル化の過程については、さらに緻密に検討を重ねていく必要があるが、それについては別稿に譲りたい。
註
1]こうしたことは、通常は文化の伝播として扱われてきた。調理法、遊び、スポーツ、音楽などが民族や国家の境を越えるのは、古くからの現象である。しかし、伝わったものが、国際的なつながりの中に維持されるようなシステムが生まれれば、それはグローバル化と捉えていい局面を有することになる。つまり、中国武術が日本の武術に影響を与えたというようなことは、伝播の問題であるが、柔道が国際的な広まりをもち、各国に愛好者を生み、国際的な試合が開かれるといった現象は、グローバル化の観点から理解できるということである。このように考えるならんば、オリンピックはおしなべてスポーツのグローバル化を推進したと言えることになる。
[2] 多国籍宗教の概念については中牧弘允『新世界の日本宗教』(平凡社、1986年)、及び拙著『海を渡った日本宗教』(弘文堂、1985年)を参照のこと。
[3] これまで、第1回が、1985年11月3日、東京の両国国技館で行われたのをはじめ、以後、ロスアンゼルス、イタリアのアッシジ、パリ、北京(1987年9月)等で開かれている。用いられる言語は、国内の場合は日本語、国外では英語あるいはその国の言葉で唱えられる。
[4] グローバル化の過程では、適者生存的な原理がはたらくこともあるから、優れた技術が急速に広まったりする一方で、巧妙な犯罪のやり方が国際的に広まるということも生じる。
[5] ロバ−トソンは、1960年代半ば頃、グローバル化のテーマに関心を向けたと述べているが、彼が宗教とグローバル化の関わりについて触れた論文として、次のようなものがある。"The Sacred and the World System, in Phillip Hammond (ed.), The Sacred in a Secular Age, University of California Press, 1985. Globalization and Societal Modernization: A Note on Japan and Japanese Religion, Sociological Analysis 47, 1987. 「グローバル化と宗教の未来」(『東洋学術研究』27−3、東洋学術研究所、1988年)、及び「グローバル化・国際化と宗教」(中央学術研究所編『宗教間の協調と葛藤』、佼成出版社、1989年)。これらによって、彼がどのような観点からグローバル化と宗教の関わりを捉えようとしているかの概略を知ることができる。
[6] グローバル化と国際化は明確に区別されねばならないという点は、彼が中央学術研究所主催の国際シンポジウム「現代における宗教集団間の協調と葛藤」(1987年7月、東京にて開催)の際に、口頭でも繰り返し強調していた点である。
[7] 梅棹忠夫は、これを流行病にたとえる見方を示している。(梅棹忠夫著『文明の生態史観』(中央公論社、1967年)
[8] 国際化とグローバル化の大きな違いは、国際化が、国家と国家の存在を前提として、その相互の関係として生ずるのに対し、グローバル化は、国家を横断していく、あるいは国家の境を超越していくという点である。従って、国際化の段階では民族主義は、かえって高まることもある。もっとも視点を変えれば、グローバル化は国際化の特殊な形態であるとしたり、逆に国際化はグローバル化の特殊な形態であると規定することもできなくはない。ただ、別の概念とした方が、現在生じつつある複雑な様相を整理する上では便利である。
[9] さらに、神官教導職分離以後、神社が特別扱され、また天皇制が擬似宗教としての機能を果たすよになったことを考えると、キリスト教の布教を阻止するという、初期明治政府や国学者・神道家の当初の目的は、実質的に果たされていると理解できる。
[10]教祖や布教者などは、信者に対する関係では情報の発信者である。しかし、既存の宗教伝統や教義などを咀嚼する営みに際しては、情報の受信者と理解できる。
[11]『球上一覧』を読むと、大国隆正が海外についての豊富な知識をもっていたことが分かる、これについては、最近正確な翻刻が公にされた。阪本是丸・森瑞枝「大国隆正『球上一覧』(翻刻と注解・その一)」(国学院大学日本文化研究所紀要64、1989年)
を参照のこと。
[12]これにはついては幕末における津和野藩の文化レベルの高さ、あるいは先見の明があったことを指摘する研究が最近見られるようになった。これについては、武田秀章の以下の一連の論文を参照のこと。「近代天皇祭祀形成過程の一考察」(井上順孝・阪本是丸編『日本型政教関係の誕生』、第一書房、1987年、所収)、「明治神祇官の改革問題」(『國學院雑誌』88−3、1988年)、「文久・慶応期の大国隆正」(『国学院大学日本文化研究所紀要』64、1989年)。
[13]詳細は、拙論「社寺取調類纂に見る神道布教の諸相」(国学院大学日本文化研究所紀要60、1987年)を参照のこと。またここで示した伺いの具体的内容については、以下を参照のこと。井上順孝「<翻刻>社寺取調類纂B〈中教院関係@〉」(国学院大学日本文化研究所紀要57輯、1986年))の宮城県と兵庫県の項、同「〈翻刻〉社寺取調類纂D〈小教院関係〉」の長崎県の項
[14] 国際化過程における日本のアイデンティティという問題が、もっとも典型的にあらわれているのは、言うまでもなく近代天皇制である。天皇制は、アジアの諸国と友好関係を深める際の障害になるという見解も、天皇制を維持することが国際社会での地位を確立することになるという互いに矛盾するかのような言明も、国際化の観点からすれば、どちらも成り立ち得る。つまりこれはどのような形の国際化を選ぶかという議論であるから、対立する意見の存在は当然である。これに対し、グローバル化の観点から天皇制を議論すると、天皇制の内容的変化の過程が主に問われることとなる。例えば、昨今しばしば耳にするように、皇室は、英国の王室のようになるべきだというような議論は、グローバル化の過程として扱い得るものである。
[15]とくに、平田篤胤の思想に対しキリスト教が与えた影響については、いくつかの研究がある。この点については拙論「復古神道の形成過程における外来思想への対処」(中牧弘允編『神々の相克』、新泉社、1982年、所収)を参照。
[16]この点については、拙論「佐野経彦・ニコライ問答について」(『国学院大学日本文化研究所紀要』61、1988年)を参照のこと。
[17]例えば、生長の家の教義には、明らかにキリスト教の影響はうかがえるし、白光真宏会はさらにはっきりしている。
[18]最近WCRPなどを中心に進められている宗教協力なども、エキュメニカル運動とは異なった性格をもっていると思われるが、それもグローバル化の観点から分析すると分かりやすいものになると考えている。
[19]A.シュ−プ(Anson Shupe )「グローバル化か宗教的土着主義か」(『東洋学術研究』37−3、1988年)などは、こうした発想に近いと思われる。