解説
12章からなるこの詩は、きわめて宗教的であり、かつ現代的である。世界の諸宗教の聖典、さらには神話・伝承から、人類の抱いてきた謎、苦しみ、そして希望といったものが、重ね合わされている。創造神話は多くの民族がもつが、それは世界が誕生した不思議、人類が出現した謎を解き明かしたいという欲求の普遍性を物語る。最初に登場する「リグ・ヴェーダ」は、古代インドの聖典である。紀元前 1500〜1000年頃に成立したとされる。千編余の賛歌からなる。この交響曲がイスラム教の聖典「コーラン」や、ユダヤ教とキリスト教の聖典である旧約聖書の「創世記」ではなく、リグ・ヴェーダの引用から始まっていることは興味深い。なぜなら、やコーランが語るのは神による創造であり、そこで無から有が生じる。だがインド宗教は有と無を超越する世界から説き始めているからである。
ハワイの創世神話「クムリポ」やズニ族の神話は、われわれ日本人には馴染みの薄いものである。クムリポは、宇宙の起源から生物の進化、さらに、そして王の系譜まで語られており、なかなか壮大なスケールのようである。残念ながら邦訳はない。ズニ族は北米先住民でプエブロ諸族の一つである。とうもろこしを主作物としてきたので、神話にもそれが反映されている。生物の創造の章では、 8世紀前半に成立した日本書紀のなかの、イザナギ・イザナギによる<国生み>、すなわち国土の生成の場面が出てくる。
人類の創造の章に出てくる「ポポル・ヴフ」は、中米のキチェ族に伝えられた神話である。18世紀にカトリックの神父によりスペイン語に翻訳されたものが、西欧世界にひろまった。邦訳もある。天地万物の創造から王家の歴史にまでわたっている。聖書の影響がいくらか見られるとされるが、独特の人間観があって、興味のわく内容である。
5章から8章にかけては、<愛と喜び>と<悪と無知>、<苦難>と<慈悲>と、対照的なテーマが配置されていく。ルーミーの詩が引かれているが、彼は13世紀のペルシアの詩人で、イスラム教の神秘主義者である。生涯に多くの詩作をなした。語録には邦訳がある(井筒俊彦『ルーミー語録』、岩波書店)が、ここで示された短い部分からも、愛を解き放つ宗教的香りが漂ってくる。旧約聖書の「雅歌」は、かつてはラブレターを書くのに参考になると言われたことさえあるほど、甘ったるい文章を含んでいる。
「バガバッド・ギータ」は、古代インドの大叙事詩である「マハーバーラタ」の一部である。クリシュナ神に化身したヴィシュヌ神への愛を説く内容である。また、「入菩提行論」は、仏教書の一つで、7世紀に書かれたとされる。菩提心に基づいた菩薩行をテーマとする。自己犠牲を強調するのが特徴で、インドでは広く愛唱されたものである。死の章には、小野小町、松尾芭蕉、観阿弥の名前が登場する。これはある面では日本人へのサービスであろうが、無常を表現した個所がきちんと選ばれている。
審判と黙示の章には、コーランとともに、「チベットの死者の書」が引用される。チベットの死者の書では、死と再生に関わる話が、リアルに描かれている。同書は邦訳がある。「ヴィシュヌプラーナ」はヒンドゥー教でもっとも重要な神の一人、ヴィシュヌ神への賛歌である。ここではしかし、すべてが破壊される瞬間のすさまじき光景が示されている。
「新約聖書」は言うまでもなくキリスト教の聖典であるが、天国の章に出てくる「コリントの信徒への手紙T」は、使徒パウロがコリントの教会にあてて送った2通の手紙のうちの最初のものである。カビールは、15〜6世紀のインドの宗教家であるが、ヒンドゥー教とイスラム教の双方に影響を受け、膨大な数の詩を創った。
各所にインド思想の断片が引用されており、結びもまたそうである。審判の章、そして天国の章のあとに、功徳という章が配置されているのも、いささか心憎い。全体として、こうした構成は文化論的に壮大な構成であり、比較宗教学の応用といった趣を感じさせる。宗教的な色彩があるとつい構えがちになる人もいるが、世界的にはこうした潮流も育まれていることを、日本人はもっと知るべきであろう。
付記
この翻訳はグラス氏らの作った英文についてのものであるが、一部の書については、原文(ヘブライ語、ギリシア語、サンスクリット語など)からの邦訳がすでに存在する。英文のものは、そうした原文を必ずしも忠実に訳しているとは限らず、いくぶんアレンジされた部分もある。すでに定訳があるものについては、それと異なった訳になるのもかえって違和感があるので、おおむね定訳に従いつつ、全体の流れを勘案して翻訳するという手段をとった。参照したものを以下に記した。
参照文献
『コーラン』(井筒俊彦訳、岩波文庫)
『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)
『チベットの死者の書』(川崎信定訳、筑摩書房)
『バガヴァッド・ギータ』(上村勝彦訳、岩波書店)
『ポポル・ヴフ』(A・レシーノス原訳、林屋永吉訳、中公文庫)
『リグ・ヴェーダ讃歌』(辻直四郎訳、岩波文庫)
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