書評 ジル・ケペル『宗教の復讐』
「宗教の復讐」とは、少しばかりおどろおどろしいタイトルである。原題は「神の復讐」だが、それにしてもあまり穏やかな話ではない。といっても、本書はキワモノ風の書ではない。一九七〇年代以降に顕著になった宗教復興ないしは宗教再利用の諸相を、政治との接点において捉えようとした、広い視野をもつ研究である。
近代主義、世俗主義の世界的潮流の中に、宗教がもちうる社会的インパクトは、しだいに衰微に向かうのではないかという予測が、一時期あった。これはとくに西欧の宗教社会学などで、「世俗化」というテーマのもとに、盛んに論議された。しかしながら、著者は、その予測がしだいに覆される気配を見せた時代に焦点を当てている。
「七〇年代は、ここ四半世紀で思いもよらないほど変化した政治と宗教の関係にとって転回点をなす一〇年だった」という冒頭の文が、著者の基本的認識を端的に示す。そして、いかなる意味において転回点であったかを解き明かすことが、本書の中心的内容である。このテーマがイスラム教、キリスト教、ユダヤ教において検討されている。
まず、イスラム世界に関しては、一九七〇年代に、社会改革の拠り所が、それまでのマルクス主義から、イスラム主義へと転換した構図が注目されている。そのきっかけは、一九七三年の石油ショックであった。原油価格の急騰により、産油国は社会の再イスラム化の資金源を得たのみならず、社会の解体が促進された。しかしスンニ派世界における再イスラム化運動が、当初ことごとく失敗したのに対し、一定の成果を収めたのは、ホメイニ師に率いられたシーア派イランであった。このイランのケースは、八〇年代半ばまでは、他のイスラム世界にとってのモデルになるかに見えた。だが、八〇年代後半からは、国家の再イスラム化よりも、むしろ個人の再イスラム化を優先させようとする新たな段階が始まったとする。
キリスト教世界での変容は、西欧、東欧、そしてアメリカにおいて検討されている。まず西欧カトリック世界では、社会が大規模に世俗化、非キリスト教化される一方で、再キリスト教化の動きもいたる所に出現したとする。カトリック教会の現代化が着手されたのは、第二ヴァチカン公会議(一九六二〜五年)以降とされる。そして七〇年代半ばから、再キリスト教化は明確な形をとり始めた。これに対する大きな障害として、宗教的なものを私的領域に追いやろうとする傾向が挙げられている。そして、この傾向を克服しようとするものとして、「共生と解放」の運動があり、これが過去四半世紀における西欧カトリシズムでは、唯一の再キリスト教化の企てであるとされる。
他方、東欧キリスト教世界では、再キリスト教化運動が、共産主義を解体させた一つの原因になったと把握されている。ポーランドについては、全体主義体制が崩壊する過程に、教会は重要な役割を果たしたが、連帯が合法化されていく中に、非宗教化も進行せざるを得なくなったと分析する。ところが、チェコでは、カトリック教会が再キリスト教化よりも、民主主義の実現の方に人々の渇望が向けられたとする。
アメリカではどうだったか。ここではファンダメンタリズムの動向、テレバンジェリズム(テレビ伝道)を含む各種の福音主義が議論されている。戦後しばらくアメリカのプロテスタントにおける主流であったリベラリズムは、一九六〇年代に福音主義との対立を迎える。福音主義は、信仰治療を見直させ、大衆伝道に息吹を与えた。そして、一九七六年に至って、この年が「福音主義者の年」と称されるようになった。けれども、このファンダメンタリズムの政治への影響は一定範囲にとどまった。それはアメリカの民主主義という力にあると分析される。
最後にユダヤ教が議論される。イスラエルで一九七〇年代以降生じたことは、グージュ・エムニーム(信者の陣営)という組織や過激正統派グループによる、非ユダヤ的要素の排除、聖典への回帰の主張であった。それはときにテロリズムの形態さえとった。ユダヤアイデンティティの強まりは、イスラエル以外のユダヤ人、つまりアメリカやフランスなでも起こり、その兆は一九六〇年代に始まるとされる。
最後の章では、三つの宗教的伝統が政治にもたらしたインパクトの共通点と相違点とがまとめられている。相違点をもたらす大きな要因としては、訳者もあとがきに指摘しているように、民主主義の根付き方の違いがある。これは興味深い問題である。と同時に、もっとも別の面もこれに劣らず重要に思われる。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教を比較するとき、はずせない視点としては、民族との関わりの度合いという厄介な問題がある。民族とは何かとあらためて問われるとにわかには答えにくい。とはいえ、次の点は明らかである。すなわち、キリスト教は民族との関係はきわめて多様であり、イスラム教はアラブの統一という理念と切っても切り離せない。さらに、ユダヤ教はユダヤ人としてのアイデンティティと不可分である。とすれば、宗教が政治の領域に首を出してくるときの様相にも、おのずとその違いが反映してくるだろう。しかしながら、本書では、この点については、あまり明確には議論していない。そしてそのことが、政治領域への宗教の進出の諸相の分析にやや不満を残させる結果になっている。
ところで、上からの運動と下からの運動という二分法が、本書に繰り返し出てくる。聖職者たちや一部の過激な運動家たちに指導されたものは上からの運動であり、民衆の間に自発的に生じたものは下からの運動という区分に読みとれたが、この二分法は果たして適切であったのだろうか。ある運動が社会的に展開していく過程は複雑である。とくに昨今のように情報化社会、人的交流が激しくなった社会においては、一つの運動の展開に関して多くの要因が絡まると考えられる。上から下からと、いささか強引に二つのカテゴリーに分類してしまうのは、ある面では分かりやするのは確かだが、他面では、誤解のもとにもなりかねないのではないかと感じた。
中東起源の宗教が現代政治ととり結ぶ関係を描く本書のような著作を読むと、アジアとくに東アジアではどのような視点が導けるのかを考えたくなる。著者は、ヒンドゥー教や神道においても一九七〇年代に新たな展開があったことを示唆しているが、具体的には何も述べてはいない。著者がアジア宗教についてどれほどの知見をもち、どのような洞察をしているのかも興味があるが、これはむしろわれわれ日本人研究者に与えられた課題であろう。
*1993年「東京大学新聞」掲載