難民たちの「拒絶の意志」は誰にも止められない
〜「ニッポンノミライ」を治者の視点から読み解かないために〜

(現代思想2002年11月号所収)



「じゃあ教えてやろう。ぼくの考えているのはね、やがてはジム・ボンドのような連中が西半球を征服するだろうっていうことさ。」
           ウイリアム・フォークナー「アブサロム、アブサロム!」

 

窒息から逃れて

 まず、日本人のゲイである私が難民問題に深く関わるきっかけとなった難民申請者、Sさん※の話をしよう。
 Sさんが日本にやってきたのは1991年。その12年前、1979年に、Sさんの祖国、イランで革命が起きた。そのとき、Sさんは中学生。彼はすでに、イランの左翼グループのひとつに属していて、友達と一緒に革命に参加した。革命には成功したが、できあがった体制は、今までにあった帝国、近代化で舞い上がった皇帝と、欧米に骨がらみにされた行政機構と、恐ろしい秘密警察によって組み立てられていたイラン帝国よりも、Sさんにとってずっとつらいものだった。革命によって、フランスからホメイニー師が戻ってきた。最高指導者として。もっとも貧しい人々の側に立つ、といいつつ、彼はいくたの武装組織を創設して、ともに革命を行ったいろいろな勢力を追い落とし、さらにはイラクの侵略を活用して国民意識を操作し、「イスラーム法学者による統治」(ヴェラーヤテ・ファギーフ)という指導理念の下に挙国一致体制を作り上げてしまった。多くのイラン人が、その体制の下で窒息するような思いを経験したが、Sさんにはもう一つの重石があった。
 彼は、革命の一年前、幼なじみで考え方も似通っていた一年上の同性の先輩とパートナーになった。それは、同性愛を毛嫌いするイラン社会では、絶対に誰にも公言できないことだった。自分は他の人と違う……革命後、その圧迫感は、恐るべき恐怖感へと変質した。新聞に、「地上における堕落者を銃殺」という記事が次々と報道され始めたのだ。国家暴力のターゲットになったのは同性愛者だった。革命初期から、多くの町で同性愛者たちが革命裁判所に引きずり出され、イスラーム判事の判決により銃殺刑に処された(注1)。その後、革命前には自分の性的指向を隠していなかった同性愛者たちも息を潜めて暮らすようになり、処刑の数は多少減ったが、処刑の方法は、形容詞過剰なイスラーム法をまるのまま現代に復刻しようとする政治的イスラーム運動の方法論に従い、ただの銃殺ではなく著しく残虐な形へと様式化した。同性愛者が、公開での斬首刑、断崖からの投擲、石打ち刑などの形で処刑されるようになったのだ。
 Sさんは、家族に告げた。「自分はイスラーム社会では生きていけない人間だ」。家族にはその言葉の意味はわからなかった。大人になり、家族からしきりに結婚を強要されるようになって、Sさんの恐怖感はますますリアリティあるものになっていった。婚姻を拒否しつづけることは不自然だ。家族はそのうち、彼が同性愛者であるという、ひとつの結論にたどり着くだろう。「ソドミー(同性間性行為)の処罰は死刑であり、執行の方法はイスラム法判事の指示に基づく」(イラン・イスラーム共和国刑法第110条)。彼は親族が革命防衛隊に自分のことを通報する危険性すら感じた。急がなければならない。兵役を終えてしばらくたった1991年、彼は「もう帰らない」と言い残して、国を出た。行く先は、本当はアメリカかヨーロッパのはずだった。しかし、彼は日本に向かうしかなかった。パキスタン出身の作家サルマン・ラシュディへの死刑を宣告するホメイニー師のファトワー(宗教見解)の余波で、欧米はイラン人を受け入れたがらなかった。「同性愛者として亡命したい」と言えればよかったが、彼は当時、まだそこまで自分が同性愛者であることを受け入れることができていなかった。彼は、ビザ相互免除協定がまだ施行されていた日本に行く飛行機に、乗り込むしかなかったのだった。

攻守は入れ替わった

 いつもと同じ仕事帰り。違ったのは、その交番にいた警官が手当たりしだいに外国人を誰何していたことだった。2000年4月下旬、Sさんは不法残留容疑で逮捕され、連休明けにジュージョー(東京都北区にある東京入管第2庁舎の通称)に送られた。日本に来てからもうすぐ10周年を迎えるところだった。彼はすぐさま、難民申請した。ジュージョーでの取り調べは、まず大部屋で、次には医師の診察にかからなければならないほど体調の悪いときに行われた。大部屋では、待ちぼうけを食わされている他のイラン人たちが聞き耳を立てていたが、彼はそこで自分が同性愛者であること、イランでは同性愛者は死刑に処せられること、従って自分は難民であることを係官に告げなければならなかった。7月、法務大臣は彼を難民不認定とし、在留特別許可も与えず、かわりに退去強制令書(強制送還の命令書)を発付した(注2)。彼は東京地方裁判所に、法務大臣の退去強制令書発付を取り消すことを要求する裁判と、強制送還の執行停止の申立を行った(注3)。裁判所は、第1審判決まで強制送還を執行停止することを決定、本格的に裁判が開始された。
 その後の動きを簡潔にまとめよう。Sさんは7月、ジュージョーからウシク(茨城県牛久市にある法務省入国者収容所東日本入国管理センターの通称)に移され、1年と7ヶ月の間、そこにいた。収容というものの常である服従と隷属にさいなまらされながらも、Sさんは意気軒昂であり続けた。転機が訪れたのは2001年の9月だった。Sさんは、ウシクでイランの同性愛者の迫害についてペルシア語で多くの陳述書を書き、ロンドンで発行されているペルシア語の新聞を取り寄せて、同性愛者の迫害に関する情報を収集し続けた。彼が見つけたいくつかの記事は、97年に成立した「改革派」ハータミー政権の下でも同性愛者の処刑が続いていることを証明していた。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、そうした証拠資料の積み重ねを重視、彼を事実上の難民として認めたのだ。
 その後のUNHCRの動きは早かった。UNHCR自身が彼の収容を解くための手続を開始、彼の難民認定を要求して法務省との折衝も開始した。相前後して数名の国会議員が彼の身柄解放のために奔走、ついに2001年11月末、彼はウシクから解放されたのだった。
 法務省はまだ彼を難民として認定していない。だから、彼は在留資格をもたないまま、ただ「仮に放免された」状態にいるにすぎない(注4)。裁判はまだ続いている。しかし、少なくともSさんは、ただ送還を待つ身ではない。裁判で彼は、少なくとも主張と証拠の量では法務省を凌駕し、法務省に攻勢をかけ続けている。裁判に最終的に勝てれば、彼は在留権を手にすることができるし、少なくとも第1審の判決までは、彼は日本にいることができるのだ。
 攻守はいつの間に入れ替わったのか。またそれは何によるものなのか。そもそも、同性愛者であることを理由とした難民申請は、Sさんのケースが日本で初めてだと思われるのに……。
 彼の法的な力の源泉はどこにあるのか。それは二つある。ひとつは難民条約、もう一つは、難民条約をてこにして、迫害から逃れた同性愛者の庇護の事例が世界各地で積み重ねられてきたという実績である。

難民制度の生命力:国境を越える人々の「拒絶の意志」

 難民条約における難民の定義は、以下のようなものである。
「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であつて、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」(注5)
 同性愛者という言葉ははっきりとは入っていない。しかし、同性愛者を含む概念として活用されてきたのが、理由の4つ目に上げられている「特定の社会的集団の構成員であること」というところである。
 一般に知られている限りでもっとも早く、同性愛者を難民として認定したのはドイツ(当時の西ドイツ)だ。1983年、フランクフルトの衛星都市ヴィースバーデンの行政裁判所は、政府の決定を覆し、一人のイラン人ゲイ男性を難民として認めた(注6)。この判決は、まずイランにおいて同性愛者が処刑される可能性があり、また実際に処刑されていることに論争の余地はない、とした上、「隠れて生きていれば迫害の危険はない」とした政府の決定に対して、「同性愛者に隠れてひっそりと生活しろなどということは、宗教的信念や皮膚の色を変えるために努力せよというのと同じことであり、受け入れられない」と断じ、男性を難民として認定した。このこの判決は、現在までに出された同性愛者の難民性に関する数ある決定や判決の中でも、もっとも質の高いもののひとつである。
 米国では、数多くの国から同性愛者が難民として受け入れられているが、その上で最大の議論となったのは、同性愛者を「特定の社会的集団」とみなしうるかどうかということだった。1985年、米国移民控訴委員会は「特定の社会的集団」の定義として「生来的であるか、過去の共通した経験に基づく、共通した、不変の性格を共有する人々の集団」と定義した(注7)。米国で難民として認められた最初の同性愛者は、ブラジルで「死の部隊」と称せられる複数の準軍事組織から、暴力や脅迫といった迫害に迫害にさらされてきたゲイ男性、マルセロ=テノリオ氏(1993年に認定)だったが、彼を難民として認めた決定では、同性愛者が上記の「特定の社会的集団」の定義に当てはまることがはっきりと確認された。
 その後米国では、「特定の社会的集団」についていくつかの定義がなされたが、現在もっとも一般的に活用されている定義は、「迫害者が被迫害者をそれ以外の人から区別できるような、共通の性格を有する集団」、つまり、迫害を行う人間が見たときに、被迫害者を一般の人間から区別して識別できるような、何らかの共通する性格を有する集団であれば、これを「特定の社会的集団」とみなす、というものである(注8)。これにより、米国では同性愛者はほぼ完全に「特定の社会的集団」とみなされることとなった。米国では、この定義に従い、たとえば1994年から96年までの3年間だけでも、合計26ヶ国から55人の同性愛者を難民として受け入れている(注9)。
 同性愛者を難民として受け入れた実績のある国は、欧米を中心に合計10ヶ国に上る。また、難民としてでなくても、人道的な配慮からの定住を認めるなどの措置を行っている国は、ずっと多くなるものと推定される。UNHCRも、迫害を受けたり、迫害を受ける恐れのある同性愛者は「特定の社会的集団」の中に含まれる、という見解を表明している(注10)。
 「特定の社会的集団」の定義は、より多様な人々を含み込むものとなりつつある。まずは、暴力的な社会的慣習による迫害を受けた・また受ける恐れのある人々について。中東からアフリカの一部地域で行われている暴力的な社会慣習であるFGM(Female Genital Mutilation:女性性器切除)に関して、1993年にカナダが、10歳のときに入国して、帰国するとFGMの対象になる恐れがあるとして庇護を申請したソマリ人女性を難民として認める決定を行ったのを皮切りに、1996年にアメリカがトーゴ出身の女性ファウジーヤ・カシンジャさんを(ファウジーヤさんの手記は日本でも「ファウジーヤの叫び」(ソニー・マガジンズ刊)として公刊)、また同年、スウェーデンが同じくトーゴ出身の二つの家族を難民として認めた。さらにフランス、オーストラリア、イギリスのそれぞれの難民認定機関が、FGMの被害を受ける恐れのある女性を難民として認めるという見解を表明している(注11)。
 一方、本国で治療が提供されない疾病の患者・感染者を「特定の社会的集団」とみなすという判断も出てきている。1995年、米国ニューヨーク州の移民判事は、トーゴとコート・ディヴォワール出身のHIV感染者を難民として認めた。その理由として挙げられたのは、この両国でHIV感染者・AIDS患者が孤立と差別の対象となっていることに加えて、この両国でHIVに対する治療が行われていないこと、病院が患者・感染者とその家族をシャットアウトするといった差別行為を行っていることであった。さらに1996年、米国移民帰化局はHIV感染者/AIDS患者を「庇護法(Asylum Law)に基づく庇護を受けるべき社会的カテゴリー」として扱うべきとの答申を大統領に提出したのである(注12)。
 現代世界において「難民」というとき、その概念は日本にいる私たちの先入観をはるかに越えたものとして広がっている。
 戦争や政治的・宗教的・民族的迫害……私たちは人が難民となる理由を、そういった典型的なものとしてとらえがちだ。しかし、人が郷土を、祖国を、ある決意をもって拒絶するとき、その理由は、そういった古典的なものにとどまらない。
 もちろん、性的指向に基づく迫害や社会慣習による迫害、疾病の治療が行われないという事実、などなどによって他国に逃れてくる人々を「特定の社会的集団」として庇護の対象とすることは、難民制度が正式に発足した1951年当時には、考えられていなかっただろうと推測される。これを難民制度の「拡張」と呼ぶなら、しかし、この拡張は、以下の理由により、まさに必然的なものであるということができる。すなわち、難民制度とは、国境を越える人々の「拒絶の意志」に応答することを企図して作られたものであるということ、また、何らかの理由により、郷土に、祖国に緊縛されることの絶望の中に取り残された人々にとっての唯一の「希望」として存在し続けることにこそ、この制度の生命力が存在するということ。
 国境を越える人々の、多種多様な意志、決意の前には、一握りの政策立案者の「計画」などひとたまりもない。

生命力なき「計画化」:法務省が上げたアドバルーン

 ここにひとつの論考がある。「21世紀の外国人政策〜人口減少時代の日本の選択と出入国管理」。執筆者は、名古屋入国管理局長、坂中英徳氏(現:東京入国管理局長)。掲載誌は法務省入国管理局の外郭団体、財団法人入管協会が出している機関誌「国際人流」の2000年10月号だ。戦後日本における出入国管理は、大村収容所の鉄格子に象徴される、沈黙の中の暴力と隔離、対話なき峻拒において性格づけられていた(注13)が、坂中氏はその中でただひとり饒舌だった。坂中氏は70年代、公然と「在日韓国・朝鮮人自然消滅論」を唱えた。かれは在日韓国・朝鮮人団体からの批判をうけてもいっさい意に介さなかった。実際に「在日朝鮮人のアイデンティティーの源泉は実際には消滅しつつある」(灘本昌久『同和はこわい考通信』51号)状況が生じてきた80-90年代、坂中氏は自分の言ったとおりになりつつあることに悦に入り、かつての自分の主張を再確認する論文の執筆と講演を繰り返した(注14)。ところが、その坂中氏が、自分の見通しの確かさに悦に入っているだけでは済まなくなって書いたのが、この論考である。
 彼の危機感の背景には、今後「100年間で6000万人、年平均で60万人の人口が減っていく」という日本の人口減少がある。この人口減少に対して、入管行政の広告塔でありつづけるという、彼の、自らの使命への責任感がもくもくと頭をもたげる。いますぐに計画を作らなければならない。そのために必要なのは、アドバルーンを上げ、人々に警鐘を鳴らすことだ。
 アドバルーンを上げるために最初にやらなければならないこと、それは、勝手なところに飛んでいかないようにしっかりとした基盤を作ることだ。彼は自分の論考の冒頭部分でそれをやる。国民国家体制は21世紀も存続する……彼はまず、21世紀は「人の大移動」が地球的な広がりをもって展開されるが、主権国家体制は世界の基本秩序として存続し、「世界各国は、自国にとって好ましいと認める外国人の入国を許可し、自国にとって好ましくないと認める外国人の入国を拒否する『出入国管理』を厳格に実施」するはずだ、と宣言する。なぜか?「国民生活を守り国民文化を保持することが、国民共同体としての主権国家の存在理由そのものだからです」。
 実際にはどうか。彼のいう「人の大移動」の圧力原因となっている途上国、とくに後発発展途上国の多くは、「国民国家」という体裁をとってはいるものの、それは擬制にしか過ぎなかった。それはアフリカの国境線にもっとも象徴的に示される。旧宗主国がアフリカ分割のために好き勝手に引いた国境線は、独立に当たって、いっさい変更されなかった。その中で当初なされた「国民」の創造の努力(注15)は、いずれもが水泡に帰したと言えるだろう。そもそも弱体だったこうした「国家」の基盤を根底的に揺すぶったのが重債務と、その「対策」として80年代以降に展開された国際通貨基金(IMF)による構造調整政策だった。それまで社会保障や保健衛生、識字など基礎教育の部分を担っていた公共セクターが解体させられた結果、国家は「国民生活を守」るためのものでも、「国民文化を保持」するためのものでもなくなった。ソマリアやコンゴ民主共和国をはじめ少なからぬ地域において、軍・警察権力といった暴力装置としての国家機能それ自体が相対化して、国家はその領土の中に溶解する過程をたどったのは、その帰結であるといっても過言ではない(注16)。「出入国管理」とは、実のところ、先進国が作り出した、こうした世界構造の結果としてもたらされた「人の大移動」の圧力が、先進国の「主権国家」に及ばないようにするための「堤防」であるにすぎないのである。
 しかし、そんなことは彼の目には入らない。彼は世界を「主権国家体制」という同じ色にべったりと染め上げて舞台装置を作った上で「人口減少に対処せよ」と大書されたアドバルーンを上げる。そこで彼が示す処方箋は、なんのことはない、明治以降何度も繰り返し口ずさまれた古い歌、大日本主義と小日本主義の二項対立である。
 まず彼は、小日本主義の道筋を、わざわざイギリスの経済学者シューマッハーの「スモール・イズ・ビューティフル」を引いて紹介する。人口減少にあわせて、適正規模の「小さな社会」への道を歩むという方法がある、そこでは、「精神的な豊かさ」に積極的価値が置かれ、「快適な生活環境」の中で「ゆとりのある文化的な生活」を営むことができるようになる。一方、国民は「縮小社会」にふさわしい価値観とライフスタイルを持たねばならない、たとえば「贅沢な生活」から「質素な生活」へと。そして何よりも、この「小さな社会」への移行においては、「就労目的の外国人の入国を的確に阻止」できる「強力な出入国管理体制」を敷く必要がある……。
 このシナリオを紹介した上で、彼は次に大日本主義へのシナリオを示す。彼の示す大日本主義とは、現在の「経済大国」としての日本の地位を維持していくということである。そのためには、21世紀の前半中に日本は、「少なくとも1000万人単位の人材を海外に求めることが必要となる」。かつて日本は、この規模の「異民族」の受け入れを経験したことがない。日本は、日本列島に「太古から」住んでいる日本民族と、世界各地から新たにやってきた多様な民族で構成される「多民族国家」となる……。
 このシナリオに第一歩を踏み出すことを、彼はしばらく躊躇する。この方針を日本がとる場合には、日本は「日本人の外国人観」を改める必要がある。なぜなら、今の日本は「社会が外国人の才能を引き出して活用し、国民が外国人を『友人』あるいは『隣人』として遇するというような国」ではないから。だから、国民意識を改革し、「健全な異民族観・外国人観」を養わねばならない、そして彼は、「外国人に対して開放的な日本社会を作るための国民運動」を展開しなければならない……。それがあって初めて「様々な民族集団を日本国というひとつの国家秩序の下に」まとめていくことができるのだ、と述べる。そして彼は国民に号令する、「どちらを選ぶか、国民的大論争を!」

「治者の視点」への同一化を拒絶せよ

 坂中氏の主張には、数多くの誤謬がある。そもそも、「ひのもと」、つまり中国から見て日がのぼる方にある地域、と名付けられたこの弧状列島の住民の多くが、一定の同質性に従って自らを「日本民族」と命名したのは、実はさかのぼってもここ数百年のことに過ぎない。この弧状列島に棲息していた多様な人々は、昔から道をつくり船を浮かべてたがいに交流し、お互いの差異の中から同質性を確認していくという作業を常に続けてきたはずである。
 あるいは、戦後において日本人の「異民族に対する理解の度合い」が低かったとしても、その原因は、日本人の「国民性」なるものに本質主義的に還元されるべきではない。日本人をこのようにした要因のひとつは、明らかに「外国人は似て食おうと焼いて食おうと自由」(池上努・法務省参事官、1960年)ということばに代表される日本の閉鎖的で人種主義的な出入国管理体制のはずだ。彼はそのことにあえて目をつぶろうとする。
 しかし、坂中氏の主張における最大の誤謬は、「国家計画」への過信と、それを実現する権力への過信にある。それは、この論考の始めから終わりまで、終始貫かれている彼の視座、すなわち自らを「治者」と錯誤し、そこから発語しようとする、自らの位置に関する全くの勘違いに由来する。彼の号令「国民的大論争」は、勘違いの最たるものである。論争はいつ、どのように始め、いつ終わらせればよいのか。そこでの決定は、将来的に不変のものとなるのか。いったん決めたら、大日本主義と小日本主義の路線に変更はあり得ないのか。人口のドラスティックな減少という未曾有の経験の過程で、国家は、権力はそれ自体の本来的性質として大きく揺らぎ、揺さぶられるのであって、事前に論争をして決めたから、いささかのぶれもなく国家政策を進められるなどということはありえない。
 彼のレトリックの巧妙さは、「人口減少」という分岐点にあたって、全く新しい二つの処方箋を示しているように見えるところにある。しかし、本当はそうではない。実のところ、戦後日本は一貫して、彼の示す処方箋のひとつ、すなわち小日本主義のシナリオを進んできたのである。彼は「小日本主義」には「強力な出入国管理体制」が必要だ、と述べている。日本はすでに、これを入手している。日本の入管体制は、外国人排斥という目的においては、すでに他国に類を見ないほど強力である。いろいろ書いてあるが、彼が小日本主義について述べていること、それは、まとめてしまえば「今のままのシナリオで行くなら、縮小社会化を覚悟しなければいけませんよ」ということだけだ。こと小日本主義についていえば、彼の「計画」は準備万端整っているように見える。
 しかし、この「計画」にもアリの一穴は存在していた。「難民」がそれだった。前章で見たとおり、この制度の生命力は、迫害の存在する土地に緊縛され続けるという絶望の中にとどめ置かれた人々にとっての唯一の希望としてあるところにあり、その趣旨は、そんな彼ら・彼女らの「拒絶の意志」に応答するところにこそ存在する。難民条約は加盟国に、特定の理由に基づく迫害の恐れがあるために、国籍国にいることが出来ない者に、その人数を問わず、すべからく庇護を与えることを要求している。だからこそ、日本はこれまで、「先進国」の体裁を取り繕うために難民条約に加入しつつも、「事例を個別に検討する」としてあえて難民受け入れの一般的基準を作らず、帰国すればトルコ政府の迫害を受けることが火を見るよりも明らかな300人以上のクルドの人々を一人も難民認定せず、あまつさえターリバーン政権支配下にあったアフガニスタンで民族虐殺にさらされていたハザラ人たちを、難民申請中であるにもかかわらず強制収容し続けたのだ(注17)。
 これまでは、それで済んだ。しかし、今回は違った。落とし穴は、この体制の「強力さ」の中にこそしていたのだ。アフガン人たちの収容は、国際的に見ても残虐だった。昨年から今年にかけて、収容されたアフガン人たちの救援に、数多くの市民や法律家が奔走し、アムネスティ・インターナショナルを始めとする国際NGOが世界的なキャンペーンを展開した。そしてなによりも、アフガン人たち自身の命を懸けた抵抗によって、法務省が金科玉条としてきた「全件収容主義」(注18)それ自体に穴が空いた。そして難民への日本の冷たさを万人の前に示したシェンヤン日本領事館での中国官憲による北朝鮮難民の拘束事件によって、難民受け入れの是非を巡る議論は、「国家対市民セクター」という次元を越え、いまや政府部内、政権与党部内において難民受け入れ拡大に関する激しい議論と駆け引きが行われるという、これまでには考えられなかったような急激な事態の進展を招来している(注19)。
 もはや小日本主義という選択肢はあり得ない。この処方箋を失効に追い込んだのは、他ならぬ難民たちの決意、拒絶の意志だった。計画は必ず破綻し、計画者は現実によって必ず裏切られる。「人口減少時代」を生きる私たちにとってもっとも大切なこと、それは自らを「治者」の高みに置かないこと、「治者」の視線への同一化を拒絶することだ。戦争、政治的迫害、宗教的迫害、民族的迫害、性的指向に基づく迫害、暴力的な社会慣習による迫害、適切な医療を保障しないという迫害……生命を賭して、自らが緊縛されていた土地から逃れてくる人々の「拒絶の意志」と、そのダイナミックなエネルギーを統制しきることは、いかなる権力によっても不可能なのだから。

何が起こってもあわてない

 Sさんはパートナーを作った。知り合いたちを呼んでパーティーをした。私はSさんのことをいろんな人に知ってもらうために、多くの人をパーティーに誘った。「まえにパートナーと喧嘩したと言ってたじゃない。大丈夫なの?」と私はSさんに聞いた。「大丈夫、大丈夫」彼は答えた。パーティーで酒が切れ、近くの酒屋に買いに行って戻ってきたら、中は何か不穏な様子。心配していたことが起きたのだ。みんなの前でけんかするなよ。でも、もう後の祭り。収拾するためには、体ごとぶつかるか、何か芸を披露して目先を変えるかだ。Sさんと一緒に活動して、計画が計画通りにいったことなど一度もない。「何が起こってもあわてない」……水平の位置関係の中で、コミュニケーションを続けること。私の活路は、そこにある。


※Sさんの支援については、Sさんの支援グループ「チームS」が行っている。2002年10月現在も、
Sさんの在留権を巡る訴訟は東京地方裁判所にて継続している。Sさんの裁判や基本的な情報については、
たとえば「すこたん企画」ホームページ(http://www.sukotan.com/)の「シェイダさん支援活動コーナー」http://www.sukotan.com/shayda/shayda_top.htmlを参照のこと。
また、メールでの問い合わせはチームS電子オフィス(shayda@da3.so-net.ne.jp)まで。


<注>

注1:たとえば、ロイター通信はテヘランで2名の同性愛者が処刑されたことを1979年5月27日の報道で、ケルマーン州で1名が処刑されたことを80年7月3日の報道で、イスファハーンで3名が処刑されたことを82年9月1日の報道で伝えている。これらはいずれも、現地の新聞が報道したものを採録したものである。これ以外に、スウェーデンで在留権を認められたイラン人のゲイ男性が、1980年代初頭に、同性愛者の団体を結成しようとしたゲイとレズビアン70人が断崖からの投擲という方法により処刑されたと証言している。スウェーデンに本部を置くイラン人亡命同性愛者団体「ホマーン・イラン同性愛者人権擁護グループ」Homan: The Group to Defend the Rights of Iranian Gay and Lesbians はこうした証言などから、80年代に合計4000人以上の同性愛者が処刑などによって殺害されたと推定している。

注2:入管法違反に問われた外国人は、司法の領域に属する刑事手続と行政の領域に属する退去強制手続の対象となる。退去強制手続に関しては、違反の容疑に関して異議を主張し続けることによって、最終的に法務大臣の判断にかかることとなる。法務大臣は、当該外国人に対して在留特別許可を与えるか、もしくは在留特別許可を与えずに退去強制令書を発付するか、いずれかの方法で当該外国人への処分を行う。この処分は行政不服審査の対象とならないため、この処分に異議のある場合は通常、訴訟を提起することとなる。

注3:退去強制令書の発付は行政処分であるため、処分に不服がある場合は行政訴訟を提起してこの処分の違法性について争うこととなる。ただし、行政処分には「公定力」(処分が違法であっても、権限のある国家機関が取り消さない限り有効なものとして作用し、関係人を拘束するという力)があるため、行政訴訟を提起しただけでは退去強制手続は停止されず、退去強制が執行されてしまう可能性がある。そのため、これとは別に退去強制令書の執行停止申立を裁判所に対して行わなければならないのである。

注4:退去強制令書は「送還部分」と「収容部分」によって構成されており、退去強制令書が発付された段階で、当該の外国人は全員、入国者収容所に強制収容されることとなる(「全件収容主義」)。ただし、注3で述べた退去強制令書の執行停止申立を行った場合、退去強制令書の「送還部分」のみが執行停止され、「収容部分」は執行停止されないのが裁判所の通常の判断である。この場合、裁判の長期化によって収容も長期化する場合がある。こうした状況において、当該被収容者の体調が著しく悪化するなど、様々な要因によって収容の継続が不適切と認められた場合には、収容所長または地方入国管理局主任審査官は所定の手続のもとで当該外国人を「仮放免」することができる。

注5:難民の地位に関する条約第1条A(2)。

注6:Judgement of Apr.26, 1983, No.IV/I E 06244/81, Verwaltungsgericht Wiesbaden。
本件判決に関しては、Fullerton, Maryellen 1990 "Persecution Due to Membership in a Particular Social Group: Jurisprudence in the Federal Republic of Germany" Georgetown immigration Law Journal, Vol.4, No.3 Summer 1990 を参照のこと。

注7:Park, Jin S, 1995 "Pink Asylum: Political Asylum Eligibility of Gay Men and Lesbians Under U.S. Immigration Policy", 42 UCLA Law Review 1115 (1995)。この基準は1985年、米国移民控訴委員会がタクシーの運転手であったアコスタ氏 Acosta の事例に関して示したものである。

注8:Park, Jin S, 1995 "Pink Asylum: Political Asylum Eligibility of Gay Men and Lesbians Under U.S. Immigration Policy", 42 UCLA Law Review 1115 (1995)。この基準は米国第2巡回裁判所 the 2nd Circuit が1991年に「ゴメス対移民帰化局」 Gomez v. INS 裁判において示したものである。

注9:Asylum Project, International Gay and Lesbian Human Rights Commission (IGLHRC) "Human Rights Commission Asylum Project US Asylum Fact Sheet"。本資料はIGLHRC(国際レズビアン・ゲイ人権委員会)によりSさん弁護団に提供されたものである。

注10:たとえばUNHCR "Who is the Refugee?" (URL http://www.unhcr.ch/un&ref/who/whois.htm)を参照のこと。

注11:たとえばAmnesty International "Female Genital Mutilation" Section 6 "Female Genital Mutilation and Asylum" (URL http://www.amnesty.org/ailib/intcam/femgen/fgm6.htm)を参照のこと。

注12:たとえばCanadian HIV/AIDS Legal Network, 1996 "Us-Asylum Granted to Person Living with HIV", Canadian HIV/AIDS Policy & Law Newsletter, Vol.3-No.1, October 1996. (URL http://www.aidslaw.ca/Maincontent/otherdocs/Newsletter/October1996/15ASYLUME.html)を参照のこと。なお、抗エイズ薬(ARV: Anti retroviral Medicines)に関しては、その高価格により、全世界のHIV感染者・AIDS患者の95%が途上国に集中しているにもかかわらず、ほとんどの途上国で患者・感染者の手に届かない状況にある。これには、多国籍製薬企業がARVの価格を極めて高く設定していること、および米国が多国籍製薬企業の利益擁護のために、途上国によるARVの並行輸入や自国生産のための特許の強制実施権の発動の動きを厳しく規制しているという背景がある。途上国において適切なエイズ治療の実施が困難である理由のひとつは、こうした米国の政策があるという事実も認識する必要がある。

注13:日本の敗戦により朝鮮半島が日本の植民地支配から解放された後、強制連行されていた朝鮮人労働者を始め、百数十万人に及ぶ朝鮮人たちが日本から朝鮮半島への帰途についた。しかし、日本にかわって進駐した米ソの占領政策もきわめて過酷であり、戦乱や経済混乱、疫病の流行などが相次いだ。こうしたことから、いったん帰国した人々の一部が、とくに朝鮮半島南部からふたたび日本に向かうことになった。大村収容所は、こうした形で再入国した朝鮮人たちを強制送還するための収容所として、1950年に長崎県大村市に作られたが、再入国者と誤って収容・送還されるといったケースも相当程度存在したと思われる。梁石日は小説「夜を賭けて」の中で大村収容所について次のように描写している。「この社会と大村収容所は現世とあの世に似ており、 現世とあの世の間には茫漠とした時間と空間が横たわっているだけである。」

注14:たとえば坂中氏が「近江渡来人倶楽部」設立記念講演として行った「在日韓国人の過去・現在・未来」(URL http://www.tokyo-net.tv/index/anw/kakologu/sakanaka.htm)を参照のこと。

注15:たとえば、アンゴラの小説家ペペテラの「マヨンベ」(市ノ瀬敦訳、緑地社、1995年)では、アンゴラにおいてポルトガルからの独立戦争を展開したアンゴラ人民解放運動(MPLA)のゲリラ部隊における、「部族主義」の克服をめざした努力について強調されている。

注16:たとえば80年代にIMFによる構造調整を受け入れたタンザニアでは、公教育や識字運動への予算投入が減少した結果、就学率が減少し非識字率が増加した(たとえばURL http://www.oise.utoronto.ca/CASAE/cnf99/blount.htm を参照のこと)。ソマリアやコンゴ民主共和国など、アフリカのいくつかの国では、複数の反政府勢力が中央政府を凌駕する軍事的資源を所有し、当該国家の領土のかなりの部分を占有する一方、中央政府は首都を支配下におくにも他国の軍隊の支援を得なければならないといった状況が存在している。

注17:千葉県警と東京入国管理局の合同部隊は2001年10月3日、関東地方の数カ所でアフガン人たちの居所を急襲、合計十数名を拘束・強制収容した。拘束された人々のほとんどがイスラーム教スンナ派の政治的イスラーム運動であるターリバーン政権の迫害に直面して祖国を逃れたイスラーム教シーア派に属する少数民族ハザラ人で、すでに難民申請の手続きを行っていた。彼らはいずれも、百〜二百日の収容を強制された。現在、彼らの多くは「仮放免」(注4参照)の状態にあり、退去強制令書発付処分に関する行政訴訟を継続中である。

注18:「全件収容主義」については注4を参照のこと。

注19:たとえば自由民主党の亡命者・難民等に関する検討会(座長・中山太郎元外相)は「わが国の取るべき難民対策の基本的な方針」で旧来の制度運用に比べて一定進歩的な改革案を示した(2002年7月11日読売新聞朝刊などを参照)。しかし、政府はこの改革案のうちの一部のみを閣議決定したにとどまり、残りについては法務大臣の私的懇談会である「出入国管理政策懇談会」に設置された「難民問題に関する専門部会」での検討が終了するまで決定を見送ることとした。この背景には、政府・与党部内で難民・入管行政を巡ってはげしい駆け引きがあったものと思われる。

 


 



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