幼稚園から大学教育に至る18年間(法政での学生生活を入れれば20年間を越えるが)の教育体験を振り返るとき、私が特に重要と思われるのは、初等教育を受けた小学校での教育体験である。
中学校、高等学校における中等教育においても、思春期の精神的な問題や練習過剰とも思われるクラブ活動や進路選択の問題などをくぐり抜けてきたが、中等教育を受ける年齢となれば、あくまでも私個人の体験からの見解であるが、教師の指導方法や教育方針なども客観視出来るようになり、自らの中で意見の共通点や相違点を冷静に判断出来るようになる。しかしながら、初等教育においては、しばしば教師は神聖にして侵せない絶対的な存在になりうるのではないか。その意味で小学校での教育体験が現代日本の教育構造を考える上で重要であると考える。
私が上記の問題を考えるにあたり、取り上げたい小学校時代の教育体験とは次のようなものである。小学校低学年のある日に行われた担任教師による授業参観である。その授業参観が行われる以前から、担任教師は生徒に授業を受ける際、その教員独自の(小学校6年間で6人の教師から授業を受けたが、他の教師からそれを義務づけられたことは無かった)方法をとるように全員が義務づけられた。その方法とは、
一、生徒はノートをとる以外の時間は手をいすの背もたれの後ろで組んで、背筋を伸ばすこと。
二、挙手をする際も右手をあげ、左手は後ろのままにすること。
三、挙手をする際は指で何度指名されたかをサインする。
以上である。
その教師の指示に当然のごとくクラス全員で従った。その結果、クラスは教師を中心に模範的にまとまっているように見えた。何故ならば、授業中全員が教師に注目しているように見えたし、担任と生徒だけの合図をすることによって、教師と生徒が一体化しているようにも見えた。また、よく担任教師が注意していた「手悪さ」をする生徒もいなかったからである。
もちろん当時はそのことに対してそれほどの批判を持った記憶はない。しかし、クラス全員が同じ姿勢をしている姿と教師の満足げな表情に気付いたとき、よく訓練された運動会の組体操の演技をしているように感じた。しかしながら、参観をした父兄の感想は、担任教師の学級経営を誉めるものが多かったようである。このことは後日担任教師が私たちの「演技」を誉めて語ったと記憶している。
以上のような小学校での教育体験を一つのモデルとして、現代日本の教育構造について考察する。
第一にその長所である。上記モデルに代表される全体主義、集団主義と学習指導要領により、一度に多くの生徒に均一な水準の教育を行うことができる、という点である。
日本は先進国においても群を抜いて文盲率が低い。学生時代に米国に短期留学をした際外国映画のほとんどが吹き替えなのに驚いた。日本においては小学校低学年向けの映画でさえも字幕である。もちろん米国は移民の国であり、マイノリティは英語の読み書きが出来ない者が多い。その理由は日本のように単一民族ではないため、民族間の所得の格差もあり、一億総中流とはいかず、低所得者層の就学率が低いためである。日本とは諸条件が異なるため、比較は出来ないが、一つの例である。
また、時代は遡るが、日本の近代学校制度は明治5年(1872年)の「学制」および「被仰出書」に始まり、「必ず邑に不学の戸なく」に代表されるように以後急速に初等教育が普及し、1896年には義務教育就学率が50%を越えるようになった。欧米に比べても急激な普及率である。日本において教育は、上記のような国家的政策をとりながら、国民全体に一定の水準の教育を行い、初等教育を身につけた労働力を形成し、戦前、戦後とも日本の経済発展に一定の役割を果たしてきたのではないかと考える。
第二に短所であるが、これは長所と表裏一体である。戦前の「教育ニ関スル勅語」に代表されるような、個人の価値よりも全体の利益を重視する儒教的な思想が今日も潜在化し少なからず教育現場にも影響を及ぼしているように思える。私達の世代の上記モデルも一例である。私たちの世代は、いわゆる「丙午」の前年で特に子どもの数が多い世代であった。教室には、45人の子どもが生活し、またクラス数は二桁に近いこともあった。よって、子どもの個性を伸ばす教育よりも、指導要領に記載してあるカリキュラムを確実に、全員に消化させることに教師が腐心していたように思う。
個性を大切にしない教育は、様々なゆがみや問題点を生じさせることになるのではないか。
第三に教育のゆがみと問題点であるが、子ども一人一人の個性を大切にしない価値観は、「学歴主義」という社会構造を生み出したように思う。一旦生み出されたメカニズムは、親を駆り立て、教師は親に駆り立てられ、子どもは親と教師から駆り立てられ、深刻化してゆく。その苛立ちの中で、ある子はいじめ、ある子はいじめられ、ある子は学校に行けなくなる。これが現在噴出している教育構造の問題点であると思う。
最後に上記問題点を解決する方法であるが、いまだ学途上の私には特効薬は見いだせない。しかし、7月19日に提出された「中教審」の答申にある「生きる力」に期待したい。
しかし、少なくとも「中教審」の提唱する「生きる力」は表面的な気がしてならない。
真の「生きる力」の教育とは、タレイランの言葉のごとく、「幸福に生き、有益に生きる」すべを教える教育であり、究極的には「人間の最善の配分という、社会のうちでおそらくいちばんむずかしい問題の解決を準備する」力を蓄えることではないだろうか。
「教育原理」白井 慎 古沢常雄 法政大学通信教育部
「世界近代教育史」梅根 悟 黎明書房
「教育の探求」 大田 堯 東京大学出版会
「教育六法」 岩波書店
「近代教育の原則(近代の教育原則)」について論述し、この原則の発展の方向性について、あなたの考えるところを記しなさい。
近代教育の性格は、我が国においては、「教育基本法」に掲げられた理想に帰着し、近代教育の原則(近代の教育原則)は究極的には、その母法たる日本国憲法の精神に帰着すると考える。
近代教育の性格は、「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、心理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」教育基本法第一条(教育の目的)さらに「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所いおいて実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造発展に貢献するように努めなければならない。」教育基本法第二条(教育の方針)の精神を具現化するものとして、
一、教育の機会均等 教育基本法第三条
二、義務教育・義務教育無償 教育基本法第四条
三、教育の世俗性 教育基本法第九条
四、公共化 教育基本法第六条
五、男女共学 教育基本法第五条
六、実験的方法、科学的方法による教育(実学的傾向)
七、母国語による授業
八、計画的な指導と学習
以上のようにとらえることが出来る。
しかしながら、現実の教育は第一回の設題で示したモデルのごとく、あるいは、海後勝雄先生の示された「資本主義教育の基本原則」のように、かけ離れていると言わざるを得ない。また、教育基本法第二条の「学問の自由」、日本国憲法二三条の「学問の自由」や教育基本法の第一〇条の「教育は、不当な支配に服することなく」の精神からも遊離しているように思われる。
現実の教育は、前問でも記したように、初等教育、前期中等教育(現在は後期中等教育まで義務教育のごとしであるが)を身につけた安価で優秀な労働力を生産し、資本主義を発展させることになった。本来は、堀尾輝久先生が示された「古典的市民社会の理論から、論理内在的にみちびきだされる教育理論(近代教育の原則)の本質」の中の人権思想や子どもの権利、人間の内面形成にかかわる問題の国家の不干渉や子どもの学習権の確認と並行して、子どもの自発性が尊重され、つめ込み主義は否定される、などが必要なはずである。
しかし、教育の現状は、海後勝雄先生が示された「大衆の自覚と教育要求の高まりに対するブルジョワジーの譲歩の形で」発展していく。このメカニズムが「学歴主義」を生むと私は考える。すなわち、階級闘争の中でより豊かにと考える大衆が教育に対する要求を高め(行き過ぎて受験戦争を生みだし)、ブルジョワジーの譲歩の形で、つまり一部のエリートにのみ自らの席を譲る。これが「学歴主義」の本質ではないだろうか。
そして、大衆は「学歴主義」の陰に隠れた本質的な問題に気づかずにいる。権力はまた、気づかせずに問題をすり替えているように思われる。すなわち、教育が政治的に利用されている現実についてである。
権力は、子どもたちに「知性」を伸ばす教育を施し、他者に目がいかないようにし、「学歴主義」のメカニズムに組み入れていった。結果として、子どもたちは、自らに与えられた権利を忘れるに至った。
文部省による教科書検定が一例である。昨今になり社会科の教科書に「従軍慰安婦」などの歴史的事実が記されるようになったが、私が中学、高校生だったころには考えられなかった。事実、私は中学、高校生の頃は「従軍慰安婦」についての知識は持ち合わせていなかった。祖国の歴史を正確に知ることができなくても、「学問の自由」は保障されているのだろうか。
「近代教育の原則(近代の教育原則)」は、先に記したように、日本国憲法の精神に帰着すると私は考える。それ故その発展の方向は、従前までの「教育水準は高いが、正当な権利意識はきわめて低い」資本主義での生産関係に貢献する労働力を生産するのではなく、また社会の総生産力をあげるための一見合理的に見える「個性の伸長・能力主義」の方向でもなく、「たった一人の君、だから大切なんだよ」に代表されるような、真に個人を尊重する教育を行わなければ、現在噴出している、「学歴主義」「いじめ」「不登校」といった教育に関する諸問題を解決することは出来ないのではないか。
7月19日に提出された「中教審」の答申に「生きる力」を重視した教育を21世紀に向けて推進していくとあったが、表面的な「外国語」「環境」「情報」教育に終わることなく、自己を尊重し、同時に他者も尊重し、人類全てに与えられた、また今後与えられるむずかしい問題に対して、ともに解決出来るような、「よりよく生きるための」真の意味での「生きる力」を重視した、「人権の教育」が尊重される方向へ向かうことを切望する。
「教育原理」 白井 慎 古沢常雄 法政大学通信教育部
「現代教育の思想と構造」 堀尾輝久 岩波書店
「教育基本法はどこへ」 堀尾輝久 有斐閣新書
「教育の探求」 大田 堯 東京大学出版会