トマス・モアのユートピア思想についての一考察

CONTENTS

  序論

1 トマス・モアの生涯

2 ユートピア思想成立の時代背景

3 第一巻における16世紀初頭のイングランド社会批判について

4 第二巻におけるユートピア島の政治制度、法律制度、経済制度、市民生活の詳細から見る

モアのユートピア思想について

総括

参考文献

序 論

 歴史上のある事象について考えるとき、その事象それ自体やその事象に関係した人々についてはもちろんであるが、その事象を産み出す社会背景について検討することが必要である。

ある二人の思想家がたとえ同時代に生きていたとしても、地理的、政治、文化社会構造の違いにより、彼らの思考が全く異なる結果を導き出す(このことは、現代の我々の政治、文化、社会問題を考える上でも同様であるが)。

以上のことを知ればその重要性が理解できる。

トマス・モアのユートピア思想について考えるときにも、やはりモアが生きていた時代の彼が直面していた社会現実を理解する必要がある。従って、まず、モアの人となりについて考え、続いてモアが生きていた時代や社会情勢について考えてみる。その上で1516年に出版された「ユートピア」をもとに、モアのユートピア思想について検討して行きたいと思う。

 ユートピア(UTOPIA)とは、モアがギリシャ語をもじって作った造語である。

すなわち、U TOPI C であり、「どこにもない国」という意味になる。

(not) (place)(国名語尾)

ラファエル・ヒスロデイをして語らせた「どこにもない国」ユートピア島において、モアは、どのような理想郷を創造しようとしたのか。理想郷は真に理想的なのか。ユートピア思想の本質と問題点はなにか。以上を中心に考えていく。

1 トマス・モアの生涯

 1478年ロンドンにて誕生。父、サー・ジョン・モアはトマス・モアの祖父と同様に法律家であり、後には出世し、高等法院裁判所の判事を務めた。

 トマス・モアはセント・アントニ学院に通った後、12歳頃にキャンタベリ大司教であったジョン・モートンの屋敷に書生として住み込む。ここで様々な見聞を得る。

ジョン・モートンは少年トマス・モアを「この少年は今に必ず驚くべき人物になる」と評していたという。

 15歳になったモアはモートンの推薦によってオックスフォード大学に入学する。そこには、文芸復興の祖国イタリアに留学してきたヒューマニスト達がいた。モアはそこで新しい世界を感じることとなった。モアはギリシア語を学び、新しい文化、学問、人間観を中心としたヒューマニズムを知ることになる。しかし、父の希望により、法律家となるため、大学を去り、ロンドンのニュー学院、リンカン法学院で学ぶことになる。この間「痴愚神礼賛」のエラスムスと出会った。

1499年、エラスムス30歳、モア21歳の時と言われている。この二人は終生の友となる。

 1505年ジェイン・コルトと結婚した。結婚を否定し、宗教人として生きるか、結婚をして俗人として生きるか、悩んだ末「俗人」として生きる道を選んだことになる。

1510年には、ロンドン市の法律顧問となる。1511年妻ジェイン死去、まもなくアリス・ミドルドと再婚したが、主として子ども達の養育のためであったと言われている。

 1515年ヘンリー8世の外交使節団として大陸に渡り、ブルージュ、アントワープに滞在する。ここで市の役人を務めていたエラスムスの弟子のピータ・ジャイルズと交流した。

 アントワープ滞在中、モアは「ユートピア」の第2巻をラテン語で書き始めた。第1巻は翌年ロンドンにおいて書き上げられた。

1517年秋頃ヘンリ8世と枢機卿ウルジの懇望から宮廷に仕えることになったと言われている。その後ヘンリ8世の信任はあつく、1521年にはナイトの爵位を授けられ、1529年にはウルジの失脚の後大法官の重職に就いた。

 しかしながら、大陸で起きた「宗教改革」の波はイギリスにも押し寄せてきた。国家と宗教の問題もヘンリ8世が「信仰の擁護者」としてローマ教皇に忠節を誓っているうちは表面化しなかったが、ヘンリ8世の離婚問題に端を発し、イギリス国王とローマ教皇との間に対立が生じ、同時にモアとヘンリ8世の間も微妙な陰がさすこととなった。

教皇が認めた王妃キャサリンとヘンリ8世との婚姻を宗教に忠実なモアは否認することはできなかった。1532年5月15日キャンタベリの宗教会議は、ヘンリ8世を「われわれの唯一の守護者、唯一最高の主権者、しかしてキリストの律法の許し給う限りにおいて、われわれの最高の王」なることを承認し、モアは翌日大法官を辞職した。

 1533年5月ヘンリ8世の離婚は成立し、アン・ブリンの王妃としての戴冠式がウェストミンスター寺院にて行われたが、モアは出席しなかった。1534年には、議会において「王位継承令」が通過し、ヘンリ8世とアン・ブリンとの間に出生した子が王位を継承することを柱としたこの法に対して、モアに宣誓を迫ったが、教皇の権威を否定する内容が含まれたこの法を肯定することはできなかった。

 同年4月17日モアはランベスの査問委員会に呼び出され、ついにロンドン塔に幽閉されることとなった。議会において「国王首長令」と「大逆罪令」が通過し、モアは主としてこれらの法令に基づいて追求された。

 15ヶ月余り幽閉された後、1535年7月6日、断頭台の上で、現世の王にではなく天の王に身を捧げ、自らの信仰に殉じた。

  2 ユートピア思想成立の時代背景

 トマス・モアの生きた時代すなわち15世紀末から16世紀初頭のイギリスは文化的にも社会的にも激動の時代であった。

 中世西ヨーロッパの社会が頂点を極めたのは13世紀である。それ以降中世社会は徐々に衰退し、解体されることとなる。その中心的運動が「ルネサンス」と「宗教改革」である。ルネサンス運動の発祥の地は、イタリアであり、この地を中心として何世紀にも渡り様々な文芸活動がルネサンス運動として行われたのである。しかし、一言でルネサンスといってもこの運動はイタリアから西ヨーロッパの広い地域に伝播し、受け入れた国により多様な運動を展開した。

また、地域的多様性だけでなく、時間的にも大きな幅を持つ運動であった。従って、トマス・モアの生きた15世紀末のイギリスは、イタリアから始まったルネサンスの運動が、西ヨーロッパを北上し、ドーバーを越え辺境の島国に到達し、急速に社会は中世社会から近代社会へと変革していく正にその時であった。

中世社会から近代社会への移行は、封建制度の解体を意味する。封建制度とは、国王を中心とする身分関係(国王・貴族・僧侶・騎士など)が土地の封土的関係を基礎として成立している社会である。土地の支配形態は、前述の身分を持つ者が領主として1ないし数個の村落を領地として所有し、領地ごとにマナー(manor)と呼ばれる社会を構成する。

マナーを構成する住民のほとんどは農奴(villain)であるが、少数自由農民が存在した。

 マナー制度のもとで、農奴は領主の直営地で耕作労働に無償で従事しなければならなかった(労働地代)。しかし、農奴は奴隷とは異なり、生産手段を所有していた(勝手に処分することは出来ないが)。このシステムを領主が農奴に強制できた理由は、なにより農奴が土地に拘束され、転居、転職が不可能だったためである。また、結婚、相続なども領主の許可なしには出来なかった。ただし、自由農民は夫役による労働地代ではなく、地代を貨幣ないし生産物で納めた。

 しかしながら、イギリスの封建制度は、領主の支配が比較的緩やかで、農民の手元に剰余生産物が残る傾向にあったので、早くから農民の生産物である羊毛が輸出品として主要な地位を占め、農村部に商品経済が浸透するきっかけとなった。

 中世社会の都市部では、王や領主から保護されたギルド(guild)が形成された。当初は排他的な商人ギルドであったが、職人が増加すると、職種別ギルド(craft guild)が成立した。しかし、都市部のギルドにしても、一定の身分制により規定されていた。

以上のように、封建制度は農村部のマナーと都市部のギルドからなっていた。この封建制度がイギリスにおいては14世紀を境に次第に崩壊することになるが、その原因は農村部においては、地代の金納化である。前述のようにイギリスでは比較的早く商品経済が農村部に浸透し始め農奴の夫役の金納化が進んだが、14世紀の黒死病の蔓延により、労働力不足から労賃が高騰し、次第に領主は直営地を分割し、地代を金納させるようになった。これにより比較的裕福な農民は自由な身分を買い取り、没落した貧農の土地を吸収し、他方土地を失った農民は、自由農民の土地を賃金を得ながら、耕作することになり、農民層の分解が発生した。

 一方都市部のギルドも次第に衰退することになる。その理由は職人の増加により、多くの職人が親方になることが不可能となり、ヨーメン・ギルド(yeomen guild)と呼ばれる生産形態が生まれた。これは農村部において、半農半工の形態で特に毛織物を中心として発達した。

以上のような封建制度の解体をさらに早めたのが、地理上の発見が引き起こした商業革命である。コロンブスのアメリカ大陸到達、ヴァスコ・ダ・ガマの東インド航路の開拓などによる商品経済の市場拡大が理由である。新航路の開拓は、貿易の中心地をイタリア・ドイツからスペイン・ポルトガルへと移り、ヨーロッパからの主要な輸出品が毛織物であったことから次第にネーデルランドついでイギリスに移ることとなる。従って、毛織物の需要が高まるにつれ、羊毛の価格が高騰し、これにより、封建貴族、裕福な農民がマナーを構成していた領地を囲い込み、牧場化し始めた。

「第一次囲い込み運動」(enclosure movement)である。

 囲い込み運動は、封建社会において、農民を土地に拘束するものであったが、ここに来て一転して領主の権力は、農民を土地から追い出す方向に変化した。この農民からの土地収奪が他国より顕著に、時代的に先に、かなり暴力的に行われ、農民が無産化したことが、イギリスにおいて資本主義化を典型的に成立させる要因となったと言われている。

 以上のような社会背景の中で、モアは「ユートピア」を執筆した。ユートピアを世界のどこにあるかわからない島に設定し、世界各地を見て回ってきたというラファエル・ヒスロディという知的な冒険家の見聞録を聞く形式にしているのも地理上の発見および大航海時代というこの時代を象徴している。

また、第一巻において、窃盗罪が横行していることの理由として、「(イギリスの羊は)以前はおとなしい小食の動物だったそうですが、このごろではなんでも途方もない大食いで、その上荒々しくなったそうで、そのため人間さえもさかんに食い殺しているとのことです。(中略)百姓達の耕作地を取り上げてしまい、牧場としてすっかり囲ってしまうからです。」と物語的に語りながら、鋭く社会状況を批判していることもこの時代のイングランドの社会状態(第一次囲い込み運動)に関係しているのである。

 

3 第一巻における16世紀初頭のイングランド社会批判について

 「ユートピア」は二巻構成となっており、第一巻では、2章において記したイングランドの体制や社会状況をラファエル・ヒスロディなる法律・政治・文化に詳しい冒険家により、鋭く批判させている。具体的には、君主の宿命とも言うべき、領土拡張への野心や現代の官僚制度を思わせるような、宮廷内の役人の姿勢や絶対王政下でのあまりに厳しい法律による民衆の困窮とその原因とモアが指摘している第一次囲い込み運動に対する批判である。

 君主についての批判で特に総括的であると感じたのは、「人民の生活をよくするのにその富と幸福を奪う以外にはなんらうつべき手を知らないといった国王は、自由人を統治するすべを知らないことを白状すべきであります。しかし、問題はむしろ国王自身が自分の品行をあらため、放蕩をやめ、傲慢を去ることにあります。」の部分であり、以下国王をして他人に迷惑をかけることなく…と「国王をして…」と畳みかけるようにして、国王のあるべき姿を指摘している。

この部分から、モアの理想とする国王のあり方が理解できる。すなわち、国王自らが拝金主義を改めること、これにはユートピアの近くの国のアカリア人の王を例にあげている。そして、「自らの持てるものに満足せしめよ。」とあるように領土拡張の野心を戒め、また、国王自ら法律を遵守することの重要性を指摘している。特に法律の部分は、キリスト教(律法)について語られている部分とも連動すると考えると後のヘンリ8世とモアの宿命について考えさせられる。

 キリスト教についてラファエルは次のように語っている。「いかにもキリストの教えの大半は、私の話以上に、今日の世情にそぐわないものです。(中略)キリストの教義を勝手に歪め、あたかも鉛の物差しのようにそれを現実の世情に当てはめ、その結果どうにか両者が互いにうまくいっているのは賛成できません。」

以上は後のヘンリ8世の離婚問題にモアが反対することになるのを暗示しているようで興味深い部分である。

 宮廷内の役人については、権力者に追従する様子を皮肉っている。宮廷内でモアは順当に出世をしたように伝えられているが、キリスト者としての教義に忠実であらなばならない自分と俗人としての自分に苦悩した日もあったのだろう。

組織の中の処世術は、モアが生きた16世紀も20世紀の現代も共通している。

 第一次囲い込み運動により無産化した農民が、困窮のあまり窃盗をはたらき、たとえ空腹のあまり泣く子どものためのパン1個ですら、極刑が科せられる理不尽さについては、モーゼの律法を用いて不合理を指摘している。

また、キリスト者として「汝殺すなかれ」という神の戒めをもって、人間の法律が殺人をどの程度まで合法的とみなすのかという問題を中心に、宗教上の律法と人間の社会の法律との関係についてモアの考えが示されている。「あらゆる問題においても、神の戒めを守る範囲を決定するものは人間の法律にほかならない(後略)」ことについてキリスト者としてのモアの強い遺憾の意が感じられる。

また、極刑に代わる方法として、ポリレロス人(モアの造語)の法律を提示している。これは懲役など今日の法制度に近い部分があり、驚きを感じる。すなわち、罪人の人間性を重んじた発想であることについてである。「世界中のあらゆる物をもってしても、人間の生命にはかえられない、というのが私の意見なのです。」とあるように、この部分はモアのヒューマニズムが顕著に表れている。

 「極端な法行為はむしろ極端なる不法行為と称してもよいのではないでしょうか。」約500年前の法制度についての思想が現代のわれわれにも共通の問題を投げかけてくる。また、キリスト教の律法と人間の法律のせめぎ合いから、中世の神中心主義から近代の人間中心主義への移行という大きな時代の流れも見えてくる。

同時に時代の変革の中で過渡期の人としてのモアの苦悩も見えてくる。

4 第二巻におけるユートピア島の政治制度、法律制度、経済制度、市民生活の詳細から見るモアのユートピア思想について

第二巻においては、第一巻の現状分析と社会批判を踏まえて、国家の理想の姿がユートピア島として展開される。

 モアが描いた理想の国家制度は共和制である。「共和国(公共繁栄)という言葉を今でも使っている所は他にもいくらもある。けれども実際にすべての人が追求しているものは個人繁栄にすぎないからだ。何ものも私有でないこの国では、公共の利益が熱心に追求されるのである。」とあるように、ユートピア島においては私有財産制は認められていない。

なぜならば、私有財産制こそが、国家や人々を不幸に導く根本であるとモアは考えているからである。第一巻においても「財産の私有が認められ、金銭が絶大な権力をふるう所では、国家の正しい政治と繁栄とは望むべくもありません。」とユートピアの制度を裏付けている。

また、私有財産制が否定され、生産・分配のシステムが共産制が採用されているので、貨幣に対する個人の欲望は極端に減少している。軍事や外交交渉に国家としては貨幣の使用は認められているが、国内において個人が貨幣を使用することは許されていない。

よって、ユートピア島においては、通常の国の人々が持つ悩みがすべて消えるとしている。

 軍事については、「他の国々の習慣とはちがって、戦争で得られた名誉ほど不名誉なものはないと考えられている。」としており、すなわち自衛のためあるいは同盟国のための戦争は行っても自ら進んで領土拡充のための争いは否定されている。しかしながら、自衛のための民衆で組織された兵隊(男女とも)である民兵制度を容認いている。

 職業については、農業を主体として、その補助的に手工業が必要とされている。すなわち、「毛織業・亜麻織業・石工職・鍛冶職・大工職といったところで、このほかには特にとりたてていうほどの職業はない。」から、農業と自給の生活を補助するものとして手工業があるにすぎない。そしてほとんど全ての島民が労働に従事するため、一人の労働時間は一日僅か6時間である。

 上記から、家族や生活については、非常に重視され、家族での対話や団らんを大切にしている。6時間の労働の後の時間はそれぞれが有益と考える知的活動に充てる。「国民の大半が男も女も、肉体労働の余暇を利用して学問の勉強を一生涯続けようというのである。」とあるように、知的好奇心が「心の快楽」としてユートピアの人々が最も尊重している生活行動であるとしている。

もちろん精神でけではなく、肉体の快楽も否定はしていないが、しかしそれは健康を保つためのものであり、心の快楽に比べ、消極的なものとなっている。

宗教については寛容であり、人々は自分の信じるものを礼拝して良いとされている。しかしその寛容さ、神の愛、来世への希望などはやはりキリスト教がベースになっていると考えられる。「会堂の内部にはいかなる神の像も見られないのであるが、それはまた、各人が自分の信仰に従って自分の好きな通りに神の姿を心の中で描くようにとの心遣りからである。」の部分には、小学校時代に受けたプロテスタント教育がよみがえってくるのを感じた。

プロテスタントの教会には、神が座ってるとされている木で出来たいすがあるだけなのである。そこにはそれぞれがイメージする神が座られているのであると教えられ、私はどちらかというとイエス様をイメージして祈っていたような気がする。ここの部分からは、同時代のルターの「宗教改革」の端緒が感じられる。

 以上から考えられるモアのユートピア思想は、人を愛するモアのヒューマニズムと高潔な彼のキリスト教信仰を土台としての社会状況への批判的視線とその根元的な問題意識ゆえユートピアは「私有財産制否定」「貨幣崇拝否定」に示されるような共産制の社会であり、家庭生活、道徳、知的活動が尊重される神の子としての生き方を近代のそして現代のわれわれにも提案している。

モアの思想は一方で社会現実を現世中心的に直視しながら、しかし一方で、近代社会の中心概念である「私有財産制」や「貨幣経済」を否定し、現実には一部を除き、全ての人間がその世界を築くことは困難である「神の子としての生活」すなわち、ユートピアの思想をもって、社会に生まれ出つつある近代社会の問題を提起している。

総 括

ユートピア思想の背景を成しているのは、古典文学・プラトン哲学・キリスト教であるとモアの親友エラスムスは指摘している。確かに「ユートピア」を読み、法律家・宮廷の官吏としてのトマス・モアよりも人文学を愛し、人間を愛したキリスト者としてのトマス・モアの方がよりモアの人柄がより鮮明になるように思われる。

 4章の最後に述べたが、「神の子の生活」について考えてみたい。今世紀も残り4年余りとなり、世紀末現象なのか、ここ100年余り歴史の表舞台に登場することの無かった宗教の問題がクローズアップされている。

日本においてはオウム心理教の問題が記憶に新しいが、アメリカにおいてもキリスト教原理主義の復活や中流層の保守化の傾向を示していると言われ、また社会主義が崩壊したロシアにおいては世界中からありとあらゆる宗教が進出したと聞く。現代は人々の心がモアの主張したユートピア思想を求めているのかもしれない。

例えば北米を中心として田園生活を営んでいるアーミッシュの人々である。彼らの生活は、ユートピア島の人々に共通点を見出せる。同じ服を着て、自給自足の生活をし、刺激を嫌い、精神の安定を求め、家族を愛し、キリスト教の教えを実践する。

 だだし、ここで私が疑問に思うことは、ユートピアが万人にとって救いとなるのかという問題である。同じ物を着て、同じような仕事をして、貨幣経済を否定し、全ての人が同じような価値観をもって生活することが、人間の苦しみを救うことになるのだろうか。

ユートピア島には必要なものは全て豊富にあるが、必要でない物は何もない。芸術家も芸能も。尊ばれる仕事は農業だからである。モアが社会の現状を直視し、その解決を経済活動においては農業に求めたことには、疑問を感じる。また、中世から近代への移行の時期において、宗教からの国家の分離、国家と宗教の逆転現象が起ころうとしている時代にキリスト教の教えへの回帰を志向していることに過渡期のキリスト者、思想家としての複雑さがあると思う。

 最後に、先の宗教回帰現象であるが、様々な価値観が混在する現代社会においこそ、逆に単一の価値観を人々が志向することになるのかもしれない。

以上

参考文献

1 ユートピア   トマス・モア著 平井正穂訳   岩波文庫

2 社会思想史講義 山中隆次 中村恒矩 藤田勝次郎編 新評社

3 経済学史 時永 淑 法政大学通信教育部

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